うまい話はない、どこかで必ず苦労する

何かをしたい時に、ラッキーなことがあっても、どこかで必ずそれなりの努力や苦労は避けては通れない。ラッキーなことにラッキーが降ってきても、目的に達するまで苦労するものだと腹を括り続ける。

うまい話は存在しない

当たり前な話だが、うまい話は表に出ずに消える。よっぽど身内や親しい関係でないのに「"うまい話"が回ってきた!」と思ったら、必ず疑う。なぜ自分に回ってきた?、何か条件付きの"うまい話"で条件は隠されているはず。


逃げたら逃げたことによる不要な苦労が生まれる

逃げたことに関する罪悪感や社会的な評価からの肩身の狭さがある。そのことで嘘をついたり、本心とは違うことを言わないといけないことが出てきたりする。

逃げたことによりタイミングを逃すリスク。急いでその時に必要な苦労をしたら最速かつベストタイミングで物事が終わらせられたかもしれなかったのに。チャンスはちょくちょく回って来ないし、次回のチャンスが自分に回ってくるとは限らない。

挫折した、中途半端な結果になった、という負の記憶を自分に刻み込んでしまう。全く興味がないことであれば逃げたことに悪い記憶すら刻み忘れてしまうと思うが、本当はやった方がいいとわかっていることから逃げるとネガティブな記憶になる。


ラッキーだけでは到達できない

一部にラッキーがあったりするが、必ずどこかでそれ相応の努力や苦労は必須である。高額宝くじに当たった人はほぼ不幸になるのは有名だが、ラッキーだけでは終わらないのだ。

成功した人は「ラッキーが重なり」と表現するかもしれないが、ラッキーが生まれる下地には相当な苦労が隠れている。そして喉元が過ぎてしまった人は、血を吐くような努力をしていてもそこまで表現しないこともある。例え「血を吐くような努力をしていた」と表現したとしても、成功している立場で言われても、過去の姿は想像でしか見ることはできない。


筆者のラッキー・苦労パターン

今まである程度生きてきて、同じような傾向が繰り返されていることに気がついてきた。やはりそうなるか、という気持ちである。これはどの人もそうなのではないかと思う。本人の思考と行動パターン、それによって周りの人との関係性や環境がどこであっても似たようなものになってくる。筆者は日本であってもアメリカであっても同じパターンが繰り返されている。

”かなりラッキーなことに”苦労をほぼすることなく、かなり人気の世界に所属することができる。このラッキーは、他者による能動的な強いサポートのおかげで人気世界の門戸が開くのである。

そこから年単位の辛い努力期間が始まる。楽に入っただけあり、苦労して入った人よりも苦労する。いつも事前準備が足りないのだ。しかしもう仕方ないので、毎日自分の能力で出来るだけのことを続ける。

目の前のことをこなすことに忙殺されていると、またラッキーが降ってくる。ある日突然、立場や力がある人の鶴の一声で次の世界の門戸が開いて入ることを許される。そして次の試練年間が始まる。


まとめ

こういうラッキー・苦労コンボは大学の最終学年くらいから続いている。
本当にラッキーな人生である。今のところはとりあえず逃げずに頑張る。


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