【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第91話-梅雨はまだ明けない〜雨、再び②
体育館の外から歓声が聞こえる。男子の体育は校庭でサッカーだと言っていた。
雨上がりのぬかるんだ校庭で?洗濯の事を考えると頭が重くなる。
もっとも紗霧が洗濯するわけではないのだけれど。
貴志くんが活躍してるのかな。すごい歓声。
紗霧の恋人は体育館の壁を隔てた向こうで、泥ハネを浴びながらサッカーをしている。
紗霧の妄想ではキレイな顔の貴志が大活躍していた。まさか髪をドロだらけにしてヘディングシュートをかましているなんて思いもしない。
凄いなあ。あんなに勉強できるのに、スポーツまで万能なんて。
それに比べて…。
紗霧は運動が得意ではなかった。むしろ苦手と言うべきか。柔らかい物腰とは裏腹に、体は固い。ストレッチがストレッチの形にならないから、言われた通りにしても、どこも伸びない。そのくらいに固い。
徒競走も人並みより少し遅いし、球技はボールが思ったところに飛ばせない。
紗霧は恋人への劣等感で小さなため息をついた。
「なんか守ってあげたくなるよな」
男子たちがこぞってそんな事を言っているなど、紗霧は知らない。
貴志も例外ではない。運動が苦手なところも含めて、坂木紗霧の魅力なのだ。
しかし今は、その坂木紗霧の魅力そのものが女子たちから妬みと反感を買う原因となっている。
女子たちのアイドル…いや、王子様たる北村貴志の恋人と言う地位を、手に入れてしまったのだから。
2クラス合同で行われる体育の授業。女子は体育館でバスケットボールをしている。
コート外で試合を見学する生徒たちが目配せしあっている事に、紗霧は気づかない。
紗霧が今わかっていることは、笛の音が鳴ると自分の出番が来るということ。
貴志からは見学を勧められた。学校内の女子たちから発せられる攻撃的な空気が、いつ刃と化すのかわからない位に緊迫している。
女子たちが紗霧を排したい理由は、貴志が目当てなのだ。だから貴志の目の前では攻撃に転じることはないはずだ。ならば男女分かれた体育の時間はどうだろう。貴志は危険だと判断した。
だけど今は授業中だ。
勝手に妬まれて、授業を受ける権利を奪われるのは納得行かない。それに教師の目だって光っているのだ。めったな無ことはないはずだった。
笛の音が響いて、見学していた生徒がコート内に整列した。
昨日紗霧を突き飛ばし、罵声を浴びせた後藤は同じチーム。後藤から直接的な何かをされることは考えにくい。
紗霧は首を横に振った。どうであれ、今は集中するしかないのだ。
ボールが高く舞い上がる。後藤がボールを奪い、試合が始まった。
試合は平和なものだった。バスケ部の後藤が常にボールの主導権を握っている。細かいパスでつなぎながら連続で決まるシュートに、紗霧は絡むこともできない。
ボールを取りに行くのにもワンテンポ遅れてしまう。
貴志くん…心配し過ぎだよ。事故が起こる余地もないくらい、試合に絡めないや。
紗霧が心の中でつぶやいたその時。
後藤が相手選手から弾き飛ばしたボールが、紗霧の目の前に無造作に転がった。
ボールを拾ってパスするくらいは試合に絡んでおきたいと、紗霧がボールに手を伸ばした。
その瞬間…。
数人の生徒がボールになだれ込み、紗霧の体が弾き飛ばされた。
笛の音が聞こえる。教師の怒号も。目がかすんで見えない。車に酔ったような感覚が紗霧を襲った。
目のかすみが取れ、回っている世界が再び平らになった時、床に伏して呻いている自分に気がついた。
息ができない感覚には覚えがあった。昨日と同じく胸を打ったのだろう。
「坂木さん!大丈夫?」
教師が紗霧の顔をのぞき込んでいた。
「頭は痛くない?少し休んだほうがいいわね」
ボールの取り合いで4人が同時にぶつかった。絡まり合うように生徒たちの、腕が、膝が、体が紗霧にぶつかったようだった。
心配する教師の後ろから、生徒たちが円を描くように見守っている。
いや…。
みんな口元に薄ら笑いを浮かべていた。良く見たらぶつかったであろう生徒全員が無傷じゃないか。
むか…。紗霧の胸に不快な気持ちがこみ上げた。わざとだな。
怒りに任せて、紗霧は首を大きく横に振った。
「大丈夫です。全然元気ですよ」
そう言って両手でガッツポーズをしてみせた。腕を持ち上げる拍子に肩がズキリと痛んだが、うまく隠せただろうか。
負けたくない。負けたくない。負けたくない。
逃げたくない。逃げない。貴志くんに守ってもらうだけの自分じゃダメだ。
何でもできる貴志くん。勉強も、スポーツも、料理だって。
好きだ…だけはうまく言えない貴志くん。
あんな凄い人に愛されているんだ。胸を張って貴志くんに、頑張ったんだよって言いたい!
痛くない痛くない痛くない痛く…。
紗霧は自分に言い聞かせながら立ち上がった。
スポーツは苦手だ。だけど逃げない。痛いのは嫌だ。だけど逃げない。
まだまだ何をされるかわからない。だけど…逃げない!
