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詩人の沈黙
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか
戦争や言論弾圧に際して、如何に詩人が振る舞ったのか調べていた。
太平洋戦争が終結し、日本が敗戦を迎える前は、詩の領域においても戦争賛美がなされた。
近代詩の先鞭をつけた北原白秋とその影響を受けて口語詩を確立した萩原朔太郎は、晩年に戦争が苛烈さを増すにつれ、日本賛美的な創作活動を行った。白秋は「日の丸万歳」の童謡や戦争詩を詠み、朔太郎も『日本への回帰』を執筆して伝統的な「日本」への回帰を謳った。
しかし、戦後になって戦争が間違っていたと反省するムードへと一転する。詩人達は、自らの行いを悔いるように内省を始める。
鮎川信夫や田村隆一を始めとする「荒地」の詩人たちは、戦前のイデオロギー的な詩と距離を取った。否、取らざるを得なかった。そして、彼等は内面性を深めていく詩を書くようになる。
彼等にとっては、何を書くかということなどよりも、まず「沈黙してはならない」ということの方が先決だったのだ。
寺山修司は、とりわけ「荒地」の詩人達が背負ってきた書くことの重みを以上のように述べている。
多くの詩人達が時の権力の魔性に屈し、戦争協力を行ってきた。言葉を生業としてきた彼等の果たすべき贖罪は、"沈黙"を破り、ただ書くことしかなかった。
だが、転換する社会の狭間で、詩人達は逡巡し続けていた。
北原白秋が才能を見出だした、まど・みちおは、戦時中に子供向けの戦争詩を書いた。彼が"沈黙"を破り、戦争詩を書いたことを告白したのは戦後約40年経てからだ。
我々青年を囲繞する空気は、今やもう少しも流動しなくなつた。強権の勢力は普く国内に行亘つてゐる。-さうして其発達が最早完成に近い程度まで進んでゐる事は、其制度の有する欠陥の日一日明白になつてゐる事によつて知ることが出来る。
戦前から戦中にかけて、自由に語るということはすなわち、"死"に等しかった。
既に明治の終わりに歌人の石川啄木は、言葉を生業とする者達の危機的な心性を鋭敏に察知している。
彼は言論弾圧への足掛かりとなった大逆事件の衝撃から「時代閉塞の現状」というエッセイをしたためている。
大逆事件は、国家ないしは天皇制に反旗を翻した幸徳秋水等が死刑になった事件だ。エッセイのなかでは迎合する自然主義作家を名指しで批判しつつも、喪失されていく自由な語りへの閉塞感で溢れている。
言論が統制される時代に権力に迎合しないということは、不敬罪としての投獄や死刑も免れないということになる。
"沈黙"しなければ悪となり、"沈黙"を貫けば殺される。言葉を生業としてきた詩人達の宿命だ。
戦後の詩人に残された道は、一見、"沈黙"を破る振舞いをすることで、己の深部に眠る本当の"沈黙"を守ることであったのかもしれない。
改めて冒頭の田村隆一の詩を読んでいると、深部に眠る"沈黙"の露頭が顔を覗かせているようにも思えてくる。