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ジャノメ食堂へようこそ 第1話 ジャノメ姫(2)

 草を踏む音がする。
 皮膚が炙られるように熱くなり、閉じた瞼の裏が黒から暖色に変わる。
(来た)
 アケの身が緊張で固くなる。
 ついさっきまでようやく解放されると喜んでいた多幸感が消え去り、恐怖が湧き水ように泡を立てる。
(何を臆してるの?)
 アケは、自答する。
(こんな世界、こんな人生に何の未練もないでしょう?)
 アケは、唇を噛み締める。
 ならば、最後くらい自分の命に意味を持たせなさい!
 アケは、恐怖に覆われた心を奮い起こした。
 草を踏む音が近づいてくる。
 熱がさらに上がり、瞼の奥が赤く燃える。
 アケは、そっと両目のある部分のある布に触れようとした。
 その時だ。
「ぷきいっ」
 風船から空気の抜けたような愛らしい声が耳を付いた。
 ・・・へっ?
「ぷぎい、ぷぎぷぎい」
 可愛らしい声は歌うように声を上げる。
 アケは、布に触れようとした手を下ろし、蛇の目を開いた。
 つぶらな黒い目が飛び込んできた。
 アケの蛇の目が何度も瞬きする。
 黒真珠のような黒く大きく、丸い目。
 アケの顔と同じくらい豚のような大きな鼻。
 岩のような体躯。
 大きな口の両端から伸びた太く、鈍く大きな2本の牙。
 全身を覆う焦げた茶色のような固い体毛。
 それは巨大な猪であった。
 しかし、その猪はアケが知る猪よりも遥かに大きく、そしてその背は篝火のように燃えていた。
 アケは、あまりの異様な姿に絶句する。
 しかし、猪は、そんなこと気にした様子もなく、アケの顔の近くまで大きな鼻を近づけ、穢れのない黒い2つの瞳でアケをじっと見る。
 背中の熱に当てられ、アケの白い頬が赤く染まる。
「えっはっえっ?」
 アケは、混乱する。
 この猫の額に住むのは黒い狼ではなかったのか?
 それともそれは誤解で本当は背中が燃えた猪なのにいつのまにか大きく捻じ曲がって変換して狼になってしまっただけなのか?
 猪は、大きな鼻でふんふんっ息を吸ったり吐いたりしながら鼻頭でアケの白無垢を擦り、炎の熱で赤く染まった頬を撫でる。
 少し湿った大きな鼻は見た目に反して柔らかくアケは擽ったくなる。
「あはっいやだ・・・やめて」
 アケは、擽ったくさに口元を緩めながら言うも猪はやめない。まるで人なっこい犬が舐めるように鼻を擦り付ける。
「あーっいたー!」
 甲高い子どものような声が飛んでくる。
 アケは、猪の鼻を押さえつけながら声の方に蛇の目を向ける。
 雪だるまが飛び跳ねている。
 いや、正確には雪だるまに似た何かが森の方からゴム毬のように飛び跳ねながらこちらに向かってくる。
 雪だるまは、アケと猪の前にやってくるとポンっと飛び跳ねてずんぐりとした手足を星を描くように伸ばして着地する。
 雪だるまと間違えるくらい膨らんだ胴体、触り心地の良さそうな白い毛、剣のように伸びた二つの耳、そして紅玉ルビーのような赤目。
 それは猪と同じくらい大きな白兎であった。
「まったく勝手に言っちゃ駄目だよ」
 白兎は、表情こそ変わらないが怒った口調で猪を見る。
 猪のつぶらな瞳が白兎を見る。
「貢物が来て嬉しいのは分かるけど、もし、あいつらがまだいたら大変なことになるんだよ!」
 白兎は、耳をピンピン、鼻をヒクヒク動かしながら猪に言う。まったく怒っているように見えないが猪はしゅんっとしょげてしまう。
 アケは、猪が少し可哀想になり鼻を優しく撫でる。
 そして白兎の方を向いて口を開く。
「あの・・よくは分かりませんが・・」
 アケは、躊躇いがちに口を開く。
「この子も悪気があった訳ではないと思うので許してあげては・・・」
 白兎の赤い目と蛇の目が重なる。
 白兎の動きが止まる。
 アケの怪訝な表情が赤い目に映る。
「うぎゃああああああっ!」
 白兎の口から悲鳴が上がり、ずんぐりとしたお尻が地面に落ちる。
 アケの蛇の目が大きく震え、後ずさる。
(しまった・・・)
 兎のような見かけだったので迷い猫に声を掛けるように普通に話してしまった。
 これだけ流暢に話せる知能を持った者が自分を見たら恐れ慄くに決まっている。
 こんな化け物のような自分を見て普通でいられるはずがない。
 アケは、白無垢の襟元をぎゅっと掴み、顔を俯ける。
 しかし、白兎から返ってきたのはまったく予期せぬ言葉だった。
「人間の女の子がいるー!」
 ・・・えっ?
 今度は、アケが驚く番だった。
  人間の・・・女の子?