負けないんだから。私に攻撃しても無駄なんだってわからせるまで、絶対に。
しかし立ち上がった紗霧を見て、女子たちは内心ホッとしていたのだ。
全員がほくそ笑んでいた。
まだまだ痛めつけ足りないのだから。
高島理美はコートの外からその様をぼんやりと眺めていた。
だから言ったのに。
「私は、何もしないよ。だけど、みんながどうするかは知らない」と…。
始まってしまった。
事故に見せかけたイジメが。いや、イジメなんて言葉は不適切だ。これは暴行だ。
どこまでやるつもりなんだろう?
理美には紗霧をかばうほどの義理はない。
二人が付き合っている以上は仕方ないと身を引いた。だけど理美だって貴志を好きな気持ちは変わらない。
まだ好きなのだ。
坂木さんさえいなければ…。この気持ちに変わりはないのだから。
だけど…。
試合は一方的な展開だった。後藤のシュートが決まるたびに女子たちの拍手が響いた。
本来、それだけでゲームメイクはできていた。
それなのに。
紗霧に向けて、執拗にパスが回された。
そのパスをカットしようと飛び込んだ生徒が、背中から紗霧にぶつかった。
紗霧が受け取ったボールを弾こうとした手が、紗霧の手首を打った。パスが回ってくるたびに、紗霧の体に打撲が増えていく。
それでも紗霧へのパスは止まらない。何度も何度もパスを回されては、チャージのふりをした暴力を受け続ける。
これは明らかな暴行だった。
坂木さんさえいなければ。でもこれはいくらなんでも…。
理美はどこかで思っていたのだ。自分の手を汚さずに坂木さんが退場してくれるなら…と。
しかし心が痛む。目の前の光景が、どうしても理美には受け入れられない。執拗な攻撃はまるで、紗霧の命を奪おうとしているかのようにも見えた。
しぶといわね。おかげで痛めつけがいがあるってものだけど。
後藤は何度も立ち上がる紗霧に苛立ちを感じていた。この程度では足りない。もっと痛めつけないと。
今朝貴志と手を繋いで教室に入ってきた紗霧を思い出す。昨日の罵声にも懲りずに、まだ北村くんを、独占しようというの?
「…ねば良いのに」
そうだ。いなくなれば良い。邪魔なのよ。
「…してやる」
貴志と紗霧の繋がれた手を見て芽生えた感情。その時後藤ははっきりと自覚していた。唇があの言葉を発する形に動いた事を。
おおいえあう…。
こ ろ し て や る。
全身が痛い。あざになるのは確定だろう。
貴志くんに怒られるかな。それもあるけど、お父さんが悲しむな。お母さんごめんね。今日、休めば良かったね。せっかく心配してくれてたのに。
でも…こんな人たちに負けたくないんだよ。
妬むなら、みんなは努力をしたの?貴志くんがげんなりしているのに、毎日自分たちの気持ちばっかりで押しかけて。
そのくせ班長だから、リーダーだからって頼りっぱなしで。
一人で居残り作業をしている貴志くんは置いて平気で帰ってたくせに。
自分たちだけの都合で好きだとか言って。貴志くんが誰かを好きになったと言えば犯人探しを始めて。
貴志くんの気持ちはまるで無視で!
せめてあの人、高島さんになら少しくらいの罪悪感を抱くかも知れないけれど。
紗霧はふらつく膝に喝を入れて、まっすぐに前を見た。後藤はシュートの体勢に入っている。
紗霧はチラッと理美の表情を確認した。高島理美は震えて俯いている。その両手は強く膝を抱いて不安そうだ。
あんまり悪い人じゃないのかも知れない。
そう思うのと同時に紗霧はこめかみの辺りに強い衝撃を受けた。痛いと思う暇もなく意識が刈り取られ、受け身も取れないまま紗霧は床に倒れ伏した。
体育館に響き渡る人体が崩れ落ちた音。紗霧はピクリとも動かない。
笛の音が響いて、体育教師が大慌てで紗霧に駆け寄った。声かけにも反応がない。
保健室にかかった緊急コールに呼ばれて、保険医の黒澤がやってきた。
理美は恐怖に震えて、動くこともできなかった。
紗霧と目が合った瞬間に、シュートの体勢に入っていた後藤が、ボールを紗霧に向けて投げつけたのだ。後藤は相手を見ないで正確な位置にパスを出せるのが好評で、1年生ながら女子バスケ部のレギュラーに選出されていた。
いや…あれはパスではない。パスは顔面を狙って投げるものではない。
坂木さんさえいなければ。理美は確かにそう思っていた。だけど。
もし坂木さんがいなくて、私が北村くんと付き合えていたなら、あそこでボロボロになって横たわるのは自分だったのかも知れない。
怖かった。人の嫉妬が。
怖かった。罪悪感を分け合ってしまっている集団心理が。ただ恐ろしかったのだ。
だけど…だけど!
紗霧が保健室へと運ばれていく。揺らさないよう慎重に。頭への衝撃がよほど強かったのだろう。大事に至らなければ良いが。
自分の手を汚さなければ…。そんな風に思っておいて、人が紗霧を排除しようとしたら恐怖を感じる。
私はなんて勝手なんだろう。
理美は己が恥ずかしくて涙がでてきた。
心が理美を突き動かして、気がついたら走り出していた。知らせなきゃ…北村くんに!
だけどこの行動を突き動かした心とは?罪悪感なのか、それとも北村貴志に嫌われたくないだけだったのか…。理美にはわからなかった。
「北村くん!坂木さんが!坂木さんが…!
保健室、急いで!」
声の限りを尽くした理美の声に、貴志が走り出す。
今あの人を動かしたのは私の声なんだ。そんな優越感が一瞬理美の心によぎる。その事が数年間理美を苦しめ続ける事を、このとき彼女はまだ知らなかった。