【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第79話-やまない雨の季節〜紗霧の雨②
紗霧は自室で中学1年生の頃の写真を見つめていた。
整えられた髪。薄緑のカーディガンがお気に入りだった。初デートで身につけた、薄ピンクのロングスカートは今でもクローゼットにしまってある。もう着ることはできなくなってしまったけれど。
紗霧は薄いカラーの服が好きだった。白に近くて、それでもしっかりと個性を出している色たちが。
漫画のように見ればわかるような個性ではなく、小説のようにじっくりと読み取るような個性が好きだったのだ。
それでも貴志との日々は鮮明な色で、紗霧の世界を染めていた。
あれから二年も経つというのに、まだ心を染める貴志の色は抜けない。
ただあの幸せは、頼りなく色褪せてしまったのだけど。
人目が怖くて前髪を伸ばした。それを雑に切り刻むと、声をかけてくる男子はどんどん減っていった。視力は落ちていないが、メガネをかけるようになった。レンズ越しに世界と隔絶されると、守られている気がして、紗霧はメガネを手放せなくなった。
深いため息をつく。息を吐き切ると、腹部につけた無数のキズが、ずきりと痛んだ。
二年間氷漬けになっている心を、過去に飛ばすことだけが、紗霧の生きる支えになっていた。
ネモフィラが点々とプリントされたシャツの上に、薄緑のカーディガンを羽織る。今日は髪を首の後ろで結んでみた。
今日の姿は貴志の目にどう映るだろう。
「うん、今日もかわいいよ」
鏡の前で全身をチェックしている紗霧に向かって、声をかけたのは母だった。
父はその後ろから涙目でこちらを見ていた。
別に結婚して出ていくわけじゃないんだから。
「何だって?紗霧の事を彼女にしておいて、結婚しない?北村くんを今すぐここに連れてきなさい!」
軽い気持ちで娘と付き合うとは何事だ!父の放つ怒号に、紗霧は小さくため息をついた。
「中学1年生が付き合って一月も経たないのに結婚とか言い出したら、逆に不安だわ。
それに、今日はお母さんが家にいらっしゃるらしいから心配いらないよ」
母が父をなだめる。しかし父はおさまらない。
「お母さんが…いる?そ、そ、そ、それってやっぱり…」
父はどうしても娘が結婚して奪われる妄想から頭が離れないらしい。
まだ中学生だってば。
父は結婚うんぬん以前の問題で寂しいらしい。
やや過剰な反応に見えるが、父の愛情を感じて、紗霧は悪くない気分だった。
「私はお母さんとお父さんみたいな夫婦に憧れてるよ」
きゅん…。父が心を鷲掴みにされる。その意味に気づいたのは、娘が家をでた後だった。
両親は中学1年生で出会い、付き合い、そして結婚している。
「それってつまり…」
父は娘のいなくなったリビングでさめざめと泣いた。その背中をぽんぽんと優しく叩く母。
お似合いの夫婦の初体験は、中学の頃に迎えていた。そのことに二人の記憶が繋がったのは、紗霧が北村家の前に到着していた頃だった。
「紗霧、カムバック!」
家で父が絶叫していることなど、紗霧には知りようもないことだった。ただくしゃみが1回飛び出した。
一世一代の決意が無ければ「好きだ」の一言も言えない照れ屋の貴志。それでも彼は紳士的で、紗霧の事を大切にしてくれている。高島理美が嫉妬と殺意のこもった目で見つめてきた時は、かばうような素振りを見せてくれた。
そう言えば貴志は古武術の道場に通っていて、とても強いらしい。付き合う前に、貴志が山村裕と話しているのを聞いた。しかし貴志はそんな素振りも見せない。
平和な世の中で力を誇示しても何も良いことはないと、貴志は言っていた。だけど必要な時に大切な人を守れるように鍛えておきたいとも…。
付き合って今日まで過ごした時間はまだまだわずか。だけど両親と同じくらい、貴志がいない未来を想像することができなくなっていた。
「今日こそ名前で呼んでもらうんだ」
告白の日に寝る前までメッセージ交換して、お互いを名前で呼ぶことが決まった。
だけど未だに姓で呼びあっている。紗霧には貴志に「好きだ」と言われないことなんて、不満に感じる資格がない。
自分だって恥ずかしくて、貴志に「好きだ」なんて言えたものじゃないのだ。まして名前で呼ぶなんて。
想像しただけで、胸がムズムズする。むず痒くて、こそばくて、なんとも形容しがたい気持ちが胸にこみ上げてきた。
貴志を想うと、頭からどんどん言葉たちが抜け落ちてしまうのだ。
うきうきした気持ちで歩いていると、思ったより早く貴志の家に着いた。知らず知らず速歩きになっていたらしい。
そして今までの軽い足取りが嘘のように緊張感が込み上げてくる。
ごくり。口の中を満たす緊張の証を飲み込んで、紗霧は呼び鈴に指を伸ばした。
紗霧には気づきようがなかった。
遠くから、それを見つめる視線があることなど。その視線の主が憎々しげな舌打ちをしていた事も。
2年後には髪型も服装も、おしゃれとは程遠い姿をしていることなど。自分でつけた傷痕を疼かせながら、貴志を想って泣く日々など。
今このとき、幸せで頭がいっぱいの紗霧には、想像できるはずが無かったのだ。