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平坂のカフェ 第2部 夏は月

 闇に笑みが浮かぶ。
 薄く、鈍い、布地を切り裂いたような鋭利な笑みが。
 笑みは、少しずつ口を開いていく。
 銀色の淡い光を放ちながら歯を見えるように笑う。
 銀色の光は、白い墨汁のように闇の中に染み込み広がっていく。
 闇の中に木が浮かぶ。
 雄々しく枝を伸ばし、艶やかな緑の葉を茂らせた大きな桜の木が。
 笑みは、銀色の光を強めながら大きく口を開いていく。
 歪に。
 楕円を作り。
 そして円へと変わる。
 そして笑みは、闇夜に浮かぶ満月へと姿を変えた。

 温度の感じない淡い月明かりの下でスミは、蝶の形を模したドリッパーにお湯を注ぐ。
 甘い湯気が月明かりに入り込み、消えていく。
 背後の闇よりも黒い液体がサイフォンの中に落ちていく。
 その雫が背後の闇から搾り出され、より純然とした穢れのない闇の卵が生み出されているかのようにカナには見えた。
 脈打つような生々しい白色のカフェ。
カウンターも、椅子も、扉も全てが白い。
 色を持つのはカナとスミ、ドリッパーから落ちるコーヒー、そしてスミの背後にある巨大な月の絵だけだった。
 触れたらそのまま沈んでいきそうな闇に浮かぶ大きな銀色の丸い月、熱を帯びない強い光を放ってスミを、カナを、カウンターを、そして平坂のカフェの中を冷たく照らす。
 丸い月の下には大きな木が映し出されている。
 幹は闇に溶け込み、輪郭見えない。しかし、鹿の角ように太い枝が幾重にも伸び、深緑の葉でその身を包んでいた。
 この木が春に花びらを美しく舞い散らせた桜の木であることは容易に想像がついた。
 季節が巡り、姿を変えた桜の木は、闇に覆われ妖艶な美しさを惜しげもなく表していた。

 季節はもう夏なのだ。

 カナは、左目を細めて悲しげに月を見た。
 右目には相変わらず眼帯をし、夏だというのに制服の上にピンクのカーディガンを羽織っていた。
「・・・絵変わったね」
「そうだな」
「・・・誰が描いてるの?」
「・・・さあな」
 スミは、サイフォンに向き合ったまま肩を竦める。
 その仕草を見てはぐらかしているのではなく、本当に知らないのだろうと察し、カナはそれ以上質問はしなかった。
 スミは、サイフォンに溜まったコーヒーを白鳥を模したカップに注ぐ。その上にミルクの泡を乗せ、細い棒でその表面を弄る。
 すうっと音もなく、無駄な動きもなくカナの前にカップが差し出される。
 カナは、カップをじっと見る。
 そして顔を上げると非難がましい目でスミを睨む。
「また失敗してる」
 カナの前に差し出されラテの表面はケアレスミスしたテストの答えのようにグチャグチャに塗りつぶされていた。
「何描こうとしたらこうなるの?」
「・・・すまない」
 スミは、小さな声で謝った。
 それ以上は、何も言わない。
 カナは、小さく息を付いて肩を竦めると、両手でカップを持ち、コーヒーを一口飲む。
 苦い。
 ひたすらに苦い。
 思わず顔を顰めてソーサーの上に戻す。
「砂糖はないんだよね?」
「ない」
「お菓子もないんだよね?」
「ない」
 カナは、諦めて何も言わなくなった。
 口を付けるのも憚られるコーヒーの表面をカップを揺らして波立たせる。
「学校は?」
 唐突にスミが口を開く。
「えっ?」
 カナは、驚いて顔を上げる。
「学校は行かなくていいのか?」
 突然の年長者だと思っているらしい言葉を発したスミに思わずカナはニヤける。
「その質問をこのカフェでする?」
 この世でもあの世でもないような白色だけの場所でその質問にどれだけの意味があるというのか?
 そんなことより、こんな場所で私が制服を着て、コーヒーを飲んでいることに疑問は出ないのだろうか?
 私のことを意識したりしないのだろうか?
 しかし、そんなカナの思いを他所にスミは日に焼けたような赤みがかった目で真摯にカナを見ていた。
 カナは、肩を竦め、答えることにした。
「行ってないよ」
 スミは、眉を顰める。
「あっ行ってないって登校拒否とか虐められてとかそう言う意味じゃないよ。本当にもう行かなくていいの」
 スミは、さらに意味が分からないという表情をする。
 このカフェに来てから、スミがこんなに表情を崩すのも珍しい。
 カナは、思わず笑ってしまう。
「何がおかしい?」
 スミの目に僅かに苛立ちが篭る。
 カナは、笑いながら両手を合わせて謝る。
「ごめんね。でも、学校に行かなくていいのは本当なの。心配しないで」
「・・・そうか」
 スミは、短く答えると目線をドリッパーに戻す。
「・・・でもね。確かに行けなくなりそうな時期はあったんだ・・・」
 スミは、ドリッパーから視線を外し、再びカナを見る。
 カナは、苦くて飲めないコーヒーをじっと見る。
 まるでその表面に記憶の映像が蘇るかのように。
 スミの背後の月の絵が少しだけ欠ける。
「さっきも言ったけど登校拒否でも虐められた訳でもない。その逆で私は人と関わろうとしなかったの。
 誰とも話さないし、誰のことも見ようとはしなかった。
 だからね。学校行くのにも意味を感じなくて。次第に休みがちになっていったの。
 たまに出席しても誰とも話さないで屋上にばかり行っていた。そのせいで留年しちゃったんだけどね」
 そういって恥ずかしそうに舌を出す。
「そんな時にね。私のことを無理矢理引っ張る奴が現れたのよ。屋上に来て、一緒に授業出ようとか、お腹空いてないとか。そして私の手を引っ張って、文字通り綱引きのように引っ張って授業に連れ出すのよ。
 正直うざかったわ」
 スミは、小さく鼻息を鳴らす。
「それは確かにうざいな」
 カナは、左目を一瞬大きく見開き、そして悲しそうに頬を歪めた。
 その表情の変化の意味が分からず、スミは眉を顰める。
「本当にうざかったの。ウザくてウザくて何度暴言吐いたか分からないわ!
 来るな馬鹿野郎!
 空気読め!
 大きなお世話オバケ!
 今思うと子どもの喧嘩ね」
 カナは、目を細めて小さく笑う。
「野郎と言うことは男か」
「そうよ。今気がついたの?」
 カナは、呆れる。
「好きだったのか?」
 この質問に特に深い意味はなかった。
 ただ、話の流れとしてそういう話なのか?と思って聞いただけだった。
 頬でも赤らめて「違うわよ」とでもテンプレートのように返してくるものと思っていた。
 しかし、カナの表情に浮かんだのは照れでも羞恥でもなく・・・絶望だった。
 カナは、今にも泣き出しそうな左目でスミを見る。
 唇は、小さく震え、重ねた両手を爪が食い込むほどに強く握りしめる。
 カナの唇がパクパクと動く。
 何かをスミに向かって話しているようだけど、言葉が出てこない。
 カナは、悔しそうに喉を押さえる。
「・・・大丈夫か?」
 スミは、カナの肩に手を置こうとする。
 しかし、カナはその手を払い除け、きっとスミを睨む。
 そして唇を激しくパクパクと動かすも声は出なかった。
 スミは、何も言わずにカナを見つめた。
 月がまた少し欠け、月光が弱まる。
 白い扉が開いたのはその時だった。

