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シロイルカの美容室(2)

「まあ、どうぞ緊張なさらず寛いでくださいな」
"貴方はなんなの?"という質問もさせてもらえないままにナオは、シロイルカの美容師に促され、茶色のシートの上に座らされた。シートと言うよりは燻んだ茶色のクッションという感じだ。見た目は柔らかそうなのに座ってみるとがっしりしていて、何というか・・・筋肉質だ。
 シートの背もたれがゆっくり上がっていく。
 モーター音は、しないがグーッという背筋を伸ばす時のような音が聞こえる。
 水の中だというのにシートから伝わってくる温みがとても心地良く眠気が誘われそうになる。
「お辛くはありませんか?」
 耳元近くて声を掛けられる。
 シロイルカの声ではない。
 シロイルカは、少し離れたところで何かを準備している。
 それにこの声はテノールのように低い。
 ナオは、声の主を探す。
「こちらですよ」
 その声は、後頭部の方から聞こえた。
 ナオは、背中を反らして後ろを向くと大きな目と目があった。
 その目は背もたれの頭頂部を支える部分に付いていた。
 いや、違う。
 これは背もたれではない。と、言うよりもこれはシートではない。
 頭頂部を支える部分には目があった。大きな鼻があった。そして長く雄々しい2本の牙があった、
「苦しかったら言ってくださいね」
 シート、いやセイウチは優しく微笑んだ。
 ナオは、セイウチの背中に横になっていたのだ。
 口を丸くして驚くナオ。
「少しリラックス出来ましたか?」
 シロイルカが声を掛けてくる。
 その顔に浮かんでいるのは恵比寿様のような温和な笑顔。
「えっあ、はあ」
 ナオは、何と答えて良いか分からず、曖昧な声を漏らす。
 シロイルカは、口を紡ぐ。
「まだ、緊張しておいでのようですね。先に手と足のマッサージをしましょうか」
 そういうと白いヒレを上げる。
 すると、水の底から無数の泡が湧き上がってくる。
 水が微細に揺れ、底から何かが上がってくることが分かる。
 視界に入ってきたのは色鮮やかな宝石のような光。
 どこかから差し込んでくる光に映されて輝く宝石達は徐々に姿を表していく。
 それは燃えるような橙色であり、陽の光をたっぷりと浴びた檸檬のようであり、長い年月を掛けて磨きに磨かれた大理石のようなマーブルの白黒であり、そして深い空のような青色をした無数の小さな魚達だった。
 顔などは分からないが、水族館の入口付近の水槽にいた魚達だとナオは気付いた。
 色鮮やかな魚達は、ナオの手に近づき、器用に靴を脱がせて足首や爪先、踵に擦り寄る。
 そして小さな口を白い肌に近づけて啄み始めたのだ。
「ひゃっ!?」
 ナオは、短い悲鳴を上げる。
 しかし、驚いたのは一瞬のこと。
 小さな口で皮膚をチュンチュンと刺激してくる感触はとても心地良かった。
 指の先から手の平、手首が刺激されて肩の辺りまで温かくなってくるのを感じる。
 つま先から踵、足の裏が適度な痛みで刺激され、胃や腸が動き出すのを感じる。何匹かが服の下から入り込んで脹脛ふくらはぎを啄んでくれると頭の中まで揉まれているようだ。
 ぐちゃぐちゃになった感情が少しづつ解れていくように感じる。
「如何ですか?」
「気持ちいいです」
 ナオは、素直に答える。
 シロイルカが喋っているなどという疑問はマッサージと一緒に解きほぐされてしまった。
「それでは一緒にシャンプーもしていきましょう」
 シロイルカは、再びヒレを上げる。
 黒い影がナオの頭上を覆った。
 ナオは、蕩けた頭で首を上げ、絶句した。
 そこにいたのは丸太のように太く、黒い身体を携え、鋭利な包丁のようなヒレ、そしてハーモニカのような横に長く伸びた顔を持った鮫だった。
 鮫は、ゆったりと身をくねらせてナオの背後に回る。
 そして営利なヒレでナオの髪を触る。
 ナオの身体が強張る。
「あらそんな緊張しないで」
 そんなナオの耳に入ってきたのはあまりに素っ頓狂な図太いオカマ言葉だった。
 鮫・・・確か水族館の紹介プレートには"シュモクザメ"と書いてあった・・・は、無数の鋭い牙を携えた薄い口で笑う。
 ハーモニカのような顔に浮かぶ笑みは、とても滑稽だが笑い返す余裕がなくナオの表情は固いままだ。
 シュモクザメは、困ったようにハーモニカの両端についた目を細める。
「あっひょっとして喋り方が気になる?ごめんなさいね。水槽を覗いてくる人間たちの言葉を聞いてる内に覚えちゃったのよ」
 そう言ってヒレをブンブン振る。
 その仕草は、コントなどでよく見る大阪のおばちゃんだ。
