宮下奈都『メロディ・フェア』とお化粧のこと
百貨店へ行ったついでに、口紅を買いに立ち寄った。
2色で迷って、どちらもタッチアップしていただく。
片方の色が唇に乗ったとき、顔色の明るさがぱあっと変わった。
なるほど、こちらの色の方が、コントラストが際だって肌がきれいに見えるのだ。
若い美容部員さんが、自信たっぷり、にこやかに頷いてくれる。わたしも頷きかえして、そちらの色を購入することにした。
そんなときにふと思い浮かんだ、大好きな小説について。
大学を卒業して、化粧品会社の美容部員として就職し地元の福井県に戻ってきた主人公。
とはいえ受かったのは憧れていた会社ではなく、配属先も郊外にあるショッピングモール内の化粧品売り場カウンターで、お客様はなかなか来ない。
きれいな先輩は“凄腕”らしいが、パートだし、どうやら前任者を辞めさせたような噂もあるらしい。
家に帰っても、こちらはこちらで、都会から戻って美容関係の仕事に就き、化粧や流行の服装を好む主人公は、同居する母や妹から少し異質な存在と見られているようで……。
若い女性が、迷いながらも進んでいく日常を描いた、いわゆる「お仕事小説」だ。
小説の中で、主人公は悩むことも、立ち止まることもある。
けれど、いかなるときも内心の呟きがちょっとコミカルだったりして、からっと前向きな雰囲気があるのだ(彼女のパーソナルというのもあるだろうけれど、宮下奈都作品の、魅力のひとつであるとも思う)。
若くてきれいな都会帰りの新入社員、というような自己ブランディングを、彼女はしない。
ショッピングモール内のあちこちの売り場で勤める先輩や同僚たちにまでも、いじられたり面倒をみられたりする愛嬌がある。
そんな彼女が、こと化粧に関することにおいては、凛とした姿勢となり、プロとして奮闘する。新米だけれど、悩みながらではあるけれど、困難や課題に毅然と立ち向かっていく。
そのギャップが、とてもリアルですてきだ。
誰にだって信念がある。
それが彼女にとっては化粧なのだ、ということ、そしてその理由が、作中では語られる。
さらに、それゆえに家族の中で彼女が異質となった、そのわけも。
作中をとおしてときおり会話に混じる福井弁が、さっぱりとした風情で、主人公や周囲の人々の表情を鮮やかに引き立てるのも、心地いい。
この小説を初めて読んだとき、わたしは高校生だった。
メイクや髪型に規則のない学校だったわりに、色付きの日焼け止めにリップくらいしか使っていなかった気がする。
雑誌やアットコスメで評価の高い化粧品をチェックしたりはしていたけれど、手を伸ばす勇気が出なかったのだ。
ほんのときどき購入するのも、ドラッグストアの棚に並んだコスメくらい。
美容部員さんのいるカウンターなんて、とても近づけない場所だった。
でも、『メロディ・フェア』を読んで、あ、いいな、しっかりとお化粧と向き合うのって、たのしそうだな。と感じたことを覚えている。
そして、今。
30代を迎えた今も、化粧品を高級ラインで揃えて、美容に精を出して……、というほど美意識の高い女性にはなれなかったけれど、ここぞというときに、自分に似合うもの、ちょっといいものを使おう、と思える程度には、お化粧のことが好きでいる。
万人受けすることで有名な色。
でも、確かにこのわたしの顔を、明るく見せてくれる色の、新しい口紅を手にして。
この小説のこと、あの頃のわたしのことに、思いをめぐらせた。