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【知られざるアーティストの記憶】第90話 マホのお話会に集う女性たちと彼

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

全編収録マガジン
前回

第12章 S医院に通う日々

 第90話 マホのお話会に集う女性たちと彼

マホのお話会の会場は、彼の家から徒歩15分くらいのところにある、マリの友人がチベット人のご主人と営むチベット料理屋さんであった。マホに続いて、彼とマリもユミコの車に乗り込み、会場に向かった。

寂れた商店街の中にあるそのお店は、家族経営ゆえとてもアットホームな空間であったが、チベットのティンシャなどの楽器やアクセサリー、布製品などの民芸品がガラスケースに並び、異国の空気を放っていた。彼の家でマリが見つけた真鍮の鐘とそっくりな鐘もその中に鎮座していた。

ポツリポツリと集まった参加者は、彼を除いて全員が女性であった。会場は貸し切りで、ドリンクなどをワンオーダーすることがお話会の参加条件であったが、メニューを見た彼が
「飲めるものがない。」
と言う。彼はトイレが近くなるという理由でカフェインのものを日頃から一切摂らないし、乳製品はS医院から止められていた。仕方なくマリは、お店の友人にわけを話し、闘病中ということで免除してもらった。

彼とマリを入れても10人に満たない参加者が席に着いた。二人は四人掛けのテーブルに隣り合って腰を掛けた。マリの前にはユミコが、彼の前にはその日がマリにとっても初対面であったリンが座った。女性ばかりの中に黒一点では、彼でなくとも大抵の男性は居心地が悪かろうとマリは心配したが、意外にも彼は全く意に介さない様子であった。そればかりか、まるで周りが見えていないかのように、テーブルの下で彼の左手がマリの右手を握った。驚いて彼を見上げると、彼は嬉しくてたまらないといった表情でマリを見つめている。その瞳に捕らえられ、マリは彼に微笑み返した。周りは気づいていないふりをしていたが、気づかないはずがなかった。
「二人の間にすっごい幸せオーラが出ていたよ。」
と後日、リンから報告を受けた。


©Yukimi 彼のスケッチブックより 落書き、下描き


マホは軽く自己紹介をしてから、早々に本題に入った。マリは食い入るように彼女を見守り、時々はたと・・・彼の様子を盗み見た。初めて耳にするマホのパーソナル理論を、さすがの彼も理解しうるのだろうか。彼は俯き、瞼を閉じていた。まるで居眠りをしているようにしか見えなかったので、マリは気を揉んだ。マホもイクミが退屈しているかもしれないことを案じてか、早い段階でツインレイに言及し、マリとイクミを例に出した。しかし、彼は最後まで目を閉じたままだった。

参加者の中には、12月にマホを通して出会ったマユと、友人のアツミの姿もあり、マリにしてみれば初対面の人よりも知人のほうが多かった。マユは時の皇后にも似た端正な面立ちに強い意思の煌めきを湛えた眼差しで、時々ゆったりと口を開き、鋭い感性と豊かな経験に基づく言葉でその場の議論をまとめた。12月に出会ったばかりのマユとメイとマホは、まるで魂の三姉妹であるかのように意気投合したそうだ。開かれた感性を持ち、パーソナル理論を打ち立てた天才肌の末妹マホと、柔らかな感性で人と人とを出会わせる天才である次姉のメイ、どっしりとした深い眼差しで三姉妹をまとめる長姉マユというふうであった。

モロッコ好きのアツミは、サハラ砂漠でベリーダンスを踊った経験を持つ。ヘジャブのようにスカーフを巻いたこの日のエキゾチックな彼女のスタイルは、彼の目に入っただろうか。

マリはアツミに彼のことを話してはいなかったが、彼が4クール目の入院治療から退院してきたばかりの2021年9月、マリは流行病ウイルスの予防接種についてアツミに相談に乗ってもらったことがあった。彼はT大学病院のH医師から、退院後病状が落ち着いたらすぐに流行病の予防ワクチンを打つことを勧められていた。彼自身には、ワクチンに対する懐疑と流行病に罹患することへの不安があり、判断する材料が圧倒的に足りなかった。マリは家族ぐるみでワクチンを打たない方針をっていたが、それは彼のように正常な白血球が不足する白血病に侵され、なおかつ抗がん剤治療を経て免疫力が著しく落ちている人の場合にも当てはまるかどうかについては判断が及ばなかった。マリの周りで最も流行病ワクチンについて積極的に情報を取り入れているのがアツミであった。

その時点でのアツミの答えは、万が一流行病に罹った場合に重症化するリスクを取るか、ワクチン接種後の副作用のリスクを取るかであるが、副作用のリスクを取って摂取したとしても効果が不確かなワクチンであり、翻って血栓や死亡、帯状疱疹など副作用のリスクがあまりにも高く、白血病治療後の体で耐えられる保証がない、また数か月後には流行病の治療薬も開発される見込みでもある、というものであった。そのままを彼に伝えたところ、彼はワクチンの接種を見送った。


©Yukimi 『未来へのレクイエム』P・5


マホは簡単に総論を話した後、一人一人の話を聞きとって簡易なパーソナル診断を下し、それぞれの事例をもとにアドバイスと持論を展開し、未来への展望を総括して話を締めくくった。所々で高らかに笑うマホの明るさは、実に親しみやすくて小気味よかった。

終始目をつぶっていた彼は、口には出さずに時間を気にし始めた。
「あ、そろそろ薬を飲む時間だよね?」
「……そうなんだけど、先に帰っても大丈夫かな?」
「もちろん、帰って大丈夫だよ。あれ、雨が降り始めてる。私の傘をさして帰って。」
マリはその後の懇親会にも続けて参加する予定だったので、傘は要らないと言い張る彼に傘を押し付けて、先に歩いて帰ってもらうことにした。無言で店を出ていく彼を見送りながら、
「薬を飲む時間なので先に帰るそうです。」
と慌てて皆への挨拶を代弁して。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

マリの友人アツミこと「あっちゃん」のページ⤵
♥サハラ砂漠を舞台にした恋愛小説♥など


*編集後記*
マリの友人についてここまで詳細に記す予定ではなかったのですが、書いているうちに膨らんでしまいました。
仮名を付けた彼女たちがこの物語にとってどのくらい重要かと言えば、メイとマホが彼本人と多少関わった以外は「通りすがり」に等しいくらいの役なのですが、生前の彼にちらっとでも出会ってくれた友であり、彼の亡くなったあとにマリを支えてくれた友なのです。そして、この物語の重要な番外編となる「遺品整理編」にも関わってくる人たちもいます。
「遺品整理編」がなぜ重要かと言いますと、本編だけでは彼はちっとも「知られざるアーティスト」らしくないのです。あくまで「病人イクミ」であって、アーティストらしさは端々にちらっと垣間見える程度です。
マリ自身さえも、遺品整理を通して初めて彼を「知られざるアーティスト」だったのだと認識するに至ったのです。
彼女たちはマリの近くで、ちらっとでも生身の彼を感じてくれた貴重な女性たちなのです。


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