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ドレミファ・トランプ 第五話 ポンコツとルビー(1)
それは四葉が小学校三年生の時のこと。
その時の四葉は、行く宛もなくBEONの中を彷徨っていた。力なく施設の中を歩き、人の流れに引かれるように屋上に行き、一筋の明かりを求める亡者のように騒がしい演芸イベントの会場に足を踏み入れた。
そこに彼女はいた。
舞台の上でピアノと向かい合う彼女。
キラキラと光る長い黒髪を振り回し、お人形のような綺麗な顔に大きな笑顔を浮かべ、青い瞳を煌めかせ、小さな身体を大きく揺らしながら白くて細い十本の指で艶やかにピアノを打ち鳴らし、情熱的で熱い音楽を奏でる。
まるで紅玉のような熱い旋律を。
その演奏は会場の観客を……四葉の心を魅了した。
空から舞い降りた天使のような彼女の美しさに目を、心に響き渡るような演奏から耳を離す事が出来なかった。
それが四葉と馬場明璃との初めての出会いだった。
「明璃さんの演奏を初めて聞いた時、私は背筋が震えました」
その時の高揚感を思い出し、四葉の目が輝き、口元に小さな笑みが浮かぶ。
「この子……本当に人間なのかな?って。本に出てくる音楽の妖精がそのまま飛び出してきたんじゃないかって本気で思いました。それくらい……彼女は綺麗で……ピアノはまるで歌っているようでした」
四葉の感想を聞いて、大愛は、彼女の会ったのは間違いなくルビーだと確信した。
何故なら四葉の口から出た感想は、大愛がルビーの演奏を初めて聞いた時のものとまったく同じであったから。
(そう言えば……昔、BEONのイベントに参加したことがあるって言ってたような……)
「彼女の演奏を聴いたのはたまたまでした」
四葉は、きゅっと自分の手を握りしめる。
「その時の私は……家出してたんです」
「家出⁉︎」
大愛は、目を丸くして驚く。
地味で大人しい優等生の四葉と家出と言う凶暴な言葉がどうしても結び付かなかった。
四葉も大愛が驚いていることに気づくが構わず話しを続ける。
「当時の私は……家に居場所がなかったんです」
四葉は、寂しそうに笑う。
そんな四葉の顔を夜空が紅茶を啜りながらじっと見る。
「居場所がない?」
大愛の言葉に四葉は頷く。
「見て分かるように私の家って旧家なんです」
いや、見てないから分からないよ、と大愛は突っ込みそうになるが夜空は心配そうに、心が無関心そうにケーキを頬張って口を汚しながらもじっと四葉を見ていることに気づいて大愛は口を挟むのを止めた。
(やっぱこの子天然なんだな)
それがこの子の魅力なんだろうけど……と思いながら大愛は四葉の言葉に耳を傾ける。
四葉も大愛の態度に少し違和感を感じたのか?首を傾げながらも話しを続ける。
「我が家には一つの家訓があるんです」
「家訓?」
これはまた旧家にありそうな言葉だな、と大愛は思った。
「強くあること」
「強く?」
大愛は首を傾げる。
「どう言う意味?」
「我が家は戦国時代から幕末までこの辺りを治めていた武家に仕える家柄だったんです。その為、君主を守る為に求められたのは強さでした。そして……」
四葉は、眼鏡の奥をきゅっと細める。
「私にはその強さがありませんでした」
四葉は、物心ついた時から聡明であると感じられる知性を携えていた。赤ちゃん教室や子育てサロンでは通う子どもの中で誰よりも物覚えが良く、一度教えたことは直ぐに出来るようになり、幼稚園での習い事でも常に一番だったと言う。しかし、その反面誰よりも出来ないものがあった。
運動だ。
四葉は、圧倒的に肉体が他の子達より劣っていた。運動神経皆無と言ってもいい。駆けっこもダメなら鉄棒も出来ない、運動会では常にビリでレクリエーションも壊滅的だった。
それこそ戦国時代なら家から捨てられていてもおかしくなかった。
しかし、四葉が生まれた平成、そして育ってきた令和の時代にそんなことが起きるわけがない。むしろ父親も祖父母も時代の移り変わりを感じながら四葉の個性を認めていた。
「でも……お母さんは違いました。お母さんは……私を嫌ってました」
同じような旧家から見合いで嫁いだ母にとって家を継ぐに値する素質のない四葉は受け入れることが出来なかった。
許せなかった。
「この欠陥品!」
お腹を痛めて産んだ実の子を汚しく罵り、「生まれ直せ!」と憎々しげに何度も口にしたと言う。
"毒親"
大愛の背筋に汗が流れる。
言葉としては聞いたことがあったがそれはあくまで知識としてだけでどこか現実味のない絵空事と思っていた。
