プーチンに敢然と立ち向かったテトリス作者・パジトノフ
ロシアが2022年2月24日に突如として開始したウクライナへの軍事侵攻は悪夢ような光景でした。元KGBであるプーチンは徹底的な言論弾圧を断行、ロシア国内でこの蛮行を非難することは非常に危険な状態にあります。しかし祖国を離れてもなお、この不毛な戦争に異を唱える矜持を持ったロシア人も存在します。
今回は冷戦の壁を乗り越え西側のゲーム作家と友情を結んだテトリス作者、アレクセイ・パジトノフの祖国への想いを綴ります。
❶テトリスの衝撃
グラディウスII -GOFERの野望-やパワードリフトといった家庭用ゲーム機では到底不可能なゲームがひしめいていた1988年末のゲームセンター。その一角に長蛇の列が並んでいるのを見て僕は「新しい筐体が稼働したのか!」と胸をときめかせると、ディスプレイに映っていたのはアッカンベーをしていたサルでした。何とも地味な画面にがっかりして攻略中だったスプラッターハウスをプレイしたことを覚えています。このテトリスが世界中を席巻する怪物ゲームになることは全く予想できませんでした。
しかしその中毒性からどこのゲーセンでも人気が爆発、翌1989年には本格的なブームがやってきました。資料を見るとPC88やMSX版などのパソコン版の方が若干発売日が早いようですが、自分の体感だとテトリスブームに火をつけたのはこの通称「セガテトリス」と呼ばれたアーケード版だったと思います。
またセガ版は回転入れや接地から固定までの遊び時間が導入されていて、完成度がPC版やファミコン版より高かったことも一因でした。
テトリスは圧倒的な中毒性を持ったゲームでした。僕は当時中学三年生だったのですが、その後プロCGデザイナーになったMSX仲間のアミーガくんが、2月の高校入試の二次面接をすっぽかして大騒ぎになったことがありました。僕が面接を終えて学校に帰ってくると、担任の先生が青い顔で「お前心当たりはないか?」と聞くので「あそこだな…」と行きつけのゲーセンに行くと999999ptsでカンストしても狂ったようにテトリスを続ける彼の姿を発見したのでした。
前述したとおり日本での発売は1988年11月18日にPC版各機種からスタートしていました。僕も購入したので覚えているのですが、パッケージにソ連の国旗がデザインされており、東西冷戦の雪解けが近いことを感じたりしました。BPSの広告も「ソ連からのゲーム」であることが強調されており、社長のロジャース氏のその後の経営戦略を伺うことが出来ます。こちらもロングヒットしましたね。
更にテトリスが世界的に普及するきっかけになったのはゲームボーイ版。携帯ゲーム機で気軽に遊べるようになったうえ、対戦モードの搭載で「競いあうパズルゲーム」という更なる革命をもたらしました。この系譜はぷよぷよなどを経て現在でも続いています。
僕の体感だとゲームをプレイする敷居を大幅に下げたのがゲームボーイ版テトリスという印象です。電車の中でサラリーマンが遊んでいたり、僕の周りでも女の子のゲーム人口が飛躍的に増えました。
この時代を体験したゲーマーでテトリスをプレイしたことのない人は殆どいないと思います。
❷テトリスの生まれた時代
テトリスが冷戦時代のソ連で生まれたことは有名ですが、その当時の状況をちょっと追ってみましょう。テトリスのオリジナル版は1984年6月6日に完成しています。使用したコンピューターはエレクトロニカ60という1978年に開発された時代遅れのソ連製のマシンで、PDP-11という1970年代のアメリカのミニコンピュータ(汎用機とパソコンの中間ぐらいの物)のコピー品です。
エレクトロニカ60はグラフィックス機能を持っていなかったので、ブロックを表示するためにテキストが使われました。オリジナル版を見ると日本の黎明期の投稿プログラムを彷彿とさせます。
以前特集しましたがソ連を頂点とする共産圏ではコンピュータ技術、特にパソコンは非常に遅れていました。理由は色々あるのですが、一番の要因は西側のような高性能のマイクロチップを独自開発及び大量生産出来なかったことです。そのためソ連では米国のパソコンを密輸したり、マイクロチップをコピーしたりして自国のパソコンをでっち上げていました。
