半竜の心臓 第2話 混じり者(1)
あの人が帰ってくる!
そう思うだけで気持ちが昂る。
胸の奥で鼓動が太鼓のように歓喜の音を立てる。
彼女は、縁側に座り、無駄な枝一つ無く、落ち葉ひとつなく、整列着席するように色とりどりの花々を植えられた庭を心を弾ませながら見た。奥にある石を綺麗に並べられた真円の池は澄み渡った青空を映し、陽光に煌めき、小鳥たちが水を飲みながらあわよくば小魚を食べようと目論んでいた。
女主人が精魂込めて造った庭は今日も平和だ。
世界で起きる喧騒も悲しみもここにはない。
あるのは温泉に入っているような心地よい温もりと心地よい風の匂いそして今か今かと期待と幸福に包まれた自分の心と心臓の高鳴る音だけだ。
彼女は、自分の横に置いた丸いお盆に目をやる。
何度も何度も確認したが抜かりがないかもう一度確認する。
女主人に頼んで仕入れた彼の国の魂の飲み物とも呼ばれる緑茶の茶葉と急須と桜と呼ばれる花が描かれた1組の湯呑み。直ぐに温かいのが淹れられるようにお湯さ沸かしてもらっている。
正直、独特の渋みはまだ苦手だが彼とお揃いの湯呑みで飲めるのは堪らなく嬉しい。それにこの渋みがその後に食べるお茶菓子の旨味を最大限に引き出してくれる。
今日のお茶菓子はロシェ。
綺麗な球体の形に整形された見目麗しいチョコレート菓子。中にはナッツやアーモンドも散りばめられていて食感も楽しく、何よりも上品で甘い。
チョコレート好きの彼女に取って思わず涎で溺れてしまうほどの垂涎の一品だ。
早く来ないかな・・・。
彼女は、ソワソワと短く激しくなる心臓の音を抑えることが出来なかった。
彼の帰りをこうやって待つ機会は正直言って少ない。
いつもは彼の、一行に同行して背中を合わせている方が多いから。
今回は、たまたま神殿での儀式の日が重なってしまい同行することが出来なかった。
本当はついて行きたかった。
彼の側で背中を見ていたかった。
しかし、彼の帰りを待つ、彼の帰れる場所となることもまた大切なことなのだと言い聞かせて彼女は待つことにした。
そしてようやく、昨日の夜に彼が帰ってくるという連絡を受けた。
彼女は、嬉しさのあまり一睡も出来ないまま彼を迎える為の準備を女主人と勤しんだのだ。
ひどい顔してないかな?
彼女は、見えない顔を触る。
髪は傷んでないよね?
夜に燃える焚き火のようだと彼が褒めてくれた赤い髪を房を摘んで目の前に持ってくる。
枝毛はなさそうだ。
んーっ早く帰ってきて!
彼女は、切実に願った。
やがて奥の方から「ただいま」と言う彼の声が聞こえる。
彼女の心臓が大きく鳴る。
背後から彼の廊下を歩く音がする。
足音を立てないよう鍛え上げられた彼の擦るような足音が。どんなに無意識に足音を消しても彼女の耳は誤魔化せない。
彼の足音が気配が近づいてくる。
彼女は、ゆっくりと立ち上がって振り返る。
もう目と鼻の先に立っていた彼は彼女が突然、立ち上がり、振り返ったことに驚くもすぐに口元に柔らかい笑みを浮かべる。
優しい笑顔。
大好きな笑顔。
彼女も自然と口元を綻ばせる。
「お帰りなさい」
「ただいま」
2人は、お互いに笑顔を浮かべ、再会を喜びあった。
心臓が喜びの鐘を何度も打った。
目を覚ました少女が最初に感じたのはうるさいくらいの自分の心臓の音だった。
(今のは・・夢・・?)
身に覚えもない・・自分ではない誰かの夢。
それなのに・・・。
少女は、自分の左胸に手を置く。
柔らかな布越しに伝わってくる心臓の音。
大きく、激しく、苦しく、なのに心地よい。
少女の心に理由の分からない喜びが、温もりが広がる。
(なに?なんなの?)
何を自分はこんなに喜んでいるの?
嬉しいと感じているの?
明らかに自分ではないのに・・・。
少女は、訳もわからず自分の胸に去来しているよく分からない感情に混乱した。
痛い。
切ない。
苦しい。
嬉しい。
そして・・・。
胸が高鳴る。
火傷するような熱が膨れ上がる。
少女は、思わず身体をきゅっと丸めた。
柔らかい布が足に、身体に絡みつく。
そして気づく。
(布?)
少女は、目の前に映る真っ白い布を見る。
そうこれは布だ。
人間種が身体を覆うのに使う脆弱な鱗の代わり。
いや、布だけではない。
布越しさらに奥にある見慣れない物たちに少女の目は大きく見開き、現実へと引き戻す。
少女は、勢い良く身体を起こす。
少女の目に飛び込んできた物、それは明らかに雪と砂利と岩に覆われた山にはない物であった。
四角い。
上も下も横も岩壁似た恐ろしく平らな白い物で囲まれている。
(これは・・建物・・?)
四方を囲む白い平らな岩壁のような物は部屋を構成する壁と天井というもの。
左側の白い壁に取り付けられ木漏れ日を差し込む氷のような透明な板を嵌め込んだ細い木を組み合わせた物・・確か窓というものだ。氷の板のようなものは恐らくガラスと呼ばれるもので向こうには夢に出てきたような澄み渡った青空が見える。
そして自分が寝ている長くて四角い、雪のように真っ白で枯れ葉の山のように柔らかいものはベッドというものではないか?