「こんにちは」
 その女性は、とても品の良い笑みを浮かべて立っていた。
 歳の頃は60手前と言ったところか?目尻のところに小さな皺が幾つか走っているが細面の愛らしい顔立ちをしている。少し濃いめの化粧にアイシャドウをし、口紅も少し濃い紅だ。白い帽子を被っており、肩まで伸びた髪は綺麗なストレートで薄く茶色に染めている。小柄な身体に藍色のワンピースを身につけ、ヒールの付いた花柄の編みかけサンダル、首元のハート型の小さなネックレスが品の良さを際立たせていた。
 そして細い左手には水色の日傘を持っていた。
「?」
 カナは、眉根を寄せる。
 彼女の日傘を見た瞬間、小さな違和感を感じた。
 しかし、何か分からない。
「いらっしゃませ」
 スミは、恭しく頭を下げる。
「素敵なカフェね」
 女性は、足音すらも品よく静かにこちらに向かって歩いてくる。
「まあ、素敵な絵ね」
 スミの背後にある絵を見て感嘆の声を上げる。
 でも、その後に少しガッカリしたように眉根を寄せる。
「半月じゃなくて満月か三日月ならもっと素敵だったのに」
 そう言われて絵を見ると満月だった月がいつの間にか半月に変わっていた。
 月光も弱まっており、スミの顔に少しだけ翳りがさす。
「どうぞお座りください」
 スミは、絵のことには触れず女性に席に座るよう促す。
 女性は、音も立てずに椅子を引いて椅子に座り、日傘を隣の椅子に立てかける。
 そこでカナは、ようやく違和感の正体に気づいた。
 パステルの水色の傘の表面に赤い雫模様がついているのだ。それも雨に降られたかのように散らばって。
 決してない配色ではない。作品のコンセプトによってはそう言った違和感の出る配色を敢えてすることもある。
 しかし、日傘のような日用品にそのような配色をすることは滅多にない。
 しかし、よく見るとこの赤は元々の模様ではない。
 赤い何かの塗料がそこに飛び散ってそのまま乾いてしまっているのだ。
 これって・・・。
 女性は、カナがじっと日傘を見ていることに気づき、不機嫌そうに顔を顰める。
「何か?」
 声は、穏やかで上品だが不快な感情を乗せている。
 カナは、慌てて謝る。
「すいません。とても素敵な傘なので」
「あらそう。ありがとう」
 女性は、短く答えるとカナから顔を反らし、スミの方を向く。
「紅茶をもらえるかしら?ダージリンかセイロンがあると嬉しいのだけど。ハーブティーでもいいわ。それかフレッシュなオレンジジュースでも」
「申し訳ありません。当店はコーヒーのみを取り扱っています」
「あら、そうなの」
 女性は、明らかに失望した声色で言う。
「この雰囲気の店にコーヒーは似合わないわよ。紅茶やハーブやオーガニックの料理とかがいいと思うの」
 凄まじく余計なお世話だとカナは思った。
 お客が喜ぶものを提供することはとても大切だ。
 しかし、店側にだって経営する上でのポリシーと言うものがあるのだ。
 気に入らなければ来なければいいし、帰ればいい。
 カナは、一変に女性に対する印象が変わった。
 彼女は、上品などではない。
 図々しいだけなのだ。
「善処いたします」
 スミは、小さく頭を下げる。
「それでコーヒーでよろしいですか?」
「それしかないのでしょう。頂戴な」
 ふんっと鼻息をついて捨てるように言う。
 注文を受け、スミはコーヒーを作り始める。
 蝶を模したドリッパーにフィルターを差し、コーヒー粉を入れる。
 猫のケトルでお湯を円を描くように注ぐ。
 サイフォンに溜まったコーヒーを蝶を模したコーヒーカップに注ぐ。
 そして最後にミルクの泡を乗せ、絵柄を付ける。
 その一連の動作にはまるで無駄がなく、女性は思わず見惚れてしまう。
 ソーサーに載せて女性の前にコーヒーが出される。
 女性は、驚く。
 コーヒーに描かれていたのは笑顔を浮かべる女性の姿だった。
 写真をそのままに貼り付けたように描かれた女性は今よりも若い、恐らく40代前半くらいか?とても穏やかな笑みを浮かべている。
 そしてその手には赤ん坊が抱かれていた。
 無邪気な笑顔を浮かべている赤ん坊が。
「これは凄いわね」
 女性は、感嘆の声を上げる。
「貴方どこでこんな技術を学んだの?」
 しかし、スミは答えずに頭を小さく下げて「どうぞお飲みください」と告げる。
 質問に答えてもらえなかった女性は明らかに不機嫌になる。
 しかし、それ以上は答えずにソーサーごとカップを持ち上げ、丁寧に口を付けた。
 女性の目が一瞬大きく見開かれる。
 カナは、また不味い!と吐き出すのではないかと身構える。
 しかし、女性は恍惚な表情を浮かべてそのまま喉を鳴らして飲み干してしまった。
「美味しい・・・」
 女性は、蕩けるような表情を浮かべて呟く。
「コーヒーってこんなに甘くて美味しいものだったのね。概念が入れ替わったわ」
 そう言ってカップをスミの前に差し出す。
「もう一杯いただけるかしら?」
 スミは、無言で頭を下げ、カップを受け取る。
「あの子にも飲ませてあげたいわ」
「あの子?」
 カナは、小さく呟く。
「私の息子よ」
 女性は、にっこり笑う。
 そしてカナの姿を値踏みするように見回す。
 その目つきが少し嫌らしくカナは、皮膚が粟立つ。
「貴方、高校生?」
 その言葉にカナは、一瞬反応出来なかった。
「あっ・・・そうです」
「目はどうされたの?」
「・・・ものもらいです」
「学校は?」
 また、この質問かと少しうんざりする。
「今日は休みです」
 適当に答える。
 スミの眉が一瞬ぴくんっと動くが気にしない。
「あらそうなの」
 女性は、特に疑うこともなく納得する。
「私の息子もね。高校生なの。1年生よ」
「そうですか」
「年取ってから生まれた子どもでね。それこそ目の中に入れても痛くないくらい可愛かったわ」
「・・・そうですか・・・」
 語尾が少しづつ萎んでいく。
 座り心地が悪そうに身体を揺する。
 しかし、そんなカナの様子など気にせず女性は話し出す。
「小さい頃は、ママ、ママって寄ってきて、本当に可愛かったわ。成績も良くて、運動も出来て皆んなの人気者だったのよ」
 カナは、再び違和感を感じた。
 何かがおかしい。
「学校の先生からもいつも褒められて。近所の方達からもいい息子さんねと褒められて。自慢の子だったわ」
 女性は、ニコニコして話す。
 カナは、違和感に気づいた。
 この女性が言っているのは全て過去形なのだ。
 口調は、現在進行しているようなのに話す言葉は全て過去形。
 そして上品な笑顔を浮かべているはずなのに、どこか嘘っぽい。
 まるでフランスの喜劇に出てくるピエロのようだ。 
 スミの背後の月が少しづつ欠けて行く度に翳りがさす。
 女性の上品な笑顔が下卑た狐のように歪んでいく。
「貴方、綺麗ね」
「えっ?あ?」
「ちょっと右目が残念だけど、とても綺麗だわ
 どう?うちの子と友達になってくれない」
 女性の手が伸びてカナの手に触れる。
 背筋が震え、カナは手を退かそうとする。
 しかし、その前に女性の手がカナの手を強く握り締め、離さない。
「どお?
 うちの子と友達になってくれないかしら?
 なんだったら恋人になってくれてもいいわよ」
 女性の手の爪がカナの手に食い込む。
 皮膚が破れ、血がうっすらと流れる。
 カナは、恐怖に左目を揺らし、唇を震わす。
「それとも誰か特別な人でもいるの?
 うちの子がいるのに?」
 爪がさらに食い込む。
 カナは、思わず小さく悲鳴を上げる。
 女性の目に暗い火が灯る。
 カナは、手を振り解こうとするが、華奢な身体のどこにそんな力があるのか?まったく外れない。
 爪がさらに食い込む。
「このアバズレ・・・そんなこと絶対に許さない・・・」
 女性は、空いている手で日傘を握る。
 女性の手が唐突に離れる。
 スミが女性の手をカナから引き剥がした。
 スミは、無表情のまま赤みがかった目で女性を睨む。
 赤みがかった目の奥に普段、スミが見せない感情が見えた。
 怒りだ。
 静かな怒りで女性を睨みつける。
 女性の目が恐怖に震える。
 スミの目から怒りが消える。
「お客さま、店の中では静かにお願いします」
 小さい声で言って女性の手を離す。
 そしてカナの方に向き直る。
 カナの手から血が滴り、色白の肌が青く染まっていた。
 カナの左目から、眼帯に包まれた右目から涙が溢れる。息が荒く、身体が震える。
 スミは、彼女の手を優しく握る。
 その温かい感触でようやくカナは、我に帰る。
「あ・・・」
「大丈夫だ」
 スミは、短くそう言うと、いつの間にか持っていたタオルで血を拭い、どこかから取り出した包帯を器用に巻いていく。
「直ぐに治る」
 スミは、カナの手をそっとカウンターの上に置く。
 カナは、赤く腫れた左目でスミを見る。
 女性は、苦々しい表情で2人を睨む。
 スミは、サイフォンに溜まったコーヒーを蝶に模したカップに注ぐ。
「貴方は選ばなければならない」
 女性は、スミの発した言葉が自分に向けられていることに気づかなかった。
 彼女の入ってきた扉の反対側の壁に同じ形の扉が現れる。
"生く扉"と"逝く扉"
 スミは、そっと女性の前にカップを差し出す。
 そこに描かれていたのは顔のない人間の首を絞めている女性の姿だった。
「生くか?逝くか?を」
 スミの背後の月が三日月に変わる。
 それは月下にいる3人を睨んでいるようであり、嘲笑っているかのようであった。

