【知られざるアーティストの記憶】第68話 S医院の思想と療法との出会い
Illustration by 宮﨑英麻
*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*
第9章 再発
第68話 S医院の思想と療法との出会い
メイから教わった、抗がん剤を使わないがん治療のS医院のホームページを、マリは早速彼と一緒に見てみた。一緒に見た、というよりは、マリが彼の前でホームページを読み上げた。彼は黙って耳を傾けていたが、見方によっては聞いているのかいないのか、どちらかと言うと詳細な意味は捉えずに大まかなニュアンスだけを感じ取ろうとするようにも見えた。
ホームページには、S医院の考えるがんのメカニズムと、世界標準的な一般のがん診療への批判、そしてS医院ががんと向き合い治療する方法について、やや攻撃的な言葉で書かれていた。それによると、がんとは遺伝情報の狂った細胞の暴走であり、その原因は様々あるが最大のものは電磁波である。それに加え、心身の強いストレスが免疫力を低下させ、がんを助長する。生活習慣病であるがんは予防が可能であり、対応を誤らなければほとんどの患者を助けられる。
しかし、手術・抗がん剤・放射線による「三大治療」は、「いずれも頼みの綱の免疫力を徹底的に弱め、結局、患者自身がともに斃れてしまう」。加えて、電動ベッドや治療機器などによる電磁波に医療現場で晒され続けることも、患者の免疫力を著しく低下させる。がんの対処法は本当はもっと単純で身近なものである。
この問題への対処法としてS医院は、畳の下にアルミホイルを敷き詰めることを提案している。1階の部屋が寒すぎるため、少し前から2階の部屋に布団を敷いていた彼はこのことを気にかけたが、
「前に父親と1階の天井を開けたことがあるから電気の配線を知っているんだけど、確か電線は部屋の真ん中を通っていなかった。」
という記憶に基づいて、アルミホイルの処置を施さなかった。
S医院ホームページには、生活の中での電磁波の注意点についてずらりと書き連ねられていたが、彼は以下の項目に目を止めた。
「金属のワイヤーがダメって言ってるよ。キミは大丈夫?」
彼の治療法を検討しているところなのに、彼は自分のことよりもマリのことを心配するのだった。
「出産や子育ての時期にはワイヤー入りって避けてたけど、最近はワイヤー入りも着けているよ。」
先日メイと一緒に買いに行き、再デビューを果たしたワイヤー入りのブラは、
「かわいい下着を着けているじゃない。」
と彼から褒められて以来、ダージャの勧めで愛用していた総レースのタンガと共にマリの勝負下着となった。彼のその一言から、彼のためにかわいい下着を買い集めることが、マリのひそかな楽しみともなっていたのだ。しかし、今はそのことではないのだった。
S医院の主張には特に違和感を感じるところはなく、治療法の詳細についてはホームページの文章だけでは理解しきれなかったものの、大筋において賛同できるように感じられた。特に、一般的な化学療法に対する批判として提示された「直感的に本質を捉える」という態度は、彼とマリの思想によく馴染むものであった。
心臓外科出身であるS医院のT医師がこの思想にたどり着いた柔軟さは、尊敬にも値するように感じられた。
ただ一つだけ二人の心に引っかかったのは、S医院の2002年からの約20年間の治療例の中には、「白血病」の事例がただの一例も載っていなかったことである。
家の中で一切の暖房機器を使わない彼は、真冬の布団の中で電気毛布にくるまれていた。S医院のホームページで電磁波の害を知ってからは、それがマリの作った糠袋に替わった。糠袋のぬくもりはせいぜい30分ほどしかもたないので、マリは彼が自分のために部屋を温めることを願ったが、彼は生活態度を改めなかった。
彼を抱きしめるとき、彼の服からはタンスの樟脳の香りがいつもほのかに漂っていたが、このときを境に米糠の香りが加わった。
★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。
~~追記~~
ホームページからの引用が多く、療法についての硬い内容で恐縮です。闘病体験記としての側面からは重要な内容になります。特に、この先の展開においては療法の占める割合が高くなり、二人の精神的な関係を理解することにも密接に関わってくると思います。
彼の亡くなった年齢と同じ「第68話」の内容がS医院になったことにも因果を感じます。「第68話」で彼の誕生日を祝うところまで行きたかったのですが、ちょっとズレてしまいました。ホームページの引用が長すぎ!のせいですが、これでもかなり頑張って短くまとめました。S医院のスタンスはあらましだけでもちゃんと記しておく必要があったのです。