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囲碁史記 第131回 呉清源の登場


呉清源の住まい

 大正三年十月に来日した呉清源とその家族は、溜池の日本棋院にほど近い麻布谷町(現港区六本木一丁目)の借家で暮らし始めるが、師匠の目が届くところが良いだろうと、翌年には瀬越邸に近い東中野へ引越している。
 さらに、瀬越は昭和五年に大宮前六丁目三八九に屋敷を新築しているが、この時、敷地の一角に三十坪ほどの家を呉清源のために建てている。
 瀬越が呉家のために家を建てたのには理由があった。当時は満州事変の勃発などにより日中関係はかなり悪化し、日本国内でも中国人への差別が激しさを増していった時期である。東中野の呉家へも石が投げ込まれたことがあったそうで、瀬越は呉清源とその家族の身を案じて、自分の家の敷地内に呉家の家を建てたのだ。
 なお、呉家では次男の呉炎は中国へ残ったが、親戚の家に預けられていた三人の妹は日本へやってきて共に暮らしている。瀬越の妻は、この三人の娘に日本語を教えるなど可愛がっていたという。
 長兄の呉浣は大倉喜七郎の支援により呉家の生活が安定したことから、昭和五年に早稲田大学へ入学。大学では囲碁部に所属し、大学リーグ戦で主将を務めるなど活躍している。呉浣も清源と共に碁を習い、清源に三子の実力があった。
 呉浣は二年ほどで明治大学へ移っているが、ここでも囲碁部の主将を務め、リーグ戦で念願の優勝を飾っている。
 その後、呉浣は大陸へ渡り満州国官吏となっている。
 昭和十年の職業別電話帳には瀬越と清源、それぞれの電話番号が掲載されているが、住所は同じである。なお、場所は現在の西窪駅近く、区立高井戸第四小学校の北側、杉並区西荻南一丁目二十のあたりになる。
 呉清源は昭和十六年に結婚するまで、ここで暮らしている。

昭和十年の電話帳

飛び付き三段

 日本棋院の審査会では、来日した呉清源を何段とするか議論が行われた。
 加藤信のように、初段、あるいは二段とするべきという意見も多かったが、瀬越はかつて方円社において無断の自分や鈴木為次郎、久保松勝喜代が、三名の棋士と試験碁を行い段位を決めた例を出し、呉清源をとりあえず三段格とみなし、試験碁によって正式に段位を決めることとなった。

呉少年と篠原正美四段の対局

 最初の対局者に選ばれたのは篠原正美四段である。篠原は、この年の秋季大手合優勝者である。通常、大手合は時間制限制で、決着がつくまで連日打ち続けることとなるが、この時は呉清源が時間制限のある対局をしたことがなく、また少年という事で、体調面を気にして、十二月一日、三日、七日と、間を開けて三日がかりで行われた。結果は呉清源が先相先の先番で中押勝ちであった。
 第二局は、本因坊秀哉名人自ら対局している。二子置いての対局で呉清源初の持ち時間制での対局であった。持時間は九時間である。
 呉清源は白の秀哉が最初の一手を打った後に、また隅の星に黒石を置いている。当時は下手がいきなり星に打つのはあまり褒められた手ではないとされていたが、名人との初対局に自分なりに工夫したのだろう。結果は二三二の二子番で、秀哉は六時間五十三分、清源は四時間十九分を使い、黒四目勝ちとなった。対局後、兄弟子の橋本宇太郎が蕎麦屋へ連れて行って祝福したと言われている。
 続く第三局目は村島誼紀四段との対局であった。この一局も先相先で先番五目勝ちとなり、この申し分のない結果に、日本棋院は正式に呉へ三段の免状を与えている。

第一着天元のマネ碁

 呉清源はこの試験碁の後、しばらく休養している。
 来日時、痩せて目ばかり光っているのを心配した瀬越が神田駿河台の杏雲堂病院で診察させたところ(喜多文子の紹介という説もあり)、胸に結核の自然治癒の痕跡があることが判明、再発の恐れがあることや、二ヶ月に及ぶ大手合について、まだ子供でