看取り人 エピソード5 失恋(2)
日が沈む。
先輩は、公園のベンチに座り、切長の右目でその光景をぼおっと眺めていた。
見覚えのある公園。先輩と叔母さんの住む家の近くにある近隣で一番大きな森林公園。
遊具はなく、小山になった広大な芝生と植林されて鬱蒼と茂る木々に囲まれ、春は桜、秋は紅葉と市内でも人気の高い公園だ。
(私……どうやってここまで来たんだろう?)
自分がどうやってここまで来たのかまるで覚えていない。
ショッピングモールの憩いの広場で衝撃を通り越した痛みを伴う場面を見て……茫然自失になっているのをオミオツケに手を引かれて抜け出し、必死に声を掛けてくれている彼女を無視して、置いて、いつの間にかここに来ていた。
(なんでここに来たんだろう?)
真っ直ぐ帰ればいいのに。
お風呂に入って、ご飯食べて、卵焼きを全部ゴミ箱に捨てて、そのまま死ぬように眠ればいいのに。
それなのに自分は、彼の為に作った試作品の卵焼きの入った袋を大切に抱え、ベンチに座って、沈む夕日を見ている。
なんで……なんで?
先輩の視線が下に落ちる。
眼前に広がる植林された森の、少し奥にある大きなウロのある木が目に飛び込んでくる。
その木に見覚えがあった。
いや、決して忘れる訳がなかった。
そこは幼い頃、彼と初めて出会った大切な場所だから……。
先輩の切長の目から涙が一筋流れる。
ずっと蓋をしていた、認めたくなかった感情が胸を叩く。
そうか……私は……。
「失恋……したんだ」
その瞬間、感情と涙が一気に溢れ出る。
嗚咽が漏れ、悲しみと絶望が全身を叩き伏せる。
先輩は、人目も憚らず大声で泣いた。
泣いて泣いて泣き続けた。
犬を連れて散歩する人が、ランニングしている人が、家路に着こうとする子どもたちが一斉に先輩を見るも、どう声を掛けたら良いか分からず、狼狽えながらただ傍観していた。
それが先輩にはありがたかった。
今は一人で泣きたかった。
泣いて泣いて泣き続けたかった。
どれだけ泣いたのだろう?
既に夕日は落ちて薄明るい夜空には星が幾つか浮かんでる。
もう顔は涙と鼻水でびちゃびちゃで、声も枯れて喉がいたい。
なのに気持ちはまったく晴れなかった。
でも、帰らないと……。
叔母さんが心配する。
先輩は、指先で切長の右目に浮かぶ涙を拭い、ベンチから立ちあがろうとする、と。
目の前に青いタオルハンカチが現れる。
「まだ、濡れてるよ」
優しい声が耳朶を打つ。
先輩は、驚いて顔を上げると白髪の男が和かに微笑んで先輩を見ていた。
先輩は、恐怖に顔を引き攣らせて身体を引く。
「怪しい者じゃないよ。って言っても説得力ないか」
白髪の男は、ははっと困ったように笑い、窶れた頬を細い指先で掻く。
「あ……貴方は?」
先輩は、声を震わせて訊く。
「このベンチの常連だよ」
白髪の男は柔らかな口調で言い、手に持ったタオルハンカチを先輩に差し出す。
「とりあえず顔を拭こうか?可愛い顔が台無しだよ」
可愛い……。
先輩は、頬が熱くなるのを感じた。
「洗ったばかりだから清潔だよ。安心して」
白髪の男は優しく微笑む。
その顔は言葉通りにどこか安心させるものがあった。
「ありがとう……ございます」
先輩は、タオルハンカチを受け取るとそっと目元に当てる。男の手が冷たいのかタオルハンカチの表面は冷たくて気持ち良かった。
先輩は、そっと涙に濡れた顔を拭いてきくとタオルハンカチの表面はしとっと濡れ、色が変わる。
こんなに泣いていたんだ……と先輩は驚く。
「すいません。汚してしまいました」
「構わないよ」
「洗ってお返しします」
「構わないよ」
白髪の男は、優しく言って先輩の手からタオルハンカチを取る。先輩は思わず「あっ」と呟くも濡れたタオルハンカチは男のポケットの中に収まってしまう。
「で……」
白髪の男は、先輩をじっと見る。
「君は何を泣いてたのかな?」
「それは……」
先輩は、切長の右目を恥ずかしそうに反らす。
「ベンチに座りあったのも何かの縁。話して見ないかい?スッキリするかもよ?」
男は、笑みを浮かべて言う。
優しい笑み。
沁みるような温かい笑み。
その笑みを見ていると何故か彼に話したくなってしまった。
「失恋……しました」
先輩は、膝の上できゅっと両手をに握り、下唇を噛み締める。
そうしないとまた泣いてしまう。
先輩は、肩を震わせて必死に堪える。
そんな先輩を白髪の男はじっと見つめる。
「そうか……」
白髪の男は呟き、右端の口角を釣り上げる。
「おめでとう」
えっ……?
先輩は、弾かれるように顔を上げる。
この男は今何と言ったのだ?
おめでとうっと言ったのか?
私が失恋したことを?
先輩の心に怒りが湧き上がる。
他者に、初めて会った人間にこんなに怒りを感じたのは生まれて初めてかもしれない。
先輩は、切長の右目で白髪の男を睨みつける。
しかし、男は笑みを絶やさない。
優しい表情でじっと先輩を見る。
「ごめんね。無神経だったね」
男は、小さな声で謝る。
「当事者である君からしたら身を抉られるような痛みだろうからね。良かったなんて思えるはずがない。今は……ね」
白髪の男は、反対側に置いてある何かを取ってゆっくりと立ち上がる。
それは木板で出来たバインダーで。それに挟まっていたのは……。
(便箋と……封筒?)
綺麗な薄桃色の便箋に花の描かれた長方形の封筒。
とても男が使うような物ではない。
先輩は違和感を覚えてじっと見る。
「邪魔して悪かったね。今日はここを譲るよ」
白髪の男は、和やかな笑みを浮かべる。
「今日はゆっくりと泣くといい。いっぱいいっぱい泣くといい。そうすれば……」
男の細く、白い手が唐突に伸びて先輩の頭に触れる。
先輩は、身体を大きく震わせて硬直させる。
「君は、一つ成長して出来る」
「……成長?」
男の言葉の意味が分からず、先輩は言葉を反芻する。
「ああっ」
男は、優しく頷く。
「だからこそのおめでとうだよ」
男は、先輩の頭から手を退ける。
「ごめんね。こんなおじさんに頭を撫でられるなんて嫌だったよね?」
「いえ……そんなことは」
確かに最初はびっくりして怖かったけど、白髪の男のひんやりとなからもほのかに温かい手を先輩は不快とは思わなかった。
むしろ……。
(気持ち良かった)
まるで叔母さんに頭を撫でられているかのようだった。
「もう……会うことはないと思うけど……元気でね」
白髪の男は、先輩に背を向ける。
「君ならきっと前に進めるよ」
そう言って白髪の男はゆっくりと歩いて去っていく。
先輩は、遠ざかる白髪の男の背をじっと見る。
彼に撫でられた感触だけがいつまでも残った。