鬼太郎6期はストーリーが下手すぎる
このタイトルで不愉快に思うかもしれないがはっきり言ってストーリー構成が下手すぎる。鬼太郎とタイトルに書かれてるが実際は犬山まなと猫娘が出しゃばるばかりだった。羊頭を掲げて狗肉を売るとはこのことだ。少年ジャンプ雑誌並にだらだらと薄く引き伸ばすから厚みがない薄っぺらいピザかお好み焼きみたいになってしまった。例えば最初から「妖怪城」「狸軍団」「妖怪大戦争」などいきなりバトルイベントが起こすからあとの勢いが衰えしまう。やたらめったら時事ネタや風刺と称する笑えない不愉快なネタを引っ張り出して作ったせいで原作の良さを失ったのだ。今の子供たちはこんなのが好きなのか? 人間社会や文明を批判しまくる割にはねこ娘がスマホを使いこなしていたり、ネットを使っている妖怪もいたり、人間と妖怪で恋愛をしていたりと悪い意味でご都合主義でダブルスタンダードな話が多かった。若くない、年輩だの、不細工だのイケメンじゃないなど理由で手前勝手に気に入らない奴をやっつけるだけだから何を訴えたいか分からなかった。まるで「悪人は死んでも悪人」「悪人の子孫は先祖同様悪人」など赦す概念を持たない儒教的ネジ曲がった正義のように描かれてる。間違った解釈をされた性悪説みたいにみえた。6期製作陣や水木プロがそんなに人間嫌いなら自ら人間廃業しろよと思った。 断っておくが水木しげる先生の作品に反人間主義、反出生主義、反日思想、極端な男女差別、反社会思想などしつこいほど主張してない。
原作「幽霊電車」は年輩を一方的に胸糞悪く描いて、痛めつけて死なせて「ザマァ見ろ!」と言わんばかりに胸糞悪いほど他人の不幸を喜ぶ陰気で陰惨な報復劇ではない。それはポリコレに相応しくない奴だから死んで当然だとかいうが、ポリコレに相応しくないという理由で「死ね!」と言わんばかりに痛めつけるのはポリコレ以前に不寛容というのでは?
そもそも原作「水虎」はそんなに陰気辛気臭くないはずなのに、6期で改悪された。
ポリコレと言いつつ若い子や美形キャラ、新しいのが正統派で、年輩とか年代が異なる、不細工、古いのを異端邪教扱いにして排除するさまは中世ヨーロッパの魔女狩りや異端審問みたいにみえた。
そんなに人間不信や人間を否定的に描く割になぜ犬山まなだけ純粋無垢で傷をつけないように扱ったのか。他のキャラに貧乏くじを引かせて不愉快に無様で悲惨で損な汚れ役を被せるなど極端な性善説の描写にみえた。またはネジ曲がった善悪2次元論というのか。高みの見物みたいでそれで彼女(まな)は他人の悲しさが分かるのか?
東映プロや水木プロが子供向けと軽蔑した過去期の内の一つ5期鬼太郎アニメの脚本家は妖怪の扱いや子供たちに不愉快に思わせないよう配慮した。SNSなどのインターネット社会を批判するなら鬼太郎作品よりもデジモンアニメが相応しいのでは?今更ながら。後作られた「デジモンゴースト」だがなぜホラー要素をデジモンに取り入れたのか理解し難い。
狸軍団といい、一次二次妖怪戦争、名無し戦、玉藻の前戦などで双方傷つけ合って憎しみ合ったのにボスが死ねば直ぐ仲直りする展開がご都合主義に見えて「終わりよければ全てよし」「分かったれよ」じぁ済まされない。余計偽善的で胸糞悪かった。1話ごとに一喜一憂してSNSなどのインターネット社会で騒いで話題性を高める行動がその日暮らしみたいに浅はかで幼稚にみえた。
それでも鬼太郎6期は大人向けと言うなら猟奇的に描いて胸糞悪く視聴者に思わせるのが大人向けなのか?犬山まなのように特定のキャラばかり依怙贔屓するのが大人向けなのか? 特定のキャラの好き嫌いの基準で敵味方と差別するのが大人向けなのか?
女性だけ無様で悲惨な目に合わせてて、殺人犯したカメラマンや迷惑系ユーチューバーのようにイケメンで「許したれ」と言わんばかりに庇い立てするような描写が胸糞悪くて多様性と訴えてるのか?
あとがき
散々愚痴をこぼしてばかりでうんざりする読者もいる。余りにも男尊女卑で特定のキャラばかり依怙贔屓する描写は無視できない。過去期鬼太郎アニメが子供だましと言うなら、チャップリンやバスターキートン、スティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、黒澤明、セルジオ・レオーネ映画は子供だましで低級だと言いたいのか?バットマン映画も藤子不二雄作品は子供向けだから駄作というのか?笑ゥせぇるすまんはただ怖いとか暗いだけでなく、約束を破ったり取引の代償が何なのか教える作品だと思ってる。