「こんな喋り方だけどレッキとした雄だから安心してね」
「はっはあ」
 べつにそんなのは気にしてもいなかったんだけどなあ、と思いつつも口には出さなかった。
 それにそう意味なら私だって・・・。
 解きほぐされたはずの心に再び重石が乗る。
 それに気付いたのか、シュモクザメはさらに笑みを深める。
「それじゃあシャンプーしましょね。鮫肌だけど痛くないから心配しないでね」
 そういうといつの間にか両ヒレに乗っていた泡でナオの髪を洗い出す。
「これね。綺麗好きの蟹さんたちが丹精込めて作ったシャンプーなのよ。きっと気にいるわ」
 蟹の泡・・・。
 ナオの脳裏に口から泡袋を吹く蟹の映像が浮かび慌てて掻き消す。
 細かい事を考えてはいけない・・・。
「随分傷んでるわね。トリートメントしてる?」
「最近、余裕がなくて手入れをサボってました」
 なんで普通に答えてるんだろう?と疑問が浮かぶが手足同様にシャンプーがとても心地良くてそんなことは忘れてしまう。
「ダメよ。貴方素材がいいんだからお手入れすればもっと美味しく輝くわよ」
 何やら怪しい言葉が出たが無視する。
「雌はね。いつだって輝いてないといけないのよ。輝いて輝いて雄のヒレを叩いて噛み付くの。逞しく、そして美しい。それがいい雌ってもんよ」
 なんか凄く良いことを言われている気がするが要所要所に鮫用語が入っているので変換が難しい。
「さあ、オーケーよ。泡は自然に流れていくわ。なんせ水の中だから」
 そういうとシュモクザメは、先程まで泡の付いていたヒレでナオの細い肩を叩く。
「今は辛いかもしんないけど直ぐ良くなるわよ。頑張んなさい」
 そう言い残し、シュモクザメは泳いで去っていった。
 いつの間にか手足を啄んでいた魚達もいなくなっており、靴もしっかりと履き直されていた。
「少しリラックス出来ましたか?」
 シロイルカがナオの隣に来ていう。
「はいっ気持ちよかったです」
「それは良かった」
 シロイルカは、笑っている顔をさらに深める。
「それじゃあ髪を切っていきましょう」
 そう言って持ち上げた右のひれに握られていたのは大きなヤドカリだった。
 ヤドカリは、キッとシロイルカを睨む。
「切っていきましょうって切るのはオレだろうが!」
「指示してヒレを動かすのは私です」
「てめえの指示なんてなくてもオレは最高の仕事ができるんだよ!」
「・・・食べますよ?」
「舌切ってやるぜ!」
 2匹は、目に怒りを蓄えて睨み合う。
 ナオは、困ったように2匹を見る。
 我に返った2匹は揃って「失礼しました」と頭を下げる。
 その様子にナオは、クスリと笑う。
 いがみ合っているようで本当は仲が良いことが伺える。
「それでは始めさせていただきますが、どのようになさいますか?」
 シロイルカに聞かれたが、正直美容院に、しかもシロイルカの美容院に来る予定などなかったのでまったく考えていなかった。
「・・お、お任せで」
 ナオは、恥ずかしそうに言って俯く。
 シロイルカとヤドカリは、目を見合わせて、にっと笑う。
「かしこまりました」
「私にどうぞお任せを」
 2匹は、そう言うとナオの髪にヤドカリの鋏を入れた。
 ナオの髪を切るハサミの音はとても気持ちが良く、リズミカルな音楽を聞いているようだ。
 ナオは、うっとりと目を閉じる。
「おい、その角度じゃダメだ」
「いや、ここを斜めに切るとエレガントさが際立つ。いう通りにやれ」
「馬鹿かお前は!ここは梳くんだよ。この方が軽くなってこの方の美しさがさらに映えるんだ。映えばえだよ映えばえ!」
「黙れ、食べるぞ」
「喉を裂いてやる」
 時折、耳障りな喧騒が聞こえ不安に駆られるが気にしないようにした。
 しばらくすると2匹の喧騒も途絶え、再びリズミカルな音楽が始まった。
「ところでお客様」
 シロイルカが畏まって聞いてくる。
「何かお悩みがあるのではないですか?」
 ナオは、閉じていた目を開く。
「えっ何で?」
「こう見えても客商売ですからね。顔を見ていれば何となく分かります」
 シロイルカに人間の表情や顔色が分かるのだろうか?
「どうです?人間同士では話せないことも私たちにならお話し出来るのでないですか?どうせ水の中で話すことです。勝手に流れていきます」
 上手いこといった、思ったのか?シロイルカは口をを吊り上げる。
 しかし、ナオはそんなことは気にも止めず、顔を下に向け、自分のお腹を撫でた。
 そこにはまだ何の証も出ていない。
「・・・子どもが出来たの」
 ナオは、小さく呟き、目を閉じた。

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