(私が・・・?人間に見える?)
 白兎は、見かけからは想像も出来ないくらい身軽に飛び跳ねて立ち上がると身体を右、左と動かしてアケを観察する。
「君どうしたの?」
 表情はまったく変わらないが、その声はアケを心配するように気遣うように優しい。
「ひょっとして迷いこんじゃったの⁉︎それとも貢物が欲しくて付いてきちゃったの?」
 白く柔らかい手がアケの身体をペタペタ触る。その手つきはまったくいやらしくなく、むしろ柔らかくて気持ちいい。
「ぷぎいっ!」
 猪が声を荒げ、鼻を使って白兎を退ける。
 白兎は、我に返ってアケから手を離す。
 そしてようやく冷静になったのか赤い目で辺りを見回す。
「貢物がない」
 白兎は、赤い目をキョロキョロ動かす。
「確かに武士を乗せた飛竜ワイバーンが何かを運んでいるのが見えたのに・・」
 そこまで呟いて白兎は表情を変えないままアケを見る。
 アケは、思わず身体を震わせる。
「まさかだけど・・君が貢物?」
 白兎が食い入るようにアケの顔を覗く。
 アケは、思わず唾を飲み込む。
 そして恐る恐る小さく頷いた。
 白兎の表情は変わらない。
 しかし、身体を包む柔らかそうな毛が逆立ち、赤い目が大きく揺れる。
 アケは、思わず後退りそうになる。
「ふざけるなよ・・・」
 それは可愛らしい見かけからは想像すら出来なかった腹に響くような怒りの声だった。
 怒って当然だ、とアケは思った。
 きっと彼らは貢物を美しい宝石や金銀のような物か豪勢な食物か何かと思っていたはずだ。
 それなのにいざ来てみたら貢物はあまりにも醜い玩具にすらならない自分・・・。
 アケは、死を覚悟した。
 しかし、どうせ死ぬなら・・・。
 アケは、目のある部分を包んだ白い鱗のような布に触れる。
 どうせ生きてようが殺されようが結果は変わらない。なら攻めて父に褒められる死に方を・・・!
(お父様・・)
 アケは、白い鱗の布に爪を立てようとした。
「あいつら仲間を何だと思ってるんだあ!」
 白兎が大声で叫ぶ。
 それに同調するように猪も鳴く。
 アケは、白い鱗のような布から手を離す。
 蛇の目を震わせて呆然と目の前の二匹を見る。
 白兎は、柔らかい両手をアケの肩に置く。
「君・・頑張ったね!」
「えっ?」
「怖かったよね!辛かったよね!」
 表情は変わらない。しかし、赤い目を真剣に向けてアケを見る。
「こんなか弱い女の子を貢物にするなんて・・・」
 その声は、本当に怒っているようだった。
 いや、怒っている。
 この白兎は怒っているのだ。
 自分の為に。
「もう大丈夫だからね!」
 猪も白兎と同じことを言っているように何度も鳴く。
「あの・・・」
 アケは、声を絞り出したその時だ。
 草を踏み締める音と共に黒い影が伸びてアケと2匹を被う。
 アケは、蛇の目を上げる。
 2つの黄金の月が浮かんでいた。
 いや、月ではない。
 本物の月は上空で日入れ替わるように傾いている。
 それは月のような黄金の双眸。
「あっ・・・」
 アケは、思わず声を漏らす。
 そこにいたのは白兎と猪よりも大きな黒い狼であった。
 鋼のような光沢を放つ柔らかな絹のような黒い体毛に覆われた強軀。柱のような力強い四肢、氷が削られたような白く、美しく、鋭い牙、そしてあまりに品のある美しい顔立ち。
 その全てから気品と威圧、そして威厳が放たれている。
「金色の・・黒狼・・」
 アケは、目の前に悠然と立つ巨大な狼に気押されるように呟いた。
 黒狼は、月のような黄金の双眸をアケに向ける。
「其方は・・」
 その声は低く、力強く、そして魅惑的な響きを持っていた。
「其方は何者だ・・?」
 アケは、黒狼に圧倒され、身じろぎも言葉も出すことが出来なかった。
 黒狼の黄金の双眸を細める。
「貢物です。王」
 白兎は、ずんぐりとした右手を左肩に当てて頭を下げる。
 その仕草はあのやかましく可愛らしい雰囲気からは想像出来ないほど礼儀正しく、美しい。
 まさに王に仕える臣下のようだ。
「この娘がこの度の白蛇の国の貢物でございます」
 その声は礼儀正しくも怒りが含まれていた。
 猪も白兎の隣で伏せている。
 黄金の双眸が小さく震える。
「それは真か?」
「御意」
 黒狼は、アケに目を向ける。
「娘よ」
 黒狼に呼ばれ、アケは震えながらも顔を向ける。
 黄金の双眸にアケの顔が映る。
 黒狼は、双眸を細め、小さく唸る。
 アケは、小さく身を震わせる。
「其方・・名は何という?」
「私は・・・」
 アケと申します。
 そう答えようとして言葉を止める。
 父の顔と言葉が脳裏に過ぎる。