対共産圏輸出統制委員会、通称COCOM(ココム)では16bitマシンの輸出が禁じられていたので、西側の8ビットマシンであるMSXが1985年に公式にソ連の教育用パソコンとして輸出されたのは有名なお話です。
僕の父は1969年に初訪ソしてからソ連崩壊の1991年末まで20年以上に渡り、旧ソ連構成国アゼルバイジャンでの工場設営という事業に関わっていたのですが、
「私の知る限りソ連製のパソコンを見たことがない。現地の技術者の話では大学や研究機関に集中的に配備されていたようで、僅かに雑誌などで紹介されるのにすぎなかったようだ。だからこそ彼らにMSXを個人贈与した時、驚くほど喜んだものだ。」
と述懐しています。
当時のソ連国内でどれぐらいパソコンが流通していたのかをパジトノフ氏本人が述べているインタビューがあります。ソ連連崩壊直前の1990年末でのログイン誌によるもので
「ソ連のパソコンはとんでもなく高価なので一般人にはとても買うことができない。私の体感ではモスクワのパソコンユーザーは100名から多くて200人と言ったところ。」
と回答しています。モスクワ市の1989年の人口が897万人(同年の東京人口が1192万人、大阪府 873万人)ですから、大阪にパソコンユーザーが100人ちょっとしかいなかったとイメージすれば解りやすいでしょうか。
パジトノフ氏はソ連科学アカデミーのコンピュータセンターに勤務していました。彼は新規ハードウェアの性能を試験する立場にあり、この点非常に恵まれていたと言えます。
共産圏で使用されていた個人のホビーパソコンは当時世界最大のホビーパソコンだったアップルⅡや、欧州で安価で人気だったZX Spectrumが主流だったようです。これらはペレストロイカ政策にて1988年以後正規品が輸入されていますが、それ以前から個人輸入や海賊版が大量に流入していました。パジトノフ氏もパックマンなどのゲームに触れる機会があったため少しずつゲームに対する興味が芽生え、それがゲーム創作への大きな原動力になったのでした。ちなみにお気に入りはロードランナーだったとか。
この心境はソ連でも我々でもパソコンマニア同士全く同じ、いやそれ以上の物があったのかもしれません。
長くソ連と関わった僕の父の回想録によると
「ソ連という国家の本質は国防、平たく言えば軍事力に全て直結する構造になっていた。街並みから教育体制、人事に至るすべてにその強い意志を感じた。」
と述べています。後述しますがパジトノフ氏の仕事もコンピューターを軍事利用することだったのです。ですが彼が本当に望んでいたことは全く違っていました。それは
「コンピュータというものを人々を幸福にするために使うこと」
テトリスの長い歴史は、パジトノフ氏のゲーム哲学であるこの言葉に全て繋がっていると言っても過言ではないでしょう。
当時の心境を語ったいインタビューがこちら
テトリスはソ連科学アカデミーでも評判となりましたが、ここで大きな転機が訪れます。職員でもなく恩師の紹介で研究所に出入りしていた当時16歳の天才高校生、ヴァディム・ゲラシモフがIBM・PC用に移植したのです。ゲラシモフはプログラミング言語のPascal用に移植しただけでなく、色分けされたブロックを使うアイデアを提供しました。
アタリ製のアーケード版をはじめとする初期に発表されたバージョンでは「原案とデザイン」のクレジットにゲラシモフの名前もクレジットされています。ゲラシモフはその後オーストラリアに在住、Google でエンジニアとして働いています。ゲラシモフ氏のインタビューはコチラ
エレクトロニカ60はソ連内の研究機関中心に使用されていた限られたPCだったので、遊べたのはごく僅かな人々でした。共産圏でも普及していたIBM・PC用に移植されたテトリスは瞬く間にソ連国内にコピーされ、それが共産圏の衛星国にも広がることになります。それが当時西側との中継地点だったハンガリーのアンドロメダ・ソフトウェアに着目されたことがテトリスが世界中に展開されるきっかけとなりました。
その後のアメリカのテンゲン、セガ、任天堂の熾烈なライセンス契約の攻防は多くの媒体で書かれているのでここでは割愛します。
