![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/125714011/rectangle_large_type_2_bbeba4fea23553602aff781d4a34fc78.jpg?width=1200)
明〜ジャノメ姫と金色の黒狼〜 第9話 汚泥(6)
(愚か者、愚か者、愚か者!)
胸中で何度も繰り返し叫びながらツキは森の中を走る。
アケが飛び出した時間とツキが追いかけ始めた時間に大きな差はない。しかし、森のどこを探してもアケの姿は見当たらない。
アケが猫の額に来てまだ半年と3ヶ月程。
しかし、その短い時間の間にアケは何度も森の中に入り、山菜や果物、薪の材料なんかを仕入れてきた。恐らく、彼女しか知らない独自のルートもあり、もはや長年の住んでいるツキよりも森の構造に詳しくなってるかもしれない。
それに加えて・・・。
(生臭い!)
ツキは、鼻を歪め、憎々しく空を見上げる。
黒い空の上で暴れる、のたうち回る竜魚達。
鱗が削れ、剥がれ、血が降り注ぐ。
その為に吐き気を催す臭いが充満し、鼻がまるで効かない。
「くそ!」
ツキは、苛立ち、右の前足で地面を踏みつける。
「この・・愚か者が・・」
胸中で呟いていた言葉を口より漏らす。
しかし、それはウグイスに対して向けたものではなく、
(俺は、本当に愚かだ)
自分に対して向けたものだった。
(何故、気づかなかった!)
今朝、アケを見た時から予兆はあったはずだ。
なのに見逃した。
ただの体調不良と心配するに留まった。
何が王だ!
何が夫だ!
何も知らなかった白蛇よりも遥かに自分の方が愚かだ。
ツキの脳裏にとある光景が蘇る。
アケを妻として迎えると決め、彼女の身体が癒えてきた頃、2人は簡単な祝言を上げた。
祝言と言ってもその場にいるのはツキとアケ、媒酌人の代わりとしてオモチに立ち会ってもらうだけの簡素なものだ。
白蛇の国には鴉を使って妻として娶ることにしたと伝えたが猫の額に来ることもなければ祝辞の言葉が届くこともなかった。
祝言を上げた方が良いと言ったのはオモチであった。
「王、女の子に取って祝言とは憧れですよ」
オモチにそうは言われたが人間の生活に疎いツキにはいまいちその事を理解することが出来なかったが、身体が癒えて料理をしていたアケに祝言のことを伝えると驚き、そして花が綻ぶような満面の笑みを浮かべて喜んだ。
彼女がちゃんと笑ったのはこれが初めてかもしれない。
その笑顔を見た時、ツキも「ああっこれで良かったのだ」と嬉しくなった。
そしてアケがここに来る時に着てきた白無垢を纏い、料理を並べ、オモチが何でどう知ったのか分からない祝詞を歌い、以前に供物として捧げられた酒で三三九度を行い、2人は晴れて夫婦の契りを結んだ。
アケは、とても幸せそうな顔をしていた。
口にこそ出さなかったが、この娘が笑顔を浮かべられるようになったことが本当に嬉しかった。
そして夫婦となったからにはやるべきことがある。
それはどの国であろうと、どんな種族であろうと変わらない。
アケに一緒に寝ようと言うと彼女ははにかみながら頷いた。
そしてツキは、彼女に使わせていた寝室で2人で入り、口付けを交わしてから服を脱がし、その次に進もうとした時。
彼女の顔に恐怖が走った。
身体が、蛇の目が小刻みに震える。
「主人、やっぱり私のことを嫌いになったの?」
それは見えないものに恐怖する子どものようであった。
「醜いから?不気味だから?それで殺すの?」
アケの口から溢れる言葉にツキは王としてあるまじき狼狽をした。
アケは、生物としての営みを知らなかった。
ツキと一緒に寝られることが純粋に嬉しかったのだ。
物心ついた時からずっと1人で寝ていたから。
営みを知らないのは別にいい。
知らないならゆっくりと教えればいい。
しかし、彼女はその行為に及ぼうとするツキが自分を殺そうとしていると感じ、さらにはその理由をツキがアケのことを嫌いになったからと捉え、怯えたのだ。
「主人・・嫌だよ・・嫌わないで・・主人に嫌われたら私・・私・・・」
アケは、蛇の目から涙をボロボロと溢し、細い両手を伸ばして子供のように許しを請うように懇願してくる。
ツキは、唇を小さく噛み締め、アケの身体を起こしてそっと抱きしめた。
「怖い思いをさせたな」
ツキは、優しくアケの背中を摩る。
「俺がお前を嫌うわけがないだろう。だから安心するんだ」
そう言うとアケは、涙を流し、嗚咽しながらツキを抱きしめ、そのまま眠ってしまった。
アケがあのような状態になることはそれ以来なかった。むしろアケは見違えるほどに明るくなり、よく働き、ツキ以外とも穏やかに話し、周りからも好かれ、そして様々な経験を得て健やかでしなやかな強さを持っていった。
しかし、それでも時折見せる糸で作られた吊り橋のような不安定さ。
特に香木の件の時に見せたあの危機迫る精神の瓦解。
アケの強くなった心の奥にまだ汚泥のような痛みと苦しみが残っているのだと改めて知った。
しかし、それでも立ち上がり、自ら行動し、前を進んでいくアケにツキは安心し、そして油断してしまっていた。
(この愚か者が!)
ツキは、自分を深く呪った。
ツキは、鼻を動かしアケの匂いを探る。
しかし、龍魚の臭いに全て覆い尽くされている。
(アケの守護用の魔法陣も使い切ってしまっている)
ツキは、悔しく歯噛みする。
止まってはいられない。
ツキは、再び走り出そうとした。
「お困りかい?犬っころ」
声と共に背中に激しい衝撃と重しが響く。
ツキは、重くなった背を見ると新緑の光に包まれた巨大な青い猿が背に跨っていた。
「青猿・・」
ツキは、鼻の頭に皺を寄せて唸る。
「そういきり立つなって」
青猿は、にっと口元を釣り上げると、身体を包む深緑の光が激しく光り、青猿の身体を掻き消す。ツキの背中から重みが消え、光が萎んでいくと長い髪の美しい女性がツキの首元で胡座をかいていた。
「この臭いで鼻が効かねえんだろ?」
そう言って綺麗な筋の通った自らの鼻を触る。
「うるさい。構うな!」
ツキは、今にも青猿を首から落として噛みつきたい衝動に駆られる。
しかし、青猿は、少しも臆した様子を見せず、両手を左右に伸ばす。
「いや構うね」
左右に伸ばされた両手の平に深緑の魔法陣が展開する。
「アケは、私の娘なんでね」
次の瞬間、両手に展開された深緑の魔法陣から淡い光が発せられ、森の木々を照らし出す。
光りに照らされた木々は痒がるように身をくねらせ、反り上がるように身を返し、土に覆われた地面を剥き出す。そこに赤く輝く花々が線を引くように生え、道を作り出す。
「植物にアケの辿った道を造らせた。これを・・」
しかし、青猿が言い終える前にツキは花の道を辿って走り出す。
風に成り変わったかのような速さ。
しかし、青猿は悠々とツキの首筋に座る。
「なあ、黒狼」
青猿が走るツキに呼びかける。
しかし、ツキは答えない。
「この後の顛末によっちゃまた喧嘩してでもアケを私の国に連れてくぞ。無理やりにでもな」
青猿の言葉にツキは、何も言わなかった。
ただ、黄金の双眸が波打ち揺れる。
青猿は、苛立ちに唇を曲げ、右足を伸ばしてツキの頭上に思い切り落とす。
しかし、ツキは、速度を緩めない。
「お前、アケの夫だろうが!ならしっかりとあの娘の心が何を求めてるのかしっかりと考えろ!」
「・・・お前に言われるまでもない」
ツキは、唸りと共に小さく、しかし強い口調で答える。
青猿は、それ以上は何も言わず、口元だけ釣り上げた。