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平坂のカフェ 第4部 冬は雪(終)

 カナは、ゆっくりとゆっくりと"逝く"扉に向かって歩いていく。
 右手からは大量の出血が続いているのに痛みはない。
 ただ、命が抜け落ちていることだけは感じた。
 あの扉を抜けたらもうここを訪れることはない。
 きっとスミのことも、これまで歩んできた人生も全て忘れてしまうのだろう。

 それは・・・嫌だな・・・。

 辛いことだらけの人生だった。

 楽しかったこと、嬉しかったことなんて辛いことに比べればほんの数%くらいしかなかった。

 でも、その数%は、間違いなくカナの人生の中で最も輝き、美しく、辛さを埋め尽くすに十分に足るものだった。

 スミ・・・。

 カナは、胸の中でその名を呟く。

 せめてもう一度話したかった。
 もう一度温もりを感じたかった。
 もう一度、あの言葉を聞きたかった。

 それももう叶わない。

 カナの目の前に"逝く"扉がある。
 扉のノブがカタカタと揺れ、開ける事を促す。
 これを拒否する事が出来ないのは本能に組み込まれたように理解した。

 バイバイお父さん、お母さん

 バイバイみんな

 バイバイ・・・スミ

 カナは、"逝く"扉のノブに触れる。
 扉がゆっくりと開き、光がカナの身体を包み込もうとする。


 光が消える。

 "逝く"扉の前に白い影が立ち、必死に閉めようとする。

 カナの黒と白の目が大きく見開く。
「スミ!」
 スミは、"逝く"扉に背中を押し付け、必死に扉を押し閉めようとする。
 その身体は・・・ひび割れていた。
 まるで雷打たれた大木のように全身に亀裂が走り、白い欠けらが屑のように落ちる。下半身は、千切れたように存在しない。
 ただ、日に焼けたような赤い目だけが力強い感情を持って輝いていた。
 カナの身体が震え、口元を手で覆う・・・。
「スミ・・・なんで・・・なんで・・・」

 このままで入れはきっと記憶が戻ったんだよ。
 あっちの世界に戻れて好きな料理を続ける事が出来たんだよ。
 幸せになれたんだよ!

 しかし、スミはここにいる。
 ここにいてボロボロになりながら"逝く"扉を閉めようとしている。
「スミ・・・」
 カナの黒と・・・白の目から涙が流れる。
 スミの口が開く。
「春は・・・花びら・・・」
「えっ⁉︎」
「夏は月・・・」
 スミは、必死に声を絞り出す。
「秋は夕暮れ・・・」
 カナの身体がカタカタ震える。
「冬は雪・・・」
 ここまではカナが話した言葉・・・。
 スミは、唇を噛み締める。
 白い欠けらが固まった血のように崩れ落ちていく。
「花はいつか散る、月は欠けるし日は沈む、雪も溶けてしまう。時間だって戻らない」
 スミは、必死に必死に扉を押し戻す。
 身体を砕きながら必死に閉めようとする。
「でも四季は必ず巡る。花はまた実を結ぶ、月は姿を見せる、日は登るし、雪も降り注ぐ。決して無くならない!そして俺は決していなくならない!」
 カナの心に痛みと熱が走る。
 それはあの日、あの時聞いた時に訪れた感情・・・。
 愛しくて愛しくて愛しくて感情がどうにかなりそうになったあの想い・・・。
「俺は、決して離れない!ずっとずっとずっと一緒にいる!四季を巡る。だから・・・だから・・」
 スミは、力の限り、身体が崩れ限りに扉を押す。
「死ぬな!カナ!」
 スミは、叫んだ!
 それは平坂のカフェの店主スミではない。
 カナの知っている、カナが生涯をかけて愛すると決めたスミの声だった。
 カナは、"逝く"扉に手を掛ける。
 スミの顔色が変わる。
 しかし、カナは扉を開くのではなく、扉を押した。
 力の限り・・・。
「いたいよ・・・」
 カナは、泣く。
 泣いて泣いて訴える。
「私もスミといつまでも一緒にいたいよ!」
 スミの口元に笑みが浮かぶ。
 2人は、力の限りに"逝く"扉を押した。
"逝く"扉が少しずつ少しずつ動いていく。
 扉の周りに、壁に、テーブルに亀裂が走る。
 カウンターが崩れさる。
 蝶のドリッパーが羽を動かし、舞い上がる。
 猫のケトルが身体を翻し、どこかに消える。
 桜の木が激しく揺れる。
 雪が消え去り、その身を力強く、大きく伸ばして平坂のカフェを突き破っていく、
"逝く"扉が閉まる。
 平坂のカフェが崩れる。
 白い壁の向こうに暗い闇が溢れる。
 ボロボロになったスミは、カナの細い身体を優しく抱きしめる。
「帰ろう・・・」
 スミは、あの時と変わらない、優しい朗らかな笑みを浮かべて言った。
 カナは、黒と白の目から涙を流し、笑う。
「うんっ帰ろう!」
 2人の身体が闇に飲まれる。
 平坂のカフェは、そのまま姿を消した。

      エピローグ 四季は太陽に続く。

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