ジャノメ食堂へようこそ 第2話 初めての団欒(1)
黒い断崖のような森の中は持ってたよりもずっと心地良く、温かかった。
青々とした澄んだ匂い、所々から聞こえる葉々の擦れる音にリスか鳥の囀る声、そして日が昇るにつれて変化していく光景。
そのどれもがアケに取っては初めて感じるものでその度に小さな恐怖と好奇心が胸を打った。
黒狼は、森の中を静かに悠然と歩く。
これだけの巨体なのに木にぶつかるどころか枝に擦れもしない。まるで木々が傅き、恐れ多さに自ら身を捻っているかのようだ。
その後ろを白兎と背中の燃えた猪はゆっくりと付き従う。篝火のように燃えた火に木が触れても燃えないのが不思議だった。ひょっとして見た目よりも温度が低いのだろうか?そう言えば近寄られている時も温かいとは感じても熱いとは感じなかったような・・・。
「身体は辛くないか?」
黒狼が低い声で聞いてくる。
その声は威厳と威圧を感じるもどこか優しかった。
アケは、その声を聞くと何故か安心した。
「はいっ。ご配慮ありがとうございます」
アケは、黒狼の身体にしがみついたまま頭を下げる。
黒狼は、それ以上は何も言わずに前に進む。
アケは、黒狼の黒い体毛の中に身を埋める。
花のような香りがとても心地良かった。
森を抜ける。
雲海を抜けた太陽が昇り、赤く焼けた青空がどこまでも広がる。
アケの蛇の目に飛び込んできたのは溺れそうなくらい広い草原だった。
生き生きとした木々、力強い葉脈を映す草、可憐に咲く色鮮やかな花々・・。
19年間、白蛇の国の用意した小さな屋敷に保護という名の監禁されていたアケに取って、こんな広く、美しい光景を見たのは生まれて初めてだった。
アケは、感情の筋が震えるのを感じ、蛇の目が潤んだ。
まさか人生の最後を迎えるかもしれない時にこんな美しい光景を見られるなんて・・・。
黒狼は、黄金の双眸を背に乗るアケに向ける。
しかし、何も言わない。
ゆっくりと歩みを進めるだけだ。
草原の先に小さな青い点のような物が見える。
視力だけは良い蛇の目がそれを捉え、瞼が細まる。
(たて・・・もの?)
それは青い尖り屋根の円柱の建物のように見えた。
しかし、黒狼の住む猫の額に建物なんてあるはずがない。アケはそう思い込んでいたが近づくに連れてそれが錯覚ではなく、本当に円柱の屋敷であることが分かり、蛇の目が震えた。
塗装の剥げ、瓦の割れた青い屋根、カビと苔と蔦に覆われた外壁、蝶番の外れ、雨戸の垂れ下がった窓という窓、そして扉のない口を開いたような正面口・・。
本で読んだお化け屋敷そのものだ。
黒狼は屋敷の前で足を止めるとその場に座り込む。
「降りれるか?」
「はいっ」
アケは、黒狼の身から手を離すと滑るように草の上に降りた。
柔らかい。
素足に草の心地良い感触が直に伝わる。
白兎と猪は、黒狼の一歩離れたところで立ち止まる。白兎は、右手を左肩に当て、猪はその場に身を伏せる。
「家精」
黒狼は、低い声で屋敷に向かって声を掛ける。
円柱の屋敷が身じろぎするように震える。
外れかけた窓が揺れ、瓦がピアノのように上下に音を立てる。
ぽっかりと開いた正面口に人影が現れる。
アケは、蛇の目を大きく開く。
人の気配なんてまるでしなかったのに・・・。
そこにいたのは絶世という言葉以外当てはまらない美しい女性だった。
空色のふわりっとしたマンチェアを優雅に身に纏った長い金糸の髪にフリルの付いた白いカチューシャ、陶器のように滑らかな肌、卵のような丸みのある輪郭と切長の目に長い鼻梁、そして衣服越しにも分かる女性として整った体形・・。
ただ、一つ人間と違うのがその姿は朧のように青白く揺れているということだ。
まるで蝋燭に灯された炎のように。
「これはこれは王・・」
女性は、マンチェアのスカートを両手で摘み、優雅に頭を下げる。
「王がこのような場に足を運ばれるのはどれくらい振りのことでございましょうか?この家精、感激に身を震わせております」
家精に呼応するように朽ちた屋敷は震える。
「突然、来て悪かった」
「いえ、王ならいつでも歓迎致します」
家精は、深々と頭を下げる。
「それで今日はどんなご用件で。また、白蛇の国の者どもが持ってきた貢物の保管でしょうか・・?」
「保管か・・」
黒狼は、黄金の双眸を細める。
「あながち間違っていないのが皮肉だな」
そう言って黒狼は、アケに前に出るよう言う。
アケは、言われるがままに前に足を踏み出す。
家精の切長の目が大きく開く。
「この者を休ませてやってくれないか?」
えっ?