 スミに言われても特に彼女は驚かなかった。
 不機嫌そうにコーヒーの絵を睨み、口を付ける。
 恍惚な表情を浮かべて口を離し、いつも間にか持ってきた花柄のレースのハンカチで拭く。
「絵は最悪だけど味は最高ね」
「恐れ入ります」
 スミは、小さく首を垂れる。
 別に褒められた訳じゃないと思うけど・・とカナは、胸中で呟く。
「"生くか"か"逝くか"・・ね。と、いうことは私はもう死んでいるのかしら?」
 カナは、驚きに左目を見開く。
「いえ、正確には生と死の狭間に貴方はいます」
「そうなの」
 女性は、もう一度コーヒーに口を付ける。
「おかしいと思ったのよね。気がついたら見たこともない暗い、砂利道の坂の上に立っていて、歩いても歩いても誰ともすれ違わない。散々歩かされてようやく辿り着いたと思えばこの店に来た。死後の世界と聞いて納得だわ」
 女性は、ゆっくりとコーヒーを飲み干し、カップをソーサーの上に置いた。
「それで私は、天国に行けるのかしら?」
 品の良い笑みを浮かべて女性はスミに聞く。
「それともあっちに帰れるの?あの子も待っているだろうし、お夕飯を作ってあげたいんだけど」
 彼女の言動に三度、違和感を感じる。
 彼女の口から放たれた手指の違う言葉。
 しかし、どちらも現実感がなく、嘘っぽい。
 まるでどっちに転がっても良い方に、綺麗に着飾るかのような台詞。
「話してください」
 スミは、無感情に答える。
 女性は、首を傾げる。
「話す?何を?」
「さあ?私には分かりません。貴方が話したいことは貴方にしか分かりません」
「そう」
 女性は、唇に人差し指を当てる。
「それでは私の可愛い息子の話しでもしようかしら。きっと2人ともキュンキュンするわよ」
 女性は、微笑を浮かべて言う。
「どうぞ」
 スミは、無機質に短く答える。
「嘘ではなく真実の話しをお願いします」
 女性の顔から笑みが消えた。
 固く、冷たい、能面のような顔。
「どういう意味かしら?」
 その声も凍えるほどに冷たかった。
「特には」
 スミは、女性の飲み干したカップを下げる。
「この店では嘘を言っても意味はない。嘘を話してたら扉は開かない。真実の話しのみが扉を開ける鍵・・・それだけです」
「開かないとどうなるの?ずっとここにいることになるのかしら?」
「消えます」
「消える?」
「ええっ。死ぬことも生きることも出来ないまま消えます。その後、どうなるかは私にも分かりません」
 女性は、口を閉じ、目を閉じた。
 沈黙が流れる。
 スミは、猫のケトルを五徳の上に置き、火をかける。
 カナは、微動だにしない女性を不気味そうに見る。
 スミの背後の絵の三日月が瞼を落とすように閉じていく。
 月光が弱まり、白い空間に闇が降りる。
「あんな子・・・」
 女性は。ぼそりっと呟く。
 三日月が完全に閉じる。
「あんな子・・・産まなければ良かった」