僕が着目したのは冷戦下の共産圏でもIBM・PCが実質的に標準的なパソコンとして使用されており、スイスのチューリッヒ工科大学で開発されたプログラミング言語のPascalが使用されていたという事実です。
世界が完全に分断され対立が続いていた冷戦時代でもパソコンやプログラミング言語が水面下で共有され、ゲームがその橋渡しをしていたことは考えさせられるものがあります。
パジトノフ氏にとって幸運だったことはゴルバチョフ政権が1986年から進めた改革、ペレストロイカが訪れたことでした。このことを彼はこう述べています。
「ペレストロイカは希望の時代、そして変化の時代が到来しつつあった」
現実問題としてパジトノフ氏はソ連政府の職員で、テトリスの版権はソ連貿易省の管轄にあり、幾らテトリスが売れても1ルーブルも入ってこないのでした。一説にはザ・テトリス・カンパニーが設立され利益を還元するようになった1995年までに彼が貰い損ねた利益は4000万ドル、当時のレートで約44億円にもなったそうです。
その危機を救ったある冒険者が、我が日本からモスクワの彼の元に駆け付けます。そう、我々レトロゲーマーなら『ザ・ブラックオニキス』の作者としておなじみのヘンク・ロジャースその人でした。
❸もう一人の主人公ヘンク・ロジャース
テトリスという物語のもう一人の主人公ヘンク・ロジャース。彼もまたユニークな伝説をいくつも持っています。
オランダに生を受け11年、ニューヨークに8年、ハワイに4年、日本に18年、サンフランシスコに7年、ハワイに7年と様々な場所で居住したという、まるで冒険者のような生活スタイルです。日本には最も長く住んでいたこともあり親日家の彼ですが、囲碁という趣味を持つ一面があります。実はこの囲碁が一つの物語のカギとなるので覚えておいてください。
ハワイ大学にてコンピュータの勉強をしていた際に日系人コンラッド・龍弥・小沢氏と卓球!を通じて知り合い、これがBPS創設の発端となりました。
ロジャース氏が当時米国で空前のブームだったTRPGの元祖「ダンジョンズ&ドラゴンズ」の面白さを教え、これがのちの「ザ・ブラックオニキス」に繋がることとなります。その後ロジャース氏の両親が山梨県甲府市で宝石商を営んでいたこともあり来日。日本にも「D&D」などのロールプレイングゲームを伝えたいという強い思いがあったと述べています。
D&Dをパソコンで再現したいという取り組みは本場の米国では1981年のWizardryやUltimaが既に作製されていました。しかし日本文化に精通していた二人は「英雄コナンや指輪物語を知らない彼らには難しい」と判断して、入門用のRPGとして1984年1月PC8801用ザ・ブラックオニキスを完成させました。この直後1984年4月のインタビュー記事です。
この時期のロジャース氏のインタビューを読むと「面白いゲームをユーザーに届けたい」という理想と共に、経営者としての鋭い読みがあったことが伺えます。
「日本は凄い秘密主義、それじゃダメですね。ソフトがなければハードは売れない。これからはパソコンメーカーとソフト会社が一緒に仕事をしなければならない時代。」
世界中を巡ってきた彼は、日本のパソコン技術の高さを認めつつもその弱点をも看破していました。日本のパソコンユーザーとしては残念なことなのですが、この思想は家庭用ゲーム機戦争で任天堂が勝利する大きな要因になったのでした。ロジャース氏の未来には既に日本国内に留まらない世界市場が描かれており、1984年11月のインタビューでは「世界一のソフトハウスが夢」と述べています。
うんちくとしてブラックオニキスに登場するウツロの街は、BPSの所在地だった横浜市神奈川区にある内路という地名から採ったそうですね。またMSXの名作レイドックやスーパーレイドックのタイトル画面で流れる、本部とプレイヤー機との交信音声を演じたのはロジャース氏と小沢氏なんです。T&Eはどういう経緯で依頼したんでしょうね。
どのような投稿でもMSXネタを放り込むのが僕のスタイルです😁
❹冷戦の壁を越えたゲーム作家の友情
このように全く違った半生を送っていたパジトノフ氏とロジャース氏はどのように結びついたのでしょうか。
テトリスの歴史は多くの媒体や映画などで語られていますが、真実だけでなく脚色や伝説めいたことも多いので「このような感じだった」というお話として聞いてください😁
