【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第57話-夏が来る〜裕と瑞穂
5月も終わろうかという時期になると、昼間はすでに暑い。しかし夕暮れからは激しく気温が落ちて、今はとても涼しかった。
貴志の家で定期的に勉強会をしよう。そう決めた帰り道、裕は瑞穂と並んで歩いていた。
好きな人を家まで送り届ける役目は誇らしく、そしてどうしようもなく切ない。
「なあ瑞穂。気持ちは固まったのか?」
修学旅行を終えてから、瑞穂の貴志に対する態度が変わった。だから裕はすでに気づいている。
ただ瑞穂の口から聞きたいのだ。決定的な一言を。
「うん。ごめんね、裕」
寂しそうな顔で頷く瑞穂。そんな顔を見たいわけじゃない。あやまらなくても、良いんだよ。
「私…北村くんの事が、好き。
相変わらず悪魔みたいなヤツだけど、北村くんがちゃんと優しいこと知ってるから」
そっか…。裕は静かに頷いた。貴志の親友としての喜び。瑞穂を想う寂しさ。両者が器用に交わった表情で、裕は優しく瑞穂を見つめていた。
「なんで北村くんが、あんな態度を取るのかは分からない。
修学旅行から帰ってから、前の倍くらい寂しそうな顔をしてる理由もわからない。
だけど好きなんだ。
北村くんの笑った顔が見たいって、思うんだ」
瑞穂は裕を振り返り、小さくごめんね…と言って微笑んだ。
そんな寂しい顔するなよ。オレだって瑞穂の笑った顔が見たいんだから。
「よし!じゃあ瑞穂には、貴志の攻略法を伝授してさしあげよう」
裕はふぉふぉふぉと、ファンタジーに出てくる物知り顔の長老みたいに笑う。
瑞穂は裕の顔を見ると、
「ははあ…よろしくお願いします。賢者様〜」
裕のノリに合わせてふざけるのだった。両手をスリスリと拝むようにすり合わせている。しかし、その背筋はピンと伸びていて、まっすぐに裕の顔を見つめていた。
真剣な顔も可愛いなあ。瑞穂に見とれながら、彼女の好きな人の口説き方を話す。なんて自虐的な行為なんだろう。
ノリとは裏腹に裕は真剣な面持ちで話し始めた。
夏が近づくこの季節。その2年前。裕と貴志は恋心を静かに燃え上がらせていた。
坂木紗霧に対して。
あの時と同じ風の香りがする季節。だからこそ動く気持ちというものがある。
「冷やし中華はじめました」
裕の突然の言葉に、瑞穂は目をパチクリと瞬かせた。
「あれってさ、ノボリ見ると食べたくなるよな」
瑞穂の瞬きが加速する。裕はお腹が減ってるのかな?
「でもノボリを見なくても、暑くなってきたら食べたくならないか?
冬には存在すら忘れ去ってる冷やし中華だけど、夏になると不思議と思い出すんだ」
裕が美味しそうな顔をしているので、瑞穂は邪魔しちゃいけないとばかりに黙って続きを聞いていた。
「そう…記憶とか、気持ちって、その時の環境に連動するんだよ」
その一言を導くための前置きとしては、あまりにも長すぎない?瑞穂は裕の真意を測りかねている。
瑞穂は知らない。貴志の初恋が初夏に始まり、夏の終わりとともに散ったことを。
だから、わからない。裕の真意が。
「貴志を口説くための勝利条件がある。
夏が終わるまでにアイツを、貴志って呼べるようになること。
それから夏が終わるまでに、アイツと手を繋ぐこと」
普段の北村くんを見てると、とてつもなくハードルが高いように感じる。なんで夏が終わるまでなの?
「オレの口から詳しくは言えない。
ただこの季節の風は、オレにも貴志にも懐かしい匂いがする風なんだ。
懐かしさが寂しさに変わって、アイツの心に無意識のスキができる。貴志の固いガードをくぐり抜けるには、そこを突くしかない。
そして夏が終わると同時に、アイツの一番ガードが固い時期になる」
秋が来れば貴志が「もう恋なんてしない」と決めた季節の風が吹く。その気持ちが呼び起こされるその前に…。
「それまでにアイツの心に踏み入ることが出来なければ…タイムアップだ」
要領は得なかった。しかし裕の言葉に嘘がないことは、嫌というくらいに伝わってきた。
懐かしい風…。それはつまり、この季節に北村くんが恋をしていたってことだよね?
それは怖くて聞けない。
秋が来ればガードが固まる?それって、つまり北村くんの恋が秋には終わったって事だよね?
