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【知られざるアーティストの記憶】第60話 彼のキスと読書

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

全編収録マガジン
前回

第8章 弟の入院

 第60話 彼のキスと読書

医師からの許可までもらってきたにも関わらず、彼は一向にマリにキスをしようとはしなかったので、マリは拍子抜けした。

数日たったある日、布団の上で彼の上に被さり彼の目を覗き込むと、その目は「いいよ」と言っているようだったので、マリはその唇に軽く唇を乗せた。相手の心を確かめるように、チュッチュッと2回、軽いジャブのようなキスを。すると彼は、あろうことか、わざとみたいに唇を真一文字に硬く結んでいる。
(なにそれ。ブリキ男なの?)
マリが遺憾の声を上げるより先に、
「キミはキスが下手だなあ。セックスも下手だろう。」
と彼が言い放った。彼の失言は毎度のことながら、マリはどうしてそんなことを言われなければならないのか理解することができず、呆気にとられた。
「……だって、あなたがそんなふうに口を硬くしてるからじゃない。」
そう言い返すだけで精一杯であった。

翌朝、玄関で抱き合いながら、今度は彼のほうからマリにキスをした。まだぎこちないキスであった。そしてしみじみとこう言った。
「キスをしても、唇がビリビリしないんだな?私はずっと、キスをすると唇がビリビリ痺れるのかと思っていたんだよ。私だって頭が悪いんだ……。」

マリだって昨日のキスは何も感じられなかった。彼のほうは、生まれて初めてマリによってもたらされた唇同士の感触が、彼が頑なに抱き続けてきたイメージとは違ってビリビリしなかったことに衝撃を受けて、咄嗟に「キミはキスが下手だ」と口走ってしまったに違いない。それにしても、自分が頭が悪かったことにがっかりしている彼のことを、マリはかわいいと思った。

「ビリビリかあ。私もビリビリはしたことがないかも。人によって、キスの感じかたは違うんじゃないかな。私はとろけるように気持ちよくなるけど。」
そう言ってから、はたと、別の男との体験を語るのは慎もうと思い、マリは口をつぐんだ。

「でも、キミの唇は柔らかいな。」
彼は顔をほころばせながら、マリを慰めるような言葉を付け加えた。

「前に本で読んだんだけど、去勢された中国の兵士が、セックスができないから、舌と舌を絡めてセックスしていたらしい。それを読んだら、気持ちが悪くて。」

彼はおぞましそうに顔を歪めて言った。その言葉にマリは少し嫌な予感がした。彼はせっかくキスをしてくれるようになったのに、舌を絡め合ってはくれないのかもしれない。舌を絡め合うキスはなにも去勢された兵士だけがするものではないのに、彼は誤解して思い込んでいるのだろう。しかし誤解を解いたところで、やや潔癖症寄りの彼が一度抱いてしまった生理的な嫌悪感をぬぐい去るのは難しいように思われた。


@Yukimi 彼の作品の一コマ(年代不明)


彼はそれから、唇が触れ合うだけのキスを試し続けた。マリは一度だけ、彼の誤解を解くことを試みた。
「ねえ、キスっていうのは普通、お互いの舌を触れ合わせてするんだよ。先入観を捨てて、一度試してみない?」
すると彼は少し困ったような顔をして、
「わかったよ。次からそうするよ!」
と言い捨てた。しかし、いつまでたってもその舌をマリの舌に許すことはなかった。

二人のキスは、決して歓びだけに祝福されたものではなかった。血液検査の結果が暗示する病状の悪化が、常に暗い影を落としていたのである。

あるときは、居間の畳に正座し、マリを膝の上に乗せてキスを交わしていた彼は、ふと唇を離して視線を落とした。
「脚、痛くないの?」
とマリは心配した。
「そんなのは大丈夫だよ。だって、キミが乗っているんだから。」
そう言ったきり、彼はうつむいて考え込んでしまった。マリはただ、うろたえながらその様子を見守ることしかできなかった。


©Yukimi 『LAGRANGE POINT JMN-003』P・10


この頃、原稿を描いていないときの彼は、ひじ掛け椅子に座り、見慣れない大きな拡大鏡眼鏡をかけて、『売春の社会史』という分厚い本を読んでいた。

(相変わらずマニアックな本を読んでいるな。)
とマリは思った。今、この本を読んで何を得たいのだろう。彼は生涯にわたって新しい知識を学んでいたいようであるが、それにしてもテーマは「性」なのだな、とマリは微笑ましく眺めた。

一方でマリは、長沢節の『大人の女が美しい』をおもしろく読み終えていた。この本は、ファッションデザイナーでありイラストレーターでもある節氏が感じる大人の女の魅力について、様々な角度、分野から書かれたエッセイである。中でも、とりわけ第1章の「大人の愛・その恋愛作法」とそれに続く第2章からなる節氏の恋愛論は、成熟した視点から小気味良く語られる感性の一つ一つに「ほんとにその通り」と思わず膝を打ちたくなるほど、マリに響き、親和し、マリの認識を高めた。

マリはこの感動をすぐに彼とわかちあいたくなり、
「ねえ、この本すごくおもしろかったから読んでみる?」
と持参した。
「ああ、そのうち読むから、置いといて。」
と言った彼は、次の日に行くと、読みかけの『売春の社会史』を脇に置いて、すでに半分近くを読み終えていた。そして、数日のうちにマリに返してきた。

「おおむね同じ考えだよ。」
と彼は感想を述べた。やはり、彼はマリより24歳も大人なのであった。たとえ自身の経験はなくとも、マリが目から鱗を落として感激した大人の恋愛論は彼のすでに心得るところだったのである。

彼はそれよりも、デザイナーである節氏の視点に興味を示し、褒めていたようであったが、その部分の内容に関してはマリの記憶に残っていない。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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