1988年にアメリカのラスベガスで開催されたゲームの見本市Consumer Electronics Showにロジャース氏が参加したことが切っ掛けだったそうです。この時BPSは囲碁ソフトを米国に紹介しようと試みたそうですが、日本でもマイナーな囲碁ゲームは見向きもされませんでした。意気消沈するロジャース氏でしたが偶然となりのブースで大人気だったのがテトリスだったのです。インタビューでロジャース氏はテトリスの印象をこう語っています。
「これは面白い!と確信したよ、自分もプレイしてみるとあのブロックたちが夢にでてくるほど。これこそパーフェクトなゲームでした。
僕の親父は囲碁が好きでね。黒と白の石を置いていくだけのゲームなのに、これほど奥深いゲームはまたとない。それで良いゲームを作るのにキャラクターなどはいらないんだとテトリスを通して再発見することができたんだ。テトリスはピュアな幾何学であり、文化的な要素は一切ないただの数学だ。しかし、だからこそすべての人間にアピールできたと思うね。」
ゲームに対する考え方は千差万別だともうのですが、テトリスが幾何学的なパズルだからこそ文化の壁を越えて世界中で愛されたことは間違いないことだと思います。
早速テンゲンからサブライセンスを取得、日本のパソコン用テトリスを完成させ1988年11月18日に発売にこぎつけます。直後の12月22日ファミコン版を発売、この時は妻や親の資産まで担保に入れて20万本製造したと言います。
しかしロジャース氏がテトリスに最も適したプラットフォームと考えたのは、その時点でまだ完成されていない携帯型ゲーム機ゲームボーイでした。そのライセンス契約取得のために彼が取った行動とは…何とまだ会ったこともないテトリスの原作者であるパジトノフ氏と直接交渉するためモスクワに飛んだのでした。
1989年2月21日ソ連末期のモスクワにたった一人で降り立ったロジャース氏。彼はロシア語を話すことも出来ず、さらにビジネスの交渉に来たにも関わらず観光ビザでの入国でした。ソ連の滞在経験の長い僕の父の話ではこれは極めて危険な行為だと言います。何しろモスクワの中心部は悪名高いKGBの本拠地で、全ての外国人は監視対象になっており、いつ強引に逮捕されるか分かった物ではないからです。
モスクワの冬は厳しく、毛皮のコートを買おうと店に入っても不愛想な態度で何も買えず追い出され、早速ソ連共産主義の洗礼を受けるロジャース氏。何のつてもなく、どのようにパジトノフ氏に会う気なのでしょうか。
「でも、私自身はこの旅をアドベンチャーゲームとして見ていたので、とても楽しかったんだ。ただ、どこかで道を間違えていたら“溶岩の穴”に落ちていたかもしれない(笑)」
実際の所、彼はパジトノフ氏についてほとんど知識がなかったと述べています。しかしこの謎めいた人物を見つけ出すことこそ、ライバルたちを出し抜くこのゲームの肝だったのです。黎明期のテキストアドベンチャー並みの難易度ですが、この時のとった行動はまさに「冒険者」ロジャース氏の面目躍如といえるものでした。
「私は囲碁をするので、友達が作れるかもしれないと思ってモスクワの囲碁協会を探しました。結局、ソ連で3番目に強いプレイヤーと対戦することになり、勝ったのですが彼は英語が話せませんでした。」
皆さん!もし言葉の通じない異国の地に仕事で赴いて、
「まあ友達作ればなんとかなるだろ。とりあえずゲーセンでストⅡで対戦だ!」
って思考になりますか?凄すぎますよ。
どうも勝敗については文献によってまちまちなのですが、ロジャース氏がとりあえず「友達」を作るためにモスクワの囲碁協会を探し出し、一局交えたのは本当のようです。遠い異国の地から来た奇妙な男に、言葉も通じないソ連囲碁協会のメンバーは色々協力してくれることになり、隠れて通訳兼ガイドとして働いているという若い女性を紹介してくれたのでした。
その後色々と紆余曲折あるのですが、この冒険の一つの目的である「まだ見ぬ相棒」とロジャース氏が初めて出会ったのはモスクワのチェス連盟の会場だったと言います。ここでもゲームが二人を引き合わせたのでした。この時の心境をパジトノフ氏はこう述べています。