 女性は、語り出す。
 年をとって産んだことは本当だった。
 とても可愛らしい子だったことも本当。
 成績が良かったのも本当だったようだ。
 しかし、真実はそこまでだった。

「成績が良かったのは最初までだった。
 学年が上がるにつれて成績は落ちていったわ。
 運動も追いつかなくなるし、体型も醜く太るし、最悪なところしかなかった。
 それでもお腹を痛めて産んだ子だもの。とても可愛かったわ。
 成長して行くことが喜びだった。
 なのにあの子は、まったく成長しない。
 頭の悪いまま。
 醜く太るまま。
 いいところなんて一つもなかったわ」
 女性は、醜く顔を歪め、歯軋りする。
「そして、いつの間にか学校に行かなくなった。
 小学校は卒業式だけ。
 中学校なんて指の数の方が多いくらいよ」
 それでは高校生というのも嘘か・・とカナは、胸中で呟く。
「それって登校拒否ですよね?学校とかにご相談されたんですか?」
 女性は、冷え切った目でカナを睨んだ。
 カナは、背筋が凍りつくのを感じた。
「それって・・・何の意味があるの?」
「いっ意味?」
「そんなのただの恥の上塗りでしょう?周りからなんて言われるか・・・」
 カナは、混乱した。
 女性の言わんとしている意味が分からなかった。
「恥って・・・自分の子どもが辛くて悲鳴を上げてるんですよ。それなのに・・・」
「悲鳴なんてあげてないわよ。ただ閉じこもっているだけ」
 馬鹿じゃないの?と言わんばかりにせせら笑う。
 この人は、本当に何を言っているのだ?
 じゃあ、何を根拠に子どもは可愛かったと言ってるのだ?
「こっちは閉じこもってんの隠す為にどんだけ苦労したと思ってるのよ。ご近所さんには探られるし、義父母からは責められるし、私が何したっていうのよ。悪いのはあの子でしょ!ねえ!」
 スミとカナに同意を求めるように2人を見回す。
 カナは何も答えない。答えることが出来なかった。
 スミは五徳の火をじっと見つめていた。
 2人が答えないことに苛立ちを覚えるも、女性は話しを続けた。
「結局、息子は、勉学の為に海外留学をしたことにしたわ。その方が私にとってもあの子にとっても最良の選択だったわ」
 最良の選択⁉︎
 どこが⁉︎
 ただ、隠しただけじゃない。
 周りから見えないようにしただけじゃない。
 自分のために。
「それなのにあの子は・・・」
 女性は、醜く顔を歪ませ、歯軋り音を立てる。
 その後、女性の話した出来事に戦慄が走った。

 その日も女性は、朝の7時に息子の自室の前に食事を置いた。
 昼は12時に。
 夕は18時に。
 その時間に食事を作って息子の自室の前に置くのが彼女の生活のパターンとなっていた。
 それ以外は、何もしない。
 洗濯をして、掃除をして、テレビを見て、それ以外に何もない。
 息子がこの状態になってから何年もこれの繰り返しだ。
 旅行は愚か、スーパーへの買い出しくらいで服の一枚も買いに出れない。
 恥ずかしくて出れない。
 もし、息子のこんな恥ずかしい状態を世間に知られたら私は生きていけない。
 大学を卒業して小さな会社で事務職として働きながら生活していた。
 父は、平凡な会社員で母は、平凡な主婦。
 不満はなかったが物足りなかった。
 私の人生はこんなものじゃない。
 華やかな、幼い頃に憧れたお姫様のような人生がいつかやってくるはずだ。
 そう思いながら生きてきた。
 いろんな男と付き合ったがどれも見合わなかった。
 必死に勉強したが平凡以上のものは得られなかった。
 せめて見栄えを良くしようと高級な化粧品を買い、お金の許す限りの整形をした。
 そしてようなく今の主人と出会うことが出来た。
 容姿端麗。
 大学はそこそこのところだが有名企業の管理職。
 そして何よりも資産家の一族で裕福な暮らしをしている。
 2人は、友人同士の合コンで出会い、そのまま意気投合。付き合って半年で結婚した。
 その時は幸せだった。
 しかし、結婚して数年で翳りがさす。
 子どもができないことを義父母に責められた。
 夫は、資産家の長男で跡継ぎが必須だった。
 それなのに子どもが出来ないことを義両親を始め親戚一同で責め立てた。
 唯一、夫だけが庇ってくれたが、女性の心は削られていった。
 描かれた優雅な生活のキャンパスの塗料がひび割れて剥がれていった。
 しかし、40を間近に、辛い不妊治療を乗り越え、ようやく子どもを授かった。
 しかも男の子だった。
 義両親も親戚も手のひらを返して喜んだ。
 夫は、涙を流して感謝の言葉を述べた。
 幸せのキャンパスのひびが塗り直される。
 息子は、健康そのもので生まれてきた。
 夫に似て容姿端麗で言葉を覚えるのも早かった。
 頭がいい!将来が楽しみだ!と周りに持て囃され、女性も有頂天になった。
 しかし、それも長くは続かなかった。
 小学校に入ってすぐに勉強に追いつかなくなった。
 元々、内気な生活で外出もほとんどせず、食べてばかりで醜く肥えていった。
 虐められるようになり、自室に閉じこもるようになった。
 会話はない。
 食事も運び、食べ終えたのを片付けるだけ。
 風呂は、私たちが寝静まった頃に入っているようだ。
 お湯を使った形跡と脱いだ服が洗濯機に入れてある。
 たまに外出しているようだ。
 財布からお金がなくなっている時がある。
 それ以外は夫の買い与えたパソコンをいじって、テレビを見ている。
 それ以外では姿を見ることもない。
 何年みてないんだっけ?
 別にどうでもいい。
 それだけ。
 会話なんてなくていい。
 食事も好きなだけ食べて太ればいい。
 勝手に風呂に入ればいい。
 お金も好きなだけ取ればいい。
 パソコンも好きにやればいい。
 テレビも見ればいい。
 でも、外出はやめて欲しい。
 ご近所さんに家にいることがバレるから。
 これ以上、私を貶めないで!

