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戦争短歌21首 祖父の思い出 クレソンさんに出した短歌⑧


 太原の凍てつく夜は唐辛子軍靴に入れて相撲を取った
 
(あまりの寒さに眠れず相撲を取ったと。現地の人に唐辛子入れると教えられた)


 突撃のラッパの合図で着剣す白兵戦の勇ましきかな

 (中国大陸か。勇ましかったと。同時の中国は群雄割拠の戦国時代で閻錫山という軍閥の話をしていました。山西王)


 倒れても生まれ変わると信じおり馬賊の突撃なす術もなし

 (死を恐れず突っ込んできたと。死んでも生まれ変わると)


 馬公から比島へ向かう船上で生きて帰らぬ覚悟を決めた

 (開戦。フィリピンへ。中国ですら持て余してるのにアメリカと戦うのでは生きて帰れないだろうと)


へとへとになったじいさん村人にジャパン弱いと笑われながら

 (仏領インドシナ。現地の人は暑さに強い。アンコール・ワットを観に行ったと)


 大東亜会議に集いし首脳陣チャンドラボースに後光射しおり

 (東京で。東条英機も見たそう。チャンドラボースは後光が射してるようにように見えたと。※インド独立運動の指導者。終戦直後ソ連に亡命する途中台北で飛行機事故により死亡)


 国産車弱く坂道登らずにフォードは登る情け無きかな

 (フィリピンか。おそろく鹵獲品だとおもいます。)


 戯れに車懸りの陣を組む天晴れと言う師団長殿

 (祖父は愉快そうに笑って言いました)


 敵撃って拾った火炎放射器で辺りを焼いた愉快だったと


 三八銃一発撃てば米軍は七発撃てり勝てるはずなし

 (三八式歩兵銃が一発ずつ装填して撃つのに対してM1ガーランド小銃は七連射可能。主要各国で唯一)


 じいさんがシャーマン戦車の弱点を孫に教える終戦記念日

 (戦車砲の砲塔は45度より下は狙えないので下に潜り混んで手榴弾でキャタピラを破壊したとか)


手榴弾持って戦車に忍びおりキャタピラに付けそのまま去りぬ


バンザイと言って突撃する者は一人も無しと祖父は言いおり


 死ぬ前に腹一杯に食べ物を食べて死なむと祖父は誓えり

 (戦友と共に誓った。帰還後食べ物の文句を言ったことは一度もなかったと)


 米軍の基地に侵入した祖父は武器を獲らずに食糧獲った

 (鉄条網を破り手榴弾を投げ、米兵が爆発に驚いて逃げてる間に奪ったそう。その夜食糧の入った袋を枕に寝ていると翌朝盗まれて無かったと。翌日同じ戦法を試みた戦友たちは待ち伏せに遭い戦死)

 食べ物があっておんなじ武器ならば勝っただろうと祖父は語りし



 特攻に向かう兵士の顔付きは吾に似たりと祖父は言いおり

 (高校生の時の私にお前のような子供が飛んだんだと)


 じいさんはラジオで敗色知っておりばれて殴られ師団長殿

 (ニューデリー放送。師団長に殴られたのはお前だけだと名誉?)


 鵺のよな鈴木総理の腹芸で参りましたと阿南陸相

 (鈴木貫太郎総理の終戦工作。同時78歳。祖父はじい様と言っていた)


 厚木より首都へと向かうマッカーサー兵隊たちは背中向けおり

 (ドキュメンタリーで観ました)


 よく生きて帰って来たねと天皇に声をかけられ涙止まらず

(戦後昭和天皇の行幸で復員兵に。何かで読みました)



以上青春時代を戦場で過ごした祖父の話に基づいた戦争短歌でした。
十数年前の遠い記憶です。
半分ほどは去年詠んでノートに書いていたのを見つけました。
祖父は今の時代に生まれたかったと言っていました。
他にも色々と祖父に聞いた戦争の話を忘れないように記録していこうとおもいます。
断片的な話でそこに至った経緯が欠落しているので、祖父の部隊の資料を調べて明らかにしたいです。

※追記  他に覚えてるエピソードでは中国でチェコ機関銃に手こずったこと。(占領後の太原にいた)
米軍が上陸用舟艇で上陸するところを目撃していたこと。
米軍機が爆撃した爆撃跡に隠れたこと。(同じところを爆撃しないため)
栗田艦隊(戦艦大和、武蔵を含む)の不沈艦がくると噂に聞いたのに来なくてがっかりしたこと。
フィリピンで地元民の小舟を奪って命からがら逃げたこと。
戦後フィリピンの山下財宝の話。
フィリピンで戦友を埋葬した場所が分かるのでいつか行ってみたいといっていたのと。
フィリピンのジャングルで小銃を撃っても死なない鋼のような猿がいた。(ビックフット?)
仏領インドシナでおそらく天号作戦に参加したこと。
石原莞爾が好きだった祖父は満州事変でやめておけばよかったと語っていたこと。


 

 

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