「テトリスの版権を求めたビジネスマンがまた来たと知ったとき私はうんざりしていた。しかしヘンクがゲームデザイナーでもあることがわかると、私の心の全てが変わった。なぜなら彼こそが私の人生においての最初の同僚になったからだ。当時のソ連にはゲームデザイナーというものは存在していなかった。同じゲーム開発者として、すぐに意気投合したよ。」
この出会いは運命的なものでしたが、パジトノフ氏が直感でロジャース氏を相棒と認めたことは大きな幸運でした。何故ならロジャース氏はパジトノフ氏が持っていない「魔法の武器」をいくつも所有していたからです。
まずソ連から離れたことのないパジトノフ氏は家庭用ゲーム機の存在を知りませんでした。
「私はパソコンのためにゲームをデザインし、パソコンだけを念頭に置いていた。私はそれまでの人生において、家庭用ゲーム機やましてや携帯ゲーム機を見たことがなかった。だからテトリスの原型は、コンピューターのプラットフォーム専用に設計されたものだ。ゲーム機用には調整が必要だったが、ヘンクの提案はそのプラットフォームに非常に適していた」
とロジャースを評価しています。
またソ連共産主義下で生活していたパジトノフ氏は契約の概念に疎く無知でした。これがテトリスのライセンス関係を複雑にし、混乱を招く要因となったのですが、これは仕方のなかったことだと思います。
しかし世界中でビジネスをしていた宝石商の血を引くロジャース氏は、契約についての深い知識と長い経験がありました。これはテトリスがビジネスとして飛躍する大きな武器になったと思います。
またロジャース氏はフェアなビジネスマンでした。前述したとおりこの時期のパジトノフ氏はソ連政府の職員で幾らテトリスが売れても1ルーブルも入ってこない状態でした。その後二人はザ・テトリス・カンパニーを設立し、世界中の著作権とライセンスを管理していますが、二人の仲が現在でも良好であることはフェアなビジネス関係であることの証明だと思います。これはあたり前のことに感じますが、原作者をリスペクトせず不誠実な契約をするビジネスマンは山ほどいるのです。
しかし最終的に二人を結び付けた一番大きな要因は、お互いのゲーム哲学が同じだったことだと僕は強く感じます。
「コンピュータというものを人々を幸福にするために使うこと」
このパジトノフ氏言葉にロジャース氏は大いに賛同したのでした。
しかしこのアドベンチャーゲームはここでエンディングとはなりません。ソビエト連邦外国貿易省というラスボスを「説得」しなければならないのでした。
「そしてアレクセイを訪ねると、そこにはアレクセイの他に十人ものソ連当局の官僚たちがズラリと並んでいて……彼らは『パソコンゲーム、家庭用TVゲームなんて知らない。そんなものを作る許可を出したことはない』と。
しかしもう後には退けない状況だからね。そこはありったけの愛嬌を駆使して交渉するしかない。当局の人たちはビジネスには疎い。ビジネスの初歩から説明し、任天堂から担当者をモスクワに呼び寄せ、ソフトの利益の一部を、当局に納めるという形で無事に契約を取り付けたんだ。」
ここでもロジャース氏の「魔法の武器」が冴えわたります。この時交渉にあたったのが世界最強と謳われた、任天堂知的財産部だったのでした。このコネの元を辿れば前述した任天堂の社長だった山内溥氏と碁を一局交えたことに繋がっているのです。碁に始まって碁に終わったロジャース氏のアドベンチャーゲームの結末は、皆さんの方がご存じのことでしょう。
僕の弟のような熱烈なセガファンの方の中には、セガが「天下を取り損ねた男」になった原因として憤慨している人もいると思います。しかしまあこれは時代のあやということで…😁
おまけで濃厚なイラストで有名な石原豪人先生の描いた伝説のアレクセイ・パジトノフの秘密。このマンガをロシアのサイトで発見した時は笑いが止まりませんでしたよ🤣内容はムチャクチャですが最高に面白いです。
❺プーチンを敢然と批判したパジトノフ
時代を巻き戻してパジトノフ氏のルーツを紹介しましょう。彼は1956年3月14日にモスクワの哲学者、レオニード・ニコラエヴィチ・パジトノフの息子として生まれました。父親はモスクワ州立大学で「マルクスの共産主義および哲学的見解の形成」という論文を発表しています。当時のソ連ではソ連共産主義を礼賛しなければ要職に就けなかったので、これは自然な流れと言えます。
