【知られざるアーティストの記憶】第55話 マサちゃんと指談と母親のお下がり
Illustration by 宮﨑英麻
*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*
第8章 弟の入院
第55話 マサちゃんと指談と母親のお下がり
あの秋、そういえばマサちゃんは落ち葉掃きをしていた。家の周りの道路をずいぶんと熱心に、家から遠く離れたところまで。マサちゃんが入院したのが10月12日だったから、桜や槐、その他の公園に植わっている落葉樹は10月初旬には葉を落としていたということだ。いったい、マサちゃんは前の年までも落ち葉掃きをしていたのだろうか。庭の草取りも兄に言われなければ自分からはやる様子がなかったのを見ると、兄の入院がマサちゃんの落ち葉掃きスイッチを押したと想像することもできた。
マリが気功をする早朝にも、マリが気功をする公園のそばまでマサちゃんが遠征していたことがあった。
「さっきは踊りを踊っていたの?ずいぶん夢中でやっていたね。俺が見ているのに、ちっとも気がつかなかった。」
「あれ?いたんですか?あれは気功をしていたんです。踊っているのかとよく聞かれるんですが、歩きながらする気功なの。」
そんな会話を交わしたのは、マサちゃんの入院する直前だったのだ。
O病院でノリオさんが入院手続きをしている間、マサちゃんは小さな部屋で待たされていた。
「家族のかたが付いていて、何かあったら知らせてください。」
と看護師さんは言い残したが、彼はその部屋には入ろうとしなかったので、マリがマサちゃんに付き添った。マサちゃんはマリの目を見ながら、
「お腹が痛い、お腹が痛いよ。」
と何度も訴えていた。マリはそのことを看護師さんに伝えた。子どものようになったマサちゃんの本性は、どこまでも素直で愛くるしい人柄であった。
「また来るからね。」
とマサちゃんに伝えて、私たちはO病院を後にした。感染症対策体制下では、また来ることが果たして可能なのかどうか、マリには知る由もなかったのだが。
言葉でのコミュニケーションがうまくかみ合わなくなってしまったマサちゃんと、愉氣を介してダイレクトで深いコミュニケーションが取れるはずだとマリが信じていた背景には、3歳で自閉症と診断されたマリの次男が出会わせた不思議な世界があった。
幼いときの次男は、発語の時期や語彙の増え方などには特に問題がなかったのに、いつまでもコミュニケーションが一方通行のままで、ちっとも相互の会話が成り立たっていかなかった。それは、2歳7ヶ月頃までにははっきりと長男との違いをマリに認めさせるレベルのものであった。生育とともに日常での簡単な受け答えは徐々にできるようになったが、自身の強いこだわりの中に生き、家族はそれに翻弄されていた。もちろん、医療機関を定期的に受診し、療育訓練にも通い、ドクターが行う親向けの発達障害の勉強会にも参加した。病院の提供するもの以外にも、手探りで、様々なメソッドに基づく習い事に通わせたりもした。そんな中、知人の紹介で山元加津子さんを知った。
元特別支援学校教諭で作家の山元加津子さんは、言葉を持たない人の内なる言葉を紡ぎ出す「指談」というコミュニケーションを紹介している。何らかの理由で言葉を発しないすべての人は、心の内に言葉を持っていると考える。その言葉を、大脳を介さずに脳幹から直接に紡ぎ出すのが指談という方法で、これはおそらく多くの人にとって信じがたいものだと思う。実は加津子さん自身は指談ができないらしいのだが、日本の各地に指談を使って言葉を話さない人の言葉を聞き出す活動をしている人たちがたくさんいらっしゃるのだ。
マリはその流れで、重度障害を持つ神原康弥さんとその母英子さんに出会う。英子さんは指談によって康弥さんの言葉を語り、康弥さんの詩集を出版していた。その姿はマリにとっても信じがたかったが、英子さんが次男の言葉を指談で紡ぎ、次男もまたそれを求めたので、マリはひとまずこの現象を受け入れることにして、この親子との関わりがしばらく続いたのだった。
マリは、マサちゃんとコミュニケーションを取り、生きる希望を取り戻してもらうために、指談が有効な道具になり得るのではないかと考えた。英子さんは病院や公民館などで指談のボランティアを定期的に引き受けてもいたので、マリがお願いすればマサちゃんに会いに来てくれるはずだとも思っていた。マリはこの話を簡単に彼に説明し、指談に関わるマリの蔵書をごっそり彼に貸した。
「でも、それとマサさんと、関係があるかい?」
彼はただちには呑み込めないような反応を示したが、あとは彼の読解力と判断に任せようとマリは思った。
「本を読む時間はあまりないけど、ちょっとずつ読んでみるよ。」
と彼は言った。
寒さが増してきたある日、
「キミは冬になったらどんな履物を履くの?」
と彼が訊いた。
「なんで?別にいつもと変わらないけど?」
マリはブーツが好きだったけれど、ちょうどお気に入りを履きつぶしてから新しいブーツを迎え入れていなかった。
「母親に買ったけれど、あまり履いていないブーツがあるんだよ。今度見てくれる?」
彼の母とマリは、服のサイズは見事に同じであったが、足のサイズはマリのほうが大きかった。彼の玄関から台所を通って3畳の居間へ上がると、右側の縁側に小さな靴箱が置かれ、そこには母親の靴や下駄や草履がまるで骨董のコレクションのようにそのまま残されていた。上品にすまして並んでいるそれらを、マリは思わず引き出して眺めた。ローヒールのパンプスは品が良くて好みであったが、やはりデザインとしては古く、傷んでもいたし、何よりマリには小さすぎた。母親の靴を処分できなかった彼の心境をマリは思った。
「ブーツは大きめを選んだから、多分キミにも履けると思うんだよ。」
彼が箱から出して来たのは、茶色の化繊でできたショートのムートンブーツであった。年齢を選ばないデザインであり、彼の見立ての通りサイズもマリにぴったりであった。
「うん、履けそう。履かせてもらうね。」
それは、彼の母親に対する愛を身に付けるような気分であった。マリが顔を輝かせたことに気をよくした彼は、今度はニットの帽子を出してきた。
「こっちはデパートで選んだもの。そしてこっちはマサさんの恋人が編んでくれたものだよ。」
さすがに90歳のお母さんが被っていた帽子を私が被るのはどうだろう、とマリは思ったけれど、彼はデパートで買ったというほうをマリに被せてじっと見据え、
「似合うねえ。」
ととても満足そうな笑みをこぼした。続いてマサちゃんの恋人が編んだ赤いほうも、
「これも似合うね。」
と笑う。こんなに嬉しそうにしている彼を見て、マリも幸せな気持ちになった。この帽子のデザインは、マリの見た目年齢を上げたかもしれないが、確かにマリに似合わないというわけでもなかった。マリは冬の朝の気功の時には、寒さから耳を守るために彼の母のニット帽を被った。
結局この日、彼は母親のアウター4着と、ハイネックの長袖、部屋着のズボンなどを次々と出してきて、大きな紙袋2つ分をマリに持ち帰らせたのだった。
★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。