 親戚たちの責める声、ご近所の人たちの責める幻聴が女性の脳裏に響く。
 やめて!
 私は悪くない!
 悪いのは全てあの子!

 しかし、幻聴は消えない。
 薬を飲んでも消えない。

『このダメ嫁が!』
『子ども1人満足に育てられないの?』
『留学なんてしてないじゃない』
『みにくーい』

 止めて!
 私は悪くない・・・。
 悪くない!!

 朝の食事を下げに行くと御膳はそのままだった。
 口をつけた形跡も水分を摂った形跡もない。

 しかし、女性は気にしなかった。
 ただ、起きてないだけだ。
 朝の御膳を下げ、昼の御膳を置く。
 あの子が食べようが何しようが関係ない。
 私の邪魔だけはしないで。

 しかし、夕方見に行った時も御膳はそのままだった。
 さすがに可笑しい。
 女性は、閉じこもってからずっと開けたことのなかった息子の部屋の扉を開けた。
 汗と体臭が地虫のように漂ってくる。
 女性は、涙目で指で鼻をつまむ。
 想像以上に汚れていた。
 誇り、匂い、足元にはティッシュや食べかすが散らばり、ベッドのシーツは変色し、テレビもパソコンも付けっぱなしで、いつ買ってきたのか?コンビニの菓子や弁当、雑誌も転がっている。しかも、いつ着るのかも分からないようなお洒落な服まで落ちている。
 しかし、息子の姿はなかった。
 隠れる場所のないこの部屋のどこにもいない。
 寒気と動悸がする。
 不快な耳鳴り音が止まない。

 どこに?どこに行ったの?
 ずっといないの?
 いつから?
 いつから?

 吐き気がする。
 息ができない。

 付けっぱなしのテレビに緊急速報が入る。

『〇〇県の温泉地に向かう特急電車で事件が発生した模様。鳥の飾りを被った男が車内に侵入して、持ってきた包丁で次々と乗客を切りつけ、4人の死亡者も出たとのことです』

〇〇県は、この町から随分と離れたところだ。
あの温泉地にいく特急電車の駅だって正確な場所は分からないが近くはない。
うちには関係ない。
なのに何故か胸騒ぎがする。
女の、いや母親の感が警告音を立てる。
女性は、キッチンに戻り、包丁を閉まっている棚を開ける。
 三徳包丁が一本足りない。
 夏場だと言うのに、背筋の凍る寒気が襲う。

 リビングのテレビから声が漏れる。

『犯人が捕まった模様。鳥頭を被って犯行に及んだのはなんと16歳の少年でした』
   固定電話の着信音が鳴り響く。

 今日、女性は、残虐な殺人事件の容疑者の母親となったのだ。
 何かが乾いた音を立てて崩れた。

 新月がうっすらと目を開ける。
 僅かな月明かりが差すものの店内は薄暗い。
 それでもカナの顔色が青白く変わったのが見えた。
 女性は、"鳥頭"の母親はじっとカナを睨む。
「何よ。文句あるの?私が殺したわけじゃないわよ」
 彼女の口調は、どこまでも他人事だった。
 スミは、五徳の火を見続けた。
「それなのに世間は私たち夫婦を、私を責め立てた。どんな育て方をしたのか!被害者たちに謝罪の言葉はないのか!
 テレビが連日押しかけてくるし、誹謗中傷の電話は鳴り響く、窓に石が投げ込まれたのなんて毎日よ!
 殺ったのはあの子よ!
 私じゃないのに!」
 鳥頭の母親は、ヒステリックに叫ぶ。
 カナは、唇を震わせる。
 目が潤み、汗に濡れた拳を握る。
「なのに夫は、世間に必死に謝り続けたわ。
 被害者の親族にも直接会って謝罪しに行った。
 悲壮な顔で帰ってきた時もあれば、頭に包帯を巻いて帰ってきた時もあった。
 義父母や親族は、まったく顔も連絡もしてこなくなった。元々、私たちなんていない存在にされた。
 夫は、息子にも会いに行った。
 どんなことがあっても息子は息子なのだと言った。
 意味が分からなかった。
 なんで、そんなことに私が巻き込まれなくちゃいけないの?
 私は、家を出て実家に戻ったわ。
 実家は夫の家と違って田舎なので流石にテレビの取材も追ってこなかった。
 父と母は、何で戻ってきたのかと私を責め立てた。
 子どもと向き合え!世間様に謝罪しろ!と下らない正義感を振り翳してきたけど、そんなの知ったこっちゃない。
 私は、実家に戻り、ようやく安らぎが訪れたの」
 カナは、握った拳でカウンターを叩きつける。
「貴方は・・・!」
 カナは、左目を燃え滾らせ、鳥頭の母親を睨む。
「なによ。あんたには関係ないでしょ?」
 カナは、何かを叫ぼうとする。
 しかし、口がパクパク動くだけで声は出ない。
 カナは、悔しそうに喉を押さえる。
 鳥頭の母親は、侮蔑の目をカナに向ける。
「気持ち悪い。何よ」
 そういってから嘲笑を浮かべる。
「ひょっとしてあの子が殺したか傷つけた被害者にあんたの知り合いでもいた?だとしたら私に怒るのは見当違いよ。悪いのはあの子だから」
 カナの表情から血の気がひく。
 左目から、眼帯に包まれた右目から涙が流れる。
 カナは、包帯の巻いた手を振り上げる。
 鳥頭の母親に恐怖が浮かぶ。
 しかし、その手が振り下ろされることはなかった。
 その直前にスミが左手を伸ばし、カナの手を掴んだ。
 カナが震える目でスミを睨む。
 スミは、日に焼けたような赤い目を細めてカナを見る。そして小さく首を横に振った。
 カナの表情が一瞬強張り、そして腕の力とともに抜けていく。
 スミが手首を離すとカナは、そっとカウンターの上に手を置いた。
 鳥頭の母親の瞳孔は恐怖で見開き、息が浅く乱れている。
 スミは、頭を下げる。
「失礼しました。続けてください」
「はあ⁉︎」
 鳥頭の母親は、瞳孔が開いたままにスミを睨み付ける。
「こんな状態で話せるわけないでしょ?てか。なんなのよその女!突然、殴りかかろうとしてきて!こいつの方が狂ってるんじゃ・・・」
 鳥頭の母親は、飛び出しかけた言葉を飲む込んだ。
 スミの赤みがかった目に静かな、そして茹るような怒りが見えたからだ。
「・・・続けてください」
 スミの声は、どこまでも静かだった。
 嵐の来る前の凪いだ海のように。
「・・・どこまで話したかしらね」
 鳥頭の母親は、再び話し始めた。
「あの子の裁判が始まったことはテレビで知ったわ。
 その頃の私は子供の頃に自分が使ってた部屋にこもって家からは出なかった。
 皮肉なもんで今度は私が引きこもりになってたわ。
 あの子は、嘘言わないで正直に話していたようね。
 裁判は、滞ることなく進んだみたい。
 嘘を付かないって言う点はやはり私の教育が間違ってなかった証ね。
 ずっと気味悪い鳥頭を被ってるのはいたたげないけど。
 悪いのは世間。
 世の中よ。
 それなのに被害者の夫っていうのが連日テレビに出て、『妻と子どもたちの無念を』とか『家族を返せ』とか喚き散らしていたわ。
 まったくとんだ英雄気取り。
 でも、あいつ何かおかしかったのよね。言葉が足りないというか、本心を言ってないと言うか・・変に違和感があったわ」
カナの脳裏に桜の花びらが舞う中で自慢げに自分の不幸をひけらかす男の姿が浮かんだ。
「夫からは裁判の進捗状況が電話やメールで入ってきたわ。
 あいつは正直に話している。
 雇った弁護士が頑張ってくれて少しでも減刑してもらえるようにしている。
 あの子の罪は、一生かけて償わなければいけない。
 お前も裁判所にきて欲しい、とか。
 全部無視したわ。
 私には関係ない。
 勝手にやって、と。
 でも・・・」
 鳥頭の母親は、両手を組んでぎゅっと握る。
「裁判の判決が出る日、私は裁判所に足を向けたの」