モスクワ航空研究所を優秀な成績で卒業し、ソ連科学アカデミーのコンピューターセンターで人工知能と音声認識の職に就くことになります。そのクライアントはソ連国防省とKGBでした。ソ連国防省はジェット機を操縦するための音声制御機能の開発、KGBは電話で反体制派を盗聴する方法を模索していたと言います。パジトノフ氏は後年こう回想しています。
「あまり乗り気のする仕事ではなかった。」
国民を盗聴したりする仕事はパジトノフ氏のコンピュータ哲学と真逆のことに他なりませんでした。
僕はロシア語の資料の中で、ある興味深い記事を見つけました。『パジトノフ氏がソビエト連邦の建国の指導者ウラジーミル・レーニンを嫌っていた』という記述です。
旧ソ連では建国の父であるレーニンは神格化され、モスクワ市中心部の赤の広場にあるレーニンの霊廟を参拝するのは国民に義務化されていました。ソ連での仕事が長かった僕の父も、半強制的に礼拝する行事に参加させられたと言います。
しかしパジトノフ氏は体調不良を理由にこの行事をサボっていたのだそうです。
パジトノフのレーニン嫌いについて「彼はそのことについて公然と話すことができなかった」
これがソ連崩壊後の1991年12月以降であれば珍しいことではなかったかもしれません。しかしソ連共産党独裁体制の中で、しかも国営科学アカデミーという中枢機関で働いているパジトノフにとってこういった言動は極めて危険なものでした。僕の父も反政府思想が疑われ更迭されたり、不当逮捕された現地職員を何人も知っていると言います。
パジトノフのレーニン嫌いについての記述があるロシアのサイト
ソ連共産主義を礼賛する論文を発表した哲学者を父に持つパジトノフ氏が、どのような経緯でこのような考えに辿り着いたのかは判然としません。しかしこれは僕の意見に過ぎませんが、パソコンやゲームに触れる過程で少しづつ育まれていったことだと思うのです。何故なら同時期に西側の自由の象徴としてMSXというパソコンを僕の父からプレゼントされた、ソ連の技術者たちの覚醒の経緯と酷似しているからです。
パソコンの未来への可能性、それは東西対立の壁を越えて人々を結び付けるツールであり、その解答はゲームであるということを…
哲学とは自分なりの「問い」を立てながら拘りを持って考えをつきつめていく学問のことです。僕の大学での哲学の先生が「結論ではなく思考の過程こそが哲学である」と述べていました。だからこそパジトノフ氏のパソコンやゲームに対する葛藤を、多くのゲーマーの皆さんに知って貰いたいと思ったのです。
1996年2月にパジトノフが盟友ロジャースと共にザ・テトリス・カンパニーを設立しライセンスを管理をするようになると、彼は巨万の富を築くことになりました。この時期からロジャースの勧めもありパジトノフは生活の拠点をアメリカに移すことになります。しかし祖国ロシアへの愛情を捨てたわけではありません。何故なら2011年の時点では、ロシアの最高学術機関であるロシア科学アカデミーに在籍していたからです。
そして時は経ち、2022年2月24日に突如としてウクライナへの軍事侵攻が始まりました。パジトノフ氏は同年3月、すぐさま複数のメディアに対し、祖国ロシアを非難する声明を発表したのです。その首謀者であるウラジーミル・プーチンを名指しで強い言葉で攻撃します。
「魂のない狂った独裁者」であり「戦争犯罪者」そのものであると
プーチンの戦争と暴力によってもたらされる世界の支配、それはパジトノフの描いた理想郷と対極の世界だったのです。
しかしそれは非常に危険を伴う発言でした。中には「安全なアメリカに住む億万長者の戯言」と心ない批判もありましたが、それは旧ソ連の流れをくむロシア諜報機関の恐ろしさを知らないからです。
ロシアではソ連崩壊後も国外に脱出したロシア人の殺害が発覚しており、中には「誕生日プレゼント」と称してプーチンの誕生日に暗殺を実行されたケースも多々あるのです。
「裏切りは絶対に許さない」
これがKGBの諜報員だったプーチンの断固たる意志なのでしょう。さらに標的は本人ばかりではありません。『罪は九族に及ぶ』とばかり家族が狙われる悲惨なケースもあります。