 それはお前の名などではない。

 アケは、唇を震わせ噛み締める。
 そして息を飲み込み、再び口を開く。
「私は、ジャノメと申します」
 アケは、そう言うと草の上に両手を付き、綿帽子が落ちそうになるのも厭わず頭を下げる。
「僭越ではございますが私が国よりの捧げ物として参りました。どうぞ黒狼様のお気に召すようお使いください」
 アケは、顔を伏せたまま目のあるはずの部分を覆う白い鱗の布に触れる。
 やるなら今だ。
 今なら黒狼を・・・。
 しかし、アケは白い布に詰めを立てたままそれ以上動くことが出来なかった。心はやらなければならないと言ってるのに身体が震えて言うことを聞かない。
(駄目よ。やるの。これ以上お父様をがっかりさせちゃいけない)
 アケは、身体を奮い起こそうとする。
 しかし、動かない。
 それ以上、指が動かない。
 吐息が身体を濡らす。
 黒狼の大きな顎が身体に触れる寸前まで近づいているのが分かる。
 やらないと・・やらないと・・。
 アケは、焦る。
 しかし、身体は竦んでまるで言うことを聞かない。
 黒狼の顎が開く音がする。
 鋭い牙が白無垢に触れる。
(食われる!)
 アケは、死を覚悟し、白い鱗の布に触れようとした。
 刹那。
 花の香りが鼻腔に入り込む。
 柔らかく、暖かな感触が全身を包む。
 アケは、蛇の目を開く。
 そこに見えたのは黒く、柔らかな毛。
 それは黒狼の体毛。
 アケは、黒狼の背中の上に乗っていた。
 アケは、何が起きたか分からず動揺する。
「こ・・黒狼様⁉︎」
 アケは、動揺を隠せなかった。
 白い頬が赤く染まる。
 黒狼は、何も答えずに足を前に進める。
 その後ろを白兎と猪が付いてくる。
「あの・・・黒狼様・・何を⁉︎」
「疲れたであろう?」
 黒狼の口から言葉が漏れる。
 その声にあるのは威厳と気品、そして労りであった。
「少し休むと良い」
 黒狼は、それ以上何も言わず足を進める。
 アケは、何が起きてるか分からないまま落ちないようにその背にしがみつく。
 花の香りがとても心地良かった。

 これがアケと金色の黒狼の最初の出会いであった。

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