 ひどく暑い日だったのを覚えている。
 なぜ、裁判所に行ったのかは今でも分からない。
 気になったから?
 世間体?
 遺族への謝罪?
 あの子に会いたかったから?
 分からない。
 私は、白い帽子を目深に被り、藍色のワンピースを着て、水色の日傘で姿を隠して裁判所に向かった。
 夫にも自分が来ていることは告げなかった。
 傍聴席は、満席に近かったが何とか隅の席を確保した。
 あの子の姿は、直ぐに見つかった。
 被告人席に気味の悪いラバー製のカラスの頭を被っている。
 それを被らないと裁判には出ないし、何も話さないと言ったらしい。
 鳥頭を被っているとはいえ、一年ぶりに会った我が子なのに何の感慨も湧かなかった。
 愛らしいとも憎らしいとも思わない。
 無感動だった。
 さっさと終わらせて欲しい。
 ただ、それだけを思った。
「被告人、前へ」
 鳥頭は、被告人席席から立ち上がり、刑務官に誘導されて裁判長の真正面に立つ。
 手には手錠がかけられ、少し痩せた腹には縄が結ばれていた。
 異様な鳥頭よりも現実的な手錠と縄を見て、
 ああっあの子は犯罪者なのだ。
 今更ながらにそう感じた。
「被告人。最後に何か言いたいことはありますか?」
 裁判長が訊く。
 鳥頭は、言葉の意味を理解していないかのようになにも言わない。
 沈黙が流れる。
 傍聴席の記者たちは、鳥頭の一言も逃さないとタブレットやボイスレコーダー、ノートを持って前のめりになる。
 被害者の家族、親族、友人達が怒り、憎しみの込められた目で鳥頭を睨む。
 ぐるんっ。
 鳥頭が唐突に傍聴席を振り返る。
 傍聴席の人間たちは、突然の行動に一様に驚き、背筋を震わせる。
 鳥頭のラバーの目が何を、誰を映しているのか全く分からない。
 鳥頭の母親は、息子は、自分を見ているのではないかと感じた。
 いや、あの子は私を見ている。
 探しているのだ。
 心の奥がずきりっと痛む。
 鳥頭は、首を元に戻す。
「・・・」
 ラバーのマスクの下から小さな声がする。
「聞き取れません。もう一度、大きな声で」
 裁判長が促す。
「・・・愛しい人よ」
 低い声が裁判所の中に響く。
 いつの間に声変わりしたのだろう?
 愛しい人って誰?
 私のこと?
「また必ず会いに行きます」
 裁判所の中が騒めく。
"愛しい人?"
"何が会いに行くだ!ふざけんな!"
"お前を待つ人なんているか!"
"今度は誰を殺すつもりだ⁉︎"
"死ね!"
"死ね!"
"死ね!"
 呪詛が裁判所の中に渦を巻く。
 裁判長がハンマーで叩く。
 神の一撃を受けたように一気に静まり返る。
「判決。
 主文
 ・・・・を懲役15年に処す」
 怒号と騒めきが竜巻となって裁判所を乱れ狂う。
"15年⁉︎"
"たったの⁉︎"
"こいつが何したかわかってるのか⁉︎"
"今、あいつは犯行予告をしたんだぞ!"
"被害者の気持ちを考えろ"
"死刑にしろ!"
 非難と雑言が飛び交う。
しかし、審判を務めた裁判官は、表情を変えずにハンマーを叩き、「静粛に」と声を上げる。
 しかし、裁判所の中に静粛を与えたのはハンマーでも裁判長の一声でもなかった。
「ひっ⁉︎」
 誰かが小さな悲鳴を上げた。
 そして騒めき、響めきが起きる。
 あの子の、鳥頭のラバーの隙間から赤黒い液が漏れる。
 スーツを着た小柄な男があの子に密着している。
 2人の足元に赤い水溜まりが見える。
 警備員たちが小柄な男を取り押さえる。
 あの子は、身体を震わせてその場に倒れ込む。
 あの子のお腹から枝のように太く、黒い万年筆の柄が生えていた。
 髪の長い女性が警備員を突き飛ばして男を助ける。
 女性は、男に何かを言った。
 男は、歓喜に表情を震わせ、柵を乗り越え、傍聴席を走り、私の前を通り過ぎて逃走する。
 警備員がそれを追いかける。
 私も立ち上がり、傍聴席を後にした。

 私は、日傘を広げて顔の近くまで寄せる。
 警備員たちが血眼になって裁判所周辺を探し、パトカーのサイレンが鳴り響く。
 彼らは、必死に男を探している。
 しかし、先に見つけるのは私。
 私は、スマホの画面を見る。
 画面一杯に広がった地図に青い点滅が光る。
 私は、地図を見ながら足を進める。
 男は、いた。
 裁判所近くの公園の茂みの中。太い幹に寄りかかり、乱れた息を正している。
 苦しげに息を吐いているものの、表情は何かに満たされたように優越な笑みを浮かべていた。
 男は、気づきもしなかったろう。
 私の前を通り過ぎた時に失せ物捜索用のGPSを自分のポケットに入れられていたなど。
 私自身、なぜあんなことが出来たのか分からなかった。
 いつの間にか手が勝手に動いていた。
 私は、日傘を差したまま茂みの中に入る。
 顔が見えないように深く日傘を寄せる。
 足元に落ちていた手頃な大きさの石を拾う。
 そして、男に向かってそれを振り下ろした。
 日傘に赤い飛沫が飛び散った。