2018年に、英国の商業施設のベンチで元ロシア軍情報機関大佐セルゲイ・スクリパリ氏と娘ユリアさんが意識不明で発見されたという痛ましい事件がありました。旧ソ連で開発されたとされる神経剤「ノビチョク」が使用され、容疑者らは「ロシア軍参謀本部情報総局(GRU)の将校」と認定されました。
2023年にApple TV+ で配信された「映画テトリス」のインタビューでパジトノフ氏はロシア人として苦しい胸の内を語っています。それは祖国ロシアを愛しているからこその苦言でした。
「ペレストロイカの時代は希望の時代、そして変化の時代が到来しつつあった」
「残念ながら今はもっと絶望的な時代であり、ロシアの状況はもっと暗い。それは非常に残念なことだ」
それに相棒のロジャース氏が呼応します。
「私たちは異なる世界から来て性格も異なりますが、それでも私たちは友達です。そして究極的には、世界中のすべての人が友達になれるのです。」
「子どもたちに戦争に行くよう命令する政治家たちに、出て行けと言う必要がある。もう戦争はやめろ。」
共産主義全盛の旧ソ連で生まれ育ったパジトノフと国際ビジネスの申し子で西側世界を渡り歩いてきたロジャース。全く違う人生を歩んできた彼らの友情は同じ想いで繋がっていたのです。
「ゲームやコンピュータというものを人々を幸福にするために使うこと、そして究極的には、世界中のすべての人が友達になれること。」
僕はこのインタビューを読んだ時、溢れる想いをこらえ切れませんでした。あのテトリスにこんな素敵なメッセージが込められていたことに!
テトリスの作者アレクセイ・パジトノフ氏、ロシアは今や「絶望的」だと感じる。「映画テトリス」のインタビュー
映画「テトリス」ロジャース氏&パジトノフ氏のインタビュー。3分ほどですが日本語訳もあり必見です。ロジャース氏の「日本の文化が世界に花開くのはアニメとゲームだ」、パジトノフ氏の「日本のゲームセンターは凄い」の言葉に涙してしましましたよ🥹
❻最後に…暴力に屈しない矜持を
2022年に開始されたロシアの蛮行に対して、日本人である僕はほとんど何もできませんでした。そして僕以上に歯がゆい思いをしていたのは長年旧ソ連で仕事をしていた僕の父でした。
ここだけの話ですが、父の友人だったソ連通商代表部所属だったロシア人が日本に帰化した際、色々と支援した経験があるのです。彼は絶対に携帯電話を所有しようとしませんでしたし、居住の際、大家さんの了解を得て僕の名義でアパートを借りていたこともあります(個人情報保護のため意図的に虚偽を混ぜております、ご了解ください🙇)
彼曰く「奴らは裏切り者は絶対に許さない」
ソ連各地の産業発展に寄与してきたことは父の誇りでした。しかし多くの知人友人のいるロシアの不毛な戦争に対しては
「本当に悲しく、怒りを禁じえない。」
父は若き日の思い出を語りながら、そう寂しそうに呟くのです。
現在父は反戦在日ロシア人団体を支援する活動を行っています。ロシアの蛮行は断じて許されるべきではありませんが、それに反対するロシア人も数少ないながら存在することを知って頂ければ幸いです。
今回の投稿はたまたま「映画テトリス」のインタビューを読んだことが切っ掛けだったのですが、調べていくうちにパジトノフ氏の勇気とゲーム哲学に深い感銘を受けました。
彼が我々にとって当たり前のことであっても、暗黒のソ連共産主義の中で
「コンピュータはを幸福にするツールであり、それはゲームであること」
という答えに行きついた素晴らしさを、どうしても皆さんに伝えたくなったのでした。またそれと同時にかつてテトリスをプレイしたゲーマーの一人として
「プーチンの暴力に断固たる反対」
という自分の意思を、どこかに書き残しておきたかったのです。
今回はいつも以上に気合が入りすぎ、詠みにくい冗長な投稿になってしましました。それにも関わらず最後までお付き合い頂いた皆様に心より感謝いたします🙇
2025年1月27日未明 サイボーグMSX
追記、この投稿を書き上げた直後に僕のXのアカウントが凍結されてしまいました😭どうも僕のパソコンが運営からマークされているのだと思います。暫くはnoteで情報発信していきますので宜しくお願いいたします🥺