今は亡き母が棲家として使っていたと言う建物に家具と呼ばれる物。人間種の営みに欠かせないものとして父たる白竜の王に教えてもらったことがあるが実物を見るのは初めてだ。
初めてのはずなのに・・・。
(知ってる・・・)
建物も窓ガラスもベッドも初めて見る物のはずなのに少女はそれらを認識していた。物の名前と当てはめて把握することが出来ていた。
(なんで・・・?)
少女は、疑問を覚えながら右手で自分の身体を覆う白い布を握る。
その瞬間、疑問は彼方へと飛んでいった。
更なる衝撃が少女を襲った。
少女は、布から手を離し、そのまま右手を顔の近くまで持っていく。
「動・・く?」
少女は、右手を握り・・・開く。
握っては開く。
それを何度も何度も繰り返す。
動く・・・動く・・動く!
手首には醜く食い破られたような大きな傷痕が枷のように残っている。
しかし、動く。
痛みもない。
痺れもない。
抜け落ちたような空虚な感覚もない。
しっかりと力が入り、血の熱を感じ、何の違和感もなく動く。
少女の目から涙が零れ落ちる。
布の下から左手を出す。
同じように枷のような大きな傷跡がある。
しかし、動く。
痛みも違和感もなく動く。
少女は、白い布を捲る。
白く、細く、枷のように大きな傷跡が足首にのある両足が現れる。
少女は、恐る恐る足をベッドの下に下ろす。
確か床と呼ばれる木の板の冷たさが足裏に伝わる。
それはつまり足にもしっかりと感覚があると言うこと。
少女は、ゆっくりと腰を浮かせる。
膝を伸ばし、足の指に力を入れる。
立てた。
「立て・・る・・立てるよ・・」
もう2度と動くことはないと思っていた手が、足が動く。
少女は、足を一歩出し、二歩出して歩く。
それだけだ。それだけの行動に少女の両目から涙が溢れ落ちる。
ただ動く、ただ立てる、ただ歩ける。
これだけのことが・・これだけのことがこんなに嬉しいなんて・・・。
少女は、宝物のように動くようになった両手を胸に抱きしめる。
そこでようやく自分の身体にもベッドのような布、服と呼ばれるものを身につけていた。
疑問が戻ってくる。
ここは一体・・・・どこ?
自分は父たる白竜と仲間と一緒に雪山で暮らしていた。
そこに突然、暗黒竜の群れが襲ってきて父を殺して、心臓を食われ、仲間達を奪われ、自分は手足の自由を奪われて辱めと暴力を受けていた。
そして絶望の淵に囚われ、父の心臓を喰らった暗黒竜に父の死体を食べるように言われ・・そして・・勇者一行が現れた。
圧倒的な強さで暗黒竜達を滅していき、暗黒竜の王も目つきの悪い剣士に殺されそうになった時・・なった時。
(そうだ・・・私は・・)
少女は、左胸を触り、服の裾を捲る。
お臍から上の部分、乳房の下に隠れるように小さな刺し傷がそこにあった。
(そうだ。私は心臓をあの剣士に刺されたんだ)
なのに生きてる。
それどころか手足が動き痛みすらない。
「一体どうなって・・・」
「あーっ!」
明るい声が部屋の中を響き渡る。
少女は、驚いて声の方を向く。
長四角く開いた空間に女が立っていた。
春の若い葉のような肩まである新緑の髪、切長の大きな髪と同じ新緑の瞳、少女よりも華奢で小さな身体に魔術師が着るブカブカの生成りの長衣を身に纏っている。その顔は同性の少女ですら頬を赤らめるほどに整っている。
しかし、最も特徴的なのは耳だ。
竜の牙のように尖った両の耳。
「尖った耳・・・」
少女の目に恐怖が浮かび、後退り、踵がベッドの縁に当たる。
何でここにエルフが⁉︎
まさか自分はエルフに捕えられたのか⁉︎
少女は、動揺し、恐怖に身体を震わせる。
しかし、そんな少女の心境などまるで読み取らずにエルフはにっこりと微笑んで弾むような足取りで近寄ってくる。
「良かった!目が覚めたんすね!」
エルフの日差しを浴びた雪解けの小川のような明るさに少女は呆気に取られる。
膨れ上がった恐怖が空気の抜けた風船のように萎んでいく。
「もう1ヶ月以上眠ってたからこのまま起きないんじゃないかと思ったっすよ!」
エルフの少女は、少女の手を取ってぎゅっと握る。
「私、リンツっていうっす!普段は魔法使いやらせてもらってるんすけど時間がある時はこの施設で働いてるんす!まあ、雑用っすけど!」
そう言って後頭部を掻いてあははっと笑う。
雪嵐のように飛び出してくる言葉の乱射に少女は頬を引き攣らせる。
少女が引いていることに気づいたリンツと名乗ったエルフは、はたっと我に帰る。
「ごめんす。目が覚めたばっかりなのに・・・」
リンツの尖った耳が垂れ下がる。
「安心して。ここは私達、混じり者の為に造られた施設すから」
混じり者?
聞いたこともない言葉に少女は首を傾げる。
少女の反応にリンツも首を傾げる。
「貴方、半竜でしょう?」
ようやく知った言葉が出てきて少女は、思わず頷く。
「じゃあ、大丈夫っす!ここは王都の神殿や病院と違って私達を差別するような人はいないから」
そういうとリンツは、少女に背中を向ける。
「お腹空いてるでしょう?食堂で朝ご飯のあまりがないか聞いてくるから待ってて!」
そう言うとリンツは、足を弾ませながら長四角い空間を飛ぶように出ていった。
少女は、去っていった嵐を見送るようにリンツの背中を見送った。