 気がついたら私は白い扉の前に立っていた。
 両手には手錠がかけられ、白いツナギのような服を着ていた。
 私の右隣には制服を着た女性が、左隣には夫が立っていた。
 そうだ。
 私は、あれから駆けつけた警察官に捕まったんだ。
 そして子どもを殺されかけたことによる心神喪失と判定を受けて無罪になって、病院に入れられることになったんだった。
 それではこれから私は病室に入るのだろうか?
 白い扉が開かれる。
 聞こえてきたのは機械音。
 小さな病室にベッドが1つ置かれている。
 しかし、そのベッドにはもう誰かが寝ていた。
 沢山の管に繋がれ、心音や酸素飽和度を知らせる機械が規則正しい音を立てる。
 夫と刑務官に連れられてベッドに近づく。
「・・・・だよ」
 夫が口にしたのはあの子の名前だった。
 私は、目を見張った。
 ベッドに横になっていたのは確かにあの子だった。
 鳥頭を被っていない、何年か振りに見る息子の素顔。
「あれからずっと意識が戻ってないんだ」
 夫は、涙ぐみながら告げる。
 私は、夫の顔を見る。
 何で泣いているのだろう?
 私は、再びあの子の顔を見る。
 何の感慨も湧かない。
 この肉の塊になにを感じろ、と?
「お前が呼びかけたら目を覚ますかもしれない」
 呼びかける?
 なんて?
 私は、じっとあの子の顔を見た。
 幼い、赤ん坊のように眠るあの子を。
 ああっそうか。
 そういうことか。
 私は、あの子にゆっくりと近づいた。
 夫も、刑務官も私があの子に呼びかけるのだと信じて疑ってないようだった。
 確かに私はこれから呼びかける。
 願う。
 私は、あの子の髪を優しく撫でる。
 頬を撫でる。
 唇に触る。
 こんなにもあの子に触れたのはいつ以来だろう?
 手錠に繋がれた私の両方の指は、あの子の首元に触れる。
 私は、唇をあの子の耳元に近づけ、囁く。
「戻れ」
 私は、あの子の首を絞めた。
 力の限り、爪が食い込むほどに。
 バイタルの異常を知らせるアラームが鳴り響く。
 手足がひっくり返った虫のようにばたつく。
 私は、首を絞める指にさらに力を込める。
「戻れ、戻れ、私の胎内に戻れ!」
 そうすれば産み直してあげる。
 今度こそ、まともな、私の理想通りの良い子に戻してあげる。
 戻れ!戻れ!戻れ!
 夫が私をあの子から引き剥がす。
 刑務官が医師を呼ぶ。
 夫は、私の頬を叩く。
 あまりの力に私はよろけて壁にぶつかる。
 頭を強く打ち、ドロッとした何かが垂れてくる。
 目の前から明かりが消えていく。
 闇が私の視界覆っていく。
 そして何も見えなくなった。
 聞こえなくなった。
 感じなくなった。

 そして私は坂の真ん中に立っていた。 

 どちらかの扉から鍵の開く音がした。

 ニヤつくような三日月が3人を照らす。
 薄明かりに映った鳥頭の母親の表情からは色と力が抜けているように見えた。
「これで話しは終わりよ」
 鳥頭の母親は、カップをスミの前に差し出す。
「お代わりを頂戴。絵はいらないわ」
 スミは、恭しく頭を垂れて、カップを下げる。
「あの子は、ここに来たのかしら?」
 スミは、猫のケトルを手に取り、ゆっくりドリッパーにお湯を注ぐ。
「さあ?私には分かりません」
 鳥頭の母親は、一瞬苛ついた表情を見せるもすぐに元の力の抜けた顔に戻る。
「そう。、ならまだ生きてるのかしらね?さっさとこっちに来ればいいのに・・」
「・・・なんで?」
 カナが唇を震わせて言葉を吐き出す。
「何でそんなに他人事なの?自分の子どもなのよ?」
 カナは、怒りとも悲しみとも問える感情と共に言葉を吐き出す。
「貴方がもっと子どもと向き合ってればあんな事件が起きなかったかもしれないのに!誰も辛い思いをしなかったのに!」
 スミの背後の三日月がこの場を面白がるように半月に姿を変えていく。
 鳥頭の母親は、つまらなそうに息を吐く。
「だから戻そうと思ったんでしょ。リセットしようと思ったのよ。あの子の魂をお腹に戻して、もう一度育て直そうと思ったの。
 まあ、私も馬鹿よね。そんなことしても意味ないのに。ダメな子は生まれ変わってもダメなのよ」
 そう言ってせせら笑う。
「あーあっ。私の人生なんだったのかな?お姫様のような生き方をしたかったのに結局最底辺じゃない。あの子を産んだせいで私の人生って大失敗よ」
 カナの顔から表情が消えた。
 唇が乾き、包帯の巻かれた手を爪が食い込むほどに握り、再び血が流れ出す。
 カナの中で小さなドス黒い感情が生まれた。
 それを言葉にするならたったの一言。
 殺意。
 カナは、血で汚れる手で白鳥の形を模したカップを掴む。
 鳥頭の母親は、カナの変化に気づいていない。
 カナは、カップを持った手を大きく振り上げる。
「一つ聞いてもよろしいでしょうか?」
 唐突にスミが声を上げる。
 カナの手が止まる。
 鳥頭の母親は、眉を顰める。
 スミは、こちらに目を向けず、サイフォンに落ちていくコーヒーの雫をじっと見ていた。
「貴方は、それだけ息子さんを憎んでいた、無関心でいたにも関わらず、どうしてあの男を殺そうとされたのですか?」
「あの男?」
 鳥頭の母親は、本当に分からないと言うように首を傾げる。
「貴方の息子を刺した男ですよ」
 そう言われて「ああっ」と短く答える。
「別にただムカついただけよ。自分がどれだけ幸せだったかをひけらかして・・.最後にはあの子を刺し殺そうとして・・・ヒーローにでもなろうとしてたのかしらね」
 彼女が言っていることは半分当たっていて、半分間違っていた。
 彼は、ヒーローになろうとはしていた。
 しかし、幸せではなかった。
「そんなことでは理屈になってません」
「どういうことよ?」
「彼は、貴方の息子を殺そうとしました。それは貴方の言っていることが正しければむしろ貴方の願っていることのばず。彼は貴方のやろうとしたことを代わりにやってくれたのですから」
 鳥頭の母親は、何も言わない。
「貴方、本当は怒ったんじゃないですか?息子を殺されて怒ったんじゃないですか?憎んだんじゃないですか?」
 半月が楕円に変化し、歪んでいく。
 心の中を映し出すように。
「貴方は、息子を殺されたと思い怒り、憎んだ。だから殺そうとした。違いますか?」
 鳥頭の母親は、何も言わなかった。
 スミは、ドリッパーを外し、サイフォンに溜まったコーヒーを蝶を模したカップにゆっくりと注ぐ。
 そしてミルクの泡を乗せ、細い棒で何かを描く。
「貴方は、"逝く扉"を選ばれました」
 鳥頭の母親の前にカップが置かれる。
「どうぞ安らかに」
 置かれたカップに描かれていたのは、赤ん坊を抱いて至福の笑みを浮かべる鳥頭の母親の姿だった。
 鳥頭の母親は、じっとカップを見つめる。
「・・・母親はね」
 その声は、誰に向けられたものなのか?
 鳥頭の母親は、カップに向けて話し出す。
「どんなに憎かろうと、産んだことを後悔しようと母親なのよ。そのお腹にいた記憶を覚えている。一緒に遊んだことを覚えている、喜びを覚えているの。
 でも、それと同じくらいにプレッシャーを感じているの。
 子どもが失敗すると自分が失敗した気がするの。
 子どものことで責められると死んだ方が楽なのではないかと思うくらい絶望するの。
 だから、子どもにはちゃんとして欲しくなるの。
 鏡に映る自分が綺麗であって欲しいと願うくらいに子どもには綺麗で、美しくあって欲しい。
 だから何かで失敗したことがとてつもなく許せないの。抑えられなくなるの。間違っているとわかっても止められないのよ。」
 鳥頭の母親は、顔を上げる。
 双眸から涙が流れ落ちる。 