それがどんな終わりかはわからない。裕が「言えない」という以上、彼はそれを知っているんだろう。知らないわけがない。
だって二人は中学に入ってからずっと一緒にいたんだから。
「答えられる範囲で良いから教えて欲しい。
その懐かしい誰かさんは、私の知ってる人なの?」
もしかしてサトちゃんなの?だとしたら絶対に敵わない。
裕は黙って首を振った。そして、
「貴志の攻略はマジで難しいぜ。
そして、瑞穂がアイツを好きになればなるほど…瑞穂も貴志も、深く傷ついてしまうと思う」
貴志が紗霧との恋で負った傷は深い。恋で負う傷は、想いの深さと同じだけ深く心をえぐる。貴志の紗霧への想いはあまりにも深すぎたのだ。
彼のささくれた心に入り込むには、かなりの傷を覚悟しないといけない。
「好きっていう言葉は、相手が自分を好きになってくれなくても…。
例え自分以外の誰かを好きになったとしても、報われなくても、辛くても、相手にどんな秘密があっても。
それでも好きだと思えないなら、絶対に相手に言っちゃいけない」
裕が紡いだのは北村家の家訓だった。貴志はこの言葉を刻んで生きている。
「貴志がお父さんから受けた教育だよ。
貴志はそこまでの覚悟を決めないと、瑞穂に好きだとは言ってくれない」
そして今も、その言葉通りの気持ちで坂木紗霧の事を「好き」なのだ。
貴志は紗霧を忘れる努力をすると、彼女に告げた。だけど人の記憶はそんなに都合よくできていない。
貴志の恋人になるということは、彼の傷ごと「好き」になるということ。それは瑞穂にはあまりにも辛すぎるんじゃないだろうか。
「彼氏が欲しいだけなら、貴志はやめたほうがいい。貴志にも瑞穂にも、傷ついて欲しいわけじゃないんだ」
だけど、それでも。裕は願わずにはいられない。瑞穂が裕ではなく貴志を選んだことに、唯一の希望があるとするならば…。
「それでも…それでも貴志の事を想ってくれるなら…」
裕はそこで言葉を区切り、背筋を伸ばした。そして深々と頭を下げる。
「貴志の事を、よろしくお願いします!」
裕の深々としたお辞儀。どうやら貴志の普段の態度にも、並々ならぬ事情が隠されているらしい。
河口湖で抱き合っていた貴志と理美は、どうやら恋愛関係ではなかったらしい。それでも理美の言葉の端々からにじみ出ていたのは、貴志への好意だった。
サトちゃんでも北村くんの好きな人にはなれなかった。それじゃあ…北村くんが昔好きだった人ってどんな人なの?
私が北村くんの心に踏み込むことなんてできるの?
逡巡する。考えても考えても答えは出ない。わからない事は結局考えても意味がない。
そう…こういう時は感情に任せる他にできることがない。
「どんとしんく…ふぃーる」
考えるな、感じろ…。
真剣なのに口をついて出てきたのは、伝説のカンフースターのセリフだった。
終始まじめに話していた裕が不意に笑う。
「そういえば、ガラにもなくまじめに話してたもんだから、気持ち悪くなってきた!」
裕の言葉に、場の緊張は粉々に砕け散る。そして裕と瑞穂は大声で笑った。
笑う声の大きさも、笑い方も、間も、そっくりな二人の笑い声。周りから見たら恋人同士にしか見えないくらい、笑い声がユニゾンしている。
笑い声を止めるタイミングまでも。
再び神妙な面持ちで、裕が瑞穂に語りかける。
「もし…もしも貴志が瑞穂を深く傷つけることがあったとしたら…。
もう貴志を好きでいることに疲れたら」
ごくり。緊張で言葉が出てこない。ふざけて言うんだぞ。できるだけ、軽く…。
「その時は言ってくれ。オレの恋人席は卒業まで空いてるからさ」
初夏の夕暮れを彩る風はまだ涼しい。おどけた表情の裕が、涼しげに、いや寂しげに笑う。もう自分の恋心は、瑞穂の恋の保険程度にしか役に立たない。
いや、役に立ってもらっては困るのだ。
オレの気持ちはもう、瑞穂を支えるためだけにある。
ぐっと歯を食いしばった。
そんな裕の眼前に、ビシッと人差し指が伸びてくる。言うまでもなく瑞穂の指だ。
「裕は自分を過小評価してる!」
腰に手を当てて、まっすぐに指を突き出した瑞穂が、ぷんすかと書かれていそうな表情で、顔を真っ赤にしている。
「裕ほどの男子に告白されて、私めちゃくちゃ調子に乗ってるんだから。ノリノリののりたまふりかけってくらい、調子に乗りまくってるんだから。
そんな私が、裕の告白を断ってまで、北村くんを好きだって言ってるんだよ」
指をおろして裕に背を向ける。
「私にだって覚悟くらいあるよ」
裕と繫ぎたかった手…。その手をじっと見つめる。
裕と手を繋ぎたい。その気持ちを霞ませていたのは、裕よりも数分早く出会ったアイツへの気持ち。
きっと私は、最初からアイツの事が気になっていたんだ。
だから…。
「私が北村くんを、幸せにしてやるぜ!」
胸を張る。そんな瑞穂の後ろ姿を、裕は眩しそうに見つめていた。
夕暮れの逆光を浴びながら、瑞穂の恋は朝日のように昇り始めたのだった。