卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人
『三国志』「魏書」烏丸鮮卑東夷傳倭國条において、
「冢」とは、単に土を盛った程度の墓であって、
高い盛り土のある古墳とは区別します。
「徑百餘歩」とは、短里(300歩=1里=76.8m)で考えます。
足底長25.6cmX100歩=25.6m
「徇葬者奴婢百餘人」 とは、男女100余名が取り囲んで葬儀を営んだことと解釈します。 (徇葬と殉葬は区別したい。)
纏向遺跡、ホケノ山古墳につながる阿波の萩原墳墓群
魏志倭人伝の伝える卑弥呼の墓は、弥生終末期の萩原1号墓かもしれません。
すぐ後につづくホケノ山古墳、纏向遺跡は、阿波・讃岐から行った人がつくった祭祀遺跡と考えられます。
「萩原墳墓群1983」「萩原2号墓発掘調査報告書2010」(菅原康夫)徳島県発掘調査報告書によると、
・1号墓・2号墓ともに弥生終末期、前方が小さい前方後円形、神仙思想西王母を想定する西方頭位で埋葬。1号墓円丘部周囲溝が認められる。
・ともに墳丘長26m。短里=76m説で、徑百餘歩25mに相当。1号墓径18m、2号墓径21.1m。
・朱のイオウ同位体比分析では、1号墓+8.66、2号墓+3.10、どちらも国内産でなく中国陝西省産辰砂に相当する。
・1号墓の画文帯同向式神獣鏡(A形式第2段階)は他所出土鏡のような補修痕はなく、大同区出土鏡と同笵の可能性有。
・竪穴式構造の変遷は、2号墓→1号墓→石塚山2号墳→ホケノ山古墳に繋がる系譜。1号墓・2号墓は魏志倭人伝の言う「有棺無槨」に相当する。 楯築墓や中国のような本格的な木槨は無い。
積石木槨から竪穴式石室へ、ホケノ山古墳に繋がる系譜
弥生終末期の東瀬戸内連合の盟主は何処?
畿内説はありえないという説を紹介する。
畿内説はあり得ない 関川尚功氏
長年、奈良の遺跡調査をされた、関川尚功氏(上牧町教育委員会 文化財専門員・奈良県立橿原考古学研究所共同研究員)の講演ですが、弥生終末期の奈良盆地に都(邪馬台国)があったとは考えられないと言われています。
考古学的成果より
遡って最近までの古墳調査により、
弥生終末期に吉備・播磨・讃岐・阿波の交流が深かったことが明らかになっており、瀬戸内海を制圧した勢力から共立された倭王の存在、そこからつながる勢力が、後々に平城京遷都したものと考えるのが自然でしょう。