 そう、だから私は、あの子を戻そうとした。
 殺して、魂にして。
 そして私も死んで、生まれ変わって、あの子を産み直そうと思った。
 もう一度、そしてちゃんとした親子になれるように。

「私は、どうすれば良かったの?どうすればあの子と、自分と向かい合うことが出来たの?」
「・・・さあ」
 スミは、冷たく答えた。
「ただ、私が言えることは"それでも貴方は母親だ"ということだけです」
 スミの背後の月が真円を描く。
 温かい月明かりがカフェの中を照らす。
 鳥頭の母親が大きく目を見開く。
 そしてカップに目を落とし、2人に見えないように小さく微笑むと、ゆっくりと飲み干した。
 コーヒーを自分の胎内に染み込ませるように。
「・・・ご馳走様」
 鳥頭の母親は、カップをそっとカウンターの上に置く。
 その表情はとても穏やかなものだった。
「美味しかったわ」
 鳥頭の母親は、すっと立ち上がりと日傘を手に待ち、開いた。赤い雫の付いた水色の傘が月明かりに照らされて柔らかく輝く。
 鳥頭の母親は、ゆっくりと"逝く扉"に向かう。
「あの子が来たら伝えて」
 こちらに振り向かずに言う。
「もう、私の子として生まれては駄目よって」
 鳥頭の母親は、"逝く扉"を開く。
 銀色の光が溢れ、カフェの中を包む。
「ごきげんよう」
 鳥頭の母親は、扉を潜る。
 静かに"逝く扉"が閉まる。
 柔らかな月明かりだけがカフェの中を照らした。

 スミは、カナの前にそっとコーヒーを置く。
 柔らかく、甘い香りの混ざった湯気が天井に昇っていく。
 相変わらず絵は失敗してぐちゃぐちゃになっている。
 カナは、椅子の上に両足を乗せて膝に顔を埋めたまま身じろぎもしない。
「冷めるぞ」
「・・・どうせ苦いんでしょ?」
「さあな」
 それ以上は何も言わずに猫のケトルを五徳の上に置き、火を掛ける。
 カナは、少しだけ顔を上げてちらりっとスミを見る。
 スミは、日に焼けたような赤い目でじっと五徳の火を見ていた。
「ねえ」
 カナは、か細い声でスミを呼ぶ。
 スミは、視線だけをカナに向ける。
「何で子どもは親を選べないの?」
 スミは、眉根を寄せる。
「勝手に作って、勝手に産んで、思い通りにならないからって殴りつけて、無視して、関心も持たない。それなの子どもは生まれてくる親を選べない。世の中にはいい親だっていっぱいいるのに。何でそんなに不公平なの?」
 カナの左目から、眼帯に包まれた右目から冷たい涙が静かに流れ落ちる。
「ねえ、なんで・・・」
 月が欠けていく。
 半月になり、段々と三日月へと変貌していく。
 スミは、湯気を上げるケトルを五徳から下ろす。
「・・・運命は誰にも決められない」
 スミから放たれた言葉にカナは付き放たれたような絶望を覚えた。
「"生く扉"で戻っても困難しかないのかもしれない。"逝く扉"を抜けても生まれ変われるかどうかも分からない。運命なんて誰にも分からないし、神様って奴にもどうしようも出来ない。
 でも・・・」
 スミは、カナの方を向く。
 そしてそっと右手を伸ばしてカナの頭を撫でる。
「こうやって手を差し伸べてあげるくらいは出来るはずだ。
 ただ一緒にいるだけでいい。
 話を聞いてやるだけでもいい。
 自分の力で出来ることがあるなら手伝ってやればいい」
 スミの手の温もりがじんわりと沁みてくる。
 「そしてこう言ってやればいい。
 君は1人じゃない、だから心配するなっと」
 そう言ってスミは小さく笑った。
 スミがこのカフェで笑ったのは初めてだった。
 懐かしい笑顔。
 懐かしい温もり。
 カナの目から再び涙が溢れる。
 先程のとは違う。
 スミの熱が染み込んだ涙が。
 スミの手がカナの頭から離れようとする。
 カナは、スミの両手首を握ってそれを止める。
 スミが驚き、目を大きく開く。
 カナの口がパクパク動く。
 必死に何かを訴える。
 しかし、それは声としては出ない。
 空気となって流れるだけ。
 カナの色が薄くなっていく。
 色白の肌が透明になっていき、三日月の灯りを透す。
 カナは、必死に訴える。 
 カナは、必死に叫ぶ。
 しかし、言葉は聞こえない。
 そしてカナの姿は消えた。
 そこに何もなかったかのように消え去った。
 三日月が目を閉じる。
 深淵がカフェに落ちる。
「どうか来世では我が子を愛して」
 スミは、小さく呟いた。

         第3章 秋は夕暮れに続く。
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