アケは、黒狼の言葉に驚き、蛇の目を向ける。
「まあまあ!」
家精が歓喜の声を上げる。
「こんな可愛らしい方が私をお使いになられると⁉︎」
家精の美しい顔が輝く。
アケの顔が固くなる。
家精の反応に驚いたのもあるがそれ以上に・・・。
(可愛い?)
私が?
こんな醜い私が⁉︎
しかし、そんなアケの心境など気にもせず黒狼は鼻の頭でアケの背中を押す。
白無垢でバランスの取れないアケはそのままよろけて家精に胸に倒れ込む。その華奢な身体は確かにあるのに温もりも感触も感じなかった。
「お嬢様、私にようこそ」
家精は、優しくアケの手を握る。
「では、参りましょう」
そう言うと家精は、黒狼達に頭を下げて嬉々としてアケを屋敷の中に引っ張り込む。
黒狼達は、何も言わずに二人を見送る。
アケは、何が起きたか分からないままに家精に手を引っ張られる。
屋敷の中は外見と同様に散らかり放題、汚れ放題であった。
木板の廊下は埃で汚れ、所々が抜けている、白かったはずの壁は油のようなもので汚れ、本来の色を失い、天井の隅には蜘蛛の巣が張られ、窓は外から見た通りに外れ、曇り、透明度を失っている。
家精は、豪快に音を上げる階段をアケを引っ張り上げながら登り、一階と変わらない汚れた廊下を歩きながら一つの扉の前で止まる。
その扉だけはまるで汚れてない。
美しく、品のある金の取手の付いた木の扉は昨日も普通に使われたように真新しい。
「たった今綺麗に致しました」
家精は、柔らかく微笑む。
アケは、言っている意味が分からず蛇の目を顰める。
「どうぞお寛ぎ下さい」
そう言って触れてもいないのに扉がゆっくりと開く。
アケは、蛇の目を疑う。
輝くような白い壁。
どこまでも透き通った大きな窓に清潔な生形のカーテン、踏んだかどうかも分からないような柔らかい赤い絨毯、そして部屋の中央に置かれた金の天蓋の付いた大きなベッド・・。
それはアケが本で読んだ物語に出てくるお姫様の私室のようだった。
「お嬢様のお部屋にございます」
家精は、両手でスカートを摘み、頭を下げる。
「急拵えで申し訳ありませんがどうぞゆったりとお休み下さい」
「えっ?」
「そのお服はお脱ぎになられた方がよろしいかと。では・・」
そう言うと家精は、ゆっくりと扉を閉めて出ていく。
一人残されたアケは何が起きたのか分からないままに部屋の中を見回す。
一体、どうなっているのだ?
なんで自分はこんなにも優しく受け入れられているのだ?
予想もしないことが幾つも起きて頭が破裂しそうだ。
アケは、ゆっくりとベッドに近寄り、天蓋の冷たい柱に触てベッドの上に腰を下ろす。
その瞬間、急に身体が重くなる。
目の前が霞む。
頭がクラクラして何も考えられない。
アケは、そのままベッドの上に倒れ込む。
綿帽子が外れ、アケの絹のような滑らかで長い黒髪が散らばるように広がる。
アケは、蛇の目を開けておくことが出来ず、そのまま眠りの中に落ちていった。