【知られざるアーティストの記憶】第54話 マサちゃんの転院
Illustration by 宮﨑英麻
*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*
第8章 弟の入院
第54話 マサちゃんの転院
2021年11月2日、脳神経外科に特化したK病院に入院していたマサちゃんは、高齢者の認知症などを多く受け入れる精神科専門のO病院に転院することになった。
K病院への入院時には嫌がって暴れるマサちゃんを車で連れて行くのに苦心したことから、ノリオさんは今回は福祉タクシーを使うという判断をした。1万6000円かかる福祉タクシーを使うことに彼は同意しかねるようであったが、いつも全面的に協力してくれるノリオさんに口を出すことはしなかった。ノリオさんの車でK病院に行き、マサちゃんを福祉タクシーに乗せたら、ノリオさんは自分の車でタクシーを追いかける。福祉タクシーの規定は、可能なら二人の付添人の同乗を求めていた。
「どうしても二人いなければ一人でも構わないということなので、マリさんはお子さんのこともあるでしょうから無理をしないで下さい。」
おっとりとした口調でノリオさんがそう言い終わるか終わらないうちに、マリは
「私も行きます。」
と主張した。出かけているのに車があることを家族に不審に思われないために、マリは自分の車をすぐ近くの公園の駐車場に移動させた。そして、彼とともにノリオさんの車に乗り込んだ。
マリがノリオさんと会うのは、このときが二度目であった。マリはまだ得体の知れないこの従兄に対し、警戒も緊張もしていた。ノリオさんは一級建築士で、市役所は土木課の職員を勤めあげた人だと聞いていた。社会の常識を重んじるに違いないこの人物が彼とマリの関係を理解するとは思えない。できればこの人とは、つつがなくやり過ごすことをマリは望んだ。
ノリオさん夫婦とは、マリは以前に一度顔を合わせていた。というより、彼によって引き合わされていた、というほうが正確である。あれはいつ頃だったか、彼が四度の入院を終えてしばらくしてから、マサちゃんがまだ入院する前のことであった。
「今日の午後、ノリオさんがうちに来て、今後のお金のことを相談することになってる。我が家の貯金が全部でどのくらいあるか、通帳を全て見せる。ゆくゆくは通帳をノリオさんに渡して管理してもらわなきゃいけなくなるから。」
「へえ、そうなの?」
「キミがそこへ同席してもかまわない。」
「へ?なんで私が?」
「というか、もし都合がつくなら来てほしい。こういう話をするときは、第三者がいたほうが望ましいんだよ。それによって緊張感も生まれるから。」
と、彼は当日の朝にマリに打診した。マリは都合がついたので、唐突すぎる重大な役目を引き受けた。
少し早めに行って座布団の準備を手伝うと、夫婦は定刻より少し前に車で到着した。彼は案の定、マリが同席することなど伝えていなかったから、夫婦は部屋の奥で座布団を差し出す見知らぬ女にさぞ驚いたことだろう。
「ええと、この人は近所に住んでいるスナガさん。今日は同席してもらうよ。」
彼のなんとも無駄の省かれた紹介に、夫婦は状況がよく飲み込めない顔をしながら、本題の話を始めた。マリは黙って聞いていた。
「お金は全部でこれだけあるから。あなたに全部お願いするから。」
「ほんとに俺でいいの?」
「あなたしかいないよ!」
彼は強く吐き捨てるようにそう言った。そして、通帳の残高と、両親がマサちゃんにかけていた保険の証券を、ノリオさん夫婦だけでなくマリにも見せた。
やがて、夫婦は生活保護の受給も視野に入れるよう彼に提案をした。
「貯金がある場合は基本はダメなんだけれど、状況にもよりけりだから、一度役所に相談してみる価値はあるわよ。」
それまで黙っていたノリオさんの奥さんは、やはり市役所勤めだったため制度には詳しく、生活保護申請に関わる様々な事例について揚々と語った。一言口を開いただけでしっかりした女性であることが見てとれるこの奥さんは、裏表がなく、話しやすい印象をマリに与えた。いっぽうでノリオさんの腹の内は見えなかったが、さしあたり常識的で穏やかな人柄であった。このとき、夫婦はマリと彼との関係について一切訊くこともなく、初対面のマリに対して終始丁寧な応対をした。夫婦が手土産に持ってきてくれた手作りの大学芋を、彼はこっそりマリにすべて持たせた。
K病院へ向かう車中、彼は押し黙ったままなので、マリとノリオさんが病院に着くまで世間話を続けた。F町から県境をまたいで職場のK市まで遠距離通勤を続けていたノリオさんは、案外この辺りの道路にも詳しかった。彼とマリはどちらも会話が苦手で沈黙が苦にならないタイプであるが、役所を勤めあげたノリオさんはさすがにコミュニケーション力が高く、沈黙を作らない自然な気遣いは見事であった。
大理石造りの館内の至るところに生花が活けられた、高級ホテルのようなK病院の待ち合い椅子に、彼はどうにもそぐわなかった。ロビーを通り過ぎる人にまじまじと視線を向けてたりしている彼のことを、マリは観ていた。
長らく待たされた末に、ベッドにがっちりと固定されたマサちゃんがエレベーターから降りてきた。マサちゃんは哀れなほどに、小ぢんまりと大人しかった。固定されているから大人しいのか、その様子だけを見ると、固定なんて不要なばかりか福祉タクシーを手配する必要もなかったようにしか見えなかった。
K病院からO病院への30分弱の移動時間が、家族の貴重な面会時間であった。マサちゃんのベッドの真ん前にはマリが座り、彼はそのひとつ前の座席に座った。家族からの刺激のない入院時間はマサちゃんにとって果てしなく長いことであろう。このわずかな時間にできるだけたくさんのコミュニケーションをマサちゃんとの間に試みた。彼も同じことを考えていたようで、二人で代わる代わるマサちゃんに話しかけた。マサちゃんからの返事はなかった。
「ほら、マサさんがいつも服を買いに来るワークマンの前を通っているよ。」
彼がそう言ったのは、マサちゃんの記憶を刺激するためと、O病院がマサちゃんの行動圏内のそばにあることを知らせることでマサちゃんを少しでも安心させようとしたのだろう。でも本当は、彼もマリもマサちゃんに何を話せばよいかわからなかったのである。
マリはふと思い付き、マサちゃんのお腹に愉氣をした。言葉ではなく、愉氣のほうがエネルギーがダイレクトに届くかもしれないと考えたからだ。心の内では彼を家族のように感じているマリは、その弟であるマサちゃんのこともひそかに家族だと思わせてもらうことにした。いっぽうで、マサちゃんに愉氣をすることで彼に嫉妬をさせたいという不謹慎な女心がマリの中にないわけではないことを、マリは静かに自覚した。
しばらくすると、マサちゃんの目から涙がこぼれ落ちた。マリはそれをティッシュでそっと拭った。彼はそのことに気づいていなかったので、あとで伝えると、
「え、マサさんが涙を流したの?」
と彼はたいそう驚いて訊いた。
★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。
☆追伸:初めての「やっちまった!!!」をやらかしました。
重要な出来事の書きぬかりです。本話・中段の「ノリオさん夫婦との出会い」を正しい時期に書き忘れていることに、本話を執筆中に気がつきました。回想シーンに埋め込むことでどうにか書き入れましたが、本来はそれで済まされるような些末な出来事ではありませんでした(汗)。
気をつけてはいるつもりですが、書きぬかりに後で気がつくという事態は完全には免れなそうです。その都度、対処していきます。(ゆきみ)