大愛の両親は自分がこんな身体になり、様々な葛藤に追われながらも決して自分を見捨てようとなんてしなかった。
それなのに運動神経がない、ただそれだけでそんなことをするなんて。
「それでも……私はお母さんが好きでした。だからお母さんに好かれようと頑張りました。でも……お母さんは認めてくれませんでした」
幼稚園のお絵描きや図工で金賞をもらっても、小学校のテストで百点を取っても、書道で市の賞をもらってもまったく興味を持ってもられず、逆に運動会のリレーでビリになったり、体育で1をもらったら烈火の如く切れ、「この欠陥品!欠陥品!」と何度も四葉を叩き、物置に閉じ込め、四葉が"ごめんなさい."許してください、""次頑張ります!"と必要のない反省をするまで食事を与えず、何時間も、何日も放置した。
大愛の表情が青ざめる。
「お父さん達はそのことを……」
「知りませんでした。母は三人の前では良き妻であり嫁でしたから。それに私自身も母が自分が欠陥品だから仕方がないと思ってましたから」
四葉は、視線を膝下に落とし、下唇を小さく噛んだ。
「でも……どれだけ頑張っても運動は全然出来るようにならない、勉強を頑張っても褒められない……私はもうどうしたらいいかも分からなくなって……母の言う通り生まれ直した方がいいんだと思うようになってました」
そんな四葉の闇よりも重い変化に気付いたのは父でも、祖父母でも、当然、母親でもなく、彼女の幼馴染だった。
その時、四葉は命を断とうしていた。
母親の目を盗んで家を飛び出し、近所の川に飛び込もうとしていた。
川を選んだのは特に理由はない。
たまたまテレビでそんなシーンのあるドラマを見たのと、痛くなさそうなことと、そして流れていけば天国にいって生まれ直すことが出来そうな気がしたからだ。
四葉は、橋の欄干を何とか登り切り、吸い込まれそうな水面に恐怖を感じながら「ごめんなさい」と謝って飛び込もうとする、と。
ぎゅっと何かが四葉の洋服の背を掴んでいた。
振り向くと幼馴染がじっと四葉を見つめていた。
「帰ろう」
「えっ?」
「一緒に帰ろう」
四葉の目から涙が流れ、気が付いたら欄干から降りて自分より小さい幼馴染を抱きしめていた。
幼馴染は、何も言わずに自分より大きな四葉の背中を撫でた。
このことをきっかけに四葉の母が虐待していたことが明るみになる。四葉の父は妻が娘を虐待していたという事実に驚き、母を取り詰めると母は狼狽えながらも事実として認めた。
父は、母を責め、四葉に「気付なくてごめん!」と何度も謝った。
(遅すぎだよ!)
大愛は、この場にいない四葉の父と祖父母に怒りの言葉をぶつけた。
そこからは早かった。
父は、母の虐待を理由に警察に通報しない代わりに四葉に二度と近づかないことを条件に離婚した。
母の実家も彼女が実の娘を虐待していたことを世間に知られることを恐れ、その条件を母親に飲ませた。
母は、四葉の顔を見ることなく家を出て行った。
「母からは今だに連絡はありません。噂によると再婚したと聞きましたけど、それ以上は父も祖父も教えてくれませんでした」
小さく震える四葉の肩に夜空はそっと手を置く。
四葉は、その手に自分の手を添える。
「それから……父も祖父母も今まで以上に手をかけてくれるようになって……平穏な日々が訪れるようになりました」
四葉がテストで百点を取ってくれば大袈裟なくらい褒め、体育で成績が低くても責めることはなく、母親に任せきりで何も出来なかった分を埋め合わせようと懸命に頑張っていた。しかし、一度身体と心に出来てしまった傷は治らない。四葉は、自己肯定感の低い、地味で気弱な性格になってしまっていた。
当然、友達も幼馴染しかおらず、暗くて地味な陰気な女の子として学校では避けられていた。
そして母が出て行ってから一年後、四葉にとって再び大きな出来事が起きる。
父が再婚したのだ。
しかも四葉と同じ年の子がいる女性と。
父からすると今の四葉を見てやはり母親が必要なのではないかと感じたこと、そして同じ年の子どもがいたら刺激と癒しになるのではないかと考えてのことだったが……逆効果だった。
再婚した女性はとても良い人でその子ども驚くほど和やかで良い子だった。
しかし、母親というものに恐怖を覚えていた四葉にとって女性が良い人かなんて関係ない、母親と言う存在そのものが四葉にとっては禁忌だった。
そして彼女が連れてきた子ども……その子どもは四葉がずっと求めてやまなかったものを持っていた。
四葉が家が、母親がずっと求めていた強さを。
それに気づいた瞬間、四葉は家を飛び出していた。
それから数時間後、四葉は彼女と出会った。