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囲碁史記 No.7

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囲碁史研究家の視点により、囲碁の歴史を貴重な資料をもとに解説。 No.7は囲碁史記 第124回から第143回まで 大正末期に日本棋院が設立されて以降、第二次世界大戦終結までの囲碁…
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記事一覧

囲碁史記 第124回 日本棋院の組織概要

日本棋院役員 現在の日本棋院は、理事長をトップとする理事会により運営され、理事を選任す…

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囲碁史記 第125回 棋正社と正力松太郎

 明治以降、長きに渡り分裂状態であった日本の囲碁界は、関係者の努力により大正十三年七月…

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囲碁史記 第126回 日本棋院の普及活動と春秋大手合の創設

新会館の竣工 大正十三年七月十七日に創立された日本棋院は、懸案の新会館建設について、副…

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囲碁史記 第127回 万年劫問題

  前回、昭和三年に行われた日本棋院の第二回大手合で万年劫問題が発生したことを紹介したが…

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囲碁史記 第128回 昭和初期の若手棋士 1

若手棋士の台頭 大正十三年七月に日本棋院創立され、その後間もなく離脱したメンバーにより…

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囲碁史記 第129回 昭和初期の若手棋士 2 橋本宇太郎

 本因坊昭宇と号し、関西棋院を設立するなど昭和期に活躍した橋本宇太郎もまた、大正末期から…

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囲碁史記 第130回 呉清源の来日

囲碁を始めるきっかけ 昭和三年、一人の天才少年が中国より来日する。後に木谷実とともに「新布石」を創始し、「昭和の棋聖」と称される呉清源である。今回は呉清源来日の経緯について紹介していく。  呉清源は一九一四年、日本で言えば大正三年に中国福建省で生まれる。清源は号であり、本名は泉という。六人兄弟で、二人の兄と三人の妹がいた。  呉家はもともと福州で代々官職を務め、「書香一門」と称された名家であったが、資産家の祖父が無くなり、さらに辛亥革命で清朝が滅ぶと没落していった。  父の

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囲碁史記 第131回 呉清源の登場

呉清源の住まい 大正三年十月に来日した呉清源とその家族は、溜池の日本棋院にほど近い麻布…

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囲碁史記 第132回 本因坊秀哉・呉清源戦

日本選手権手合 昭和八年秋季大手合にて、木谷実五段と呉清源五段が用いた新布石法に囲碁界…

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囲碁史記 第133回 昭和十年代の若手棋士

 新布石の登場により囲碁の戦い方は一変するが、時流に乗り新しい棋士たちが頭角を現してい…

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囲碁史記 第134回 本因坊秀哉の引退

秀哉の苦悩 明治四十一年、三十四歳の時に念願の第二十一世本因坊となり、 秀哉と号した田村…

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囲碁史記 第135回 本因坊秀哉の逝去

 昭和十五年(一九四〇)、世襲制で最後の当主となる第二十一世本因坊秀哉は、滞在先の熱海…

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囲碁史記 第136回 本因坊戦に向けたルールの整備

 昭和九年に東京日日新聞(毎日新聞)が実力本位制の「名人戦」創設を申し入れ、昭和十四年六…

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囲碁史記 第137回 第一期本因坊戦

第一期本因坊戦の経過予選トーナメント  昭和十四年六月、日本で最も古い囲碁タイトル戦「本因坊戦」がスタートする。  前回も述べたが、参加者全員が互先の選手権で、予選は最初に甲組四段六名でトーナメント戦が実施され、向井四段が勝ち上がる。次に向井四段を含めた五段級のトーナメント戦が行われ、村島誼紀、篠原正美の二名が六段級トーナメントへ進出。最終的に呉清源、久保松勝喜代、前田陳爾、関山利一が本戦へ進出した。 本戦トーナメント  本戦では鈴木為次郎、瀬越憲作、加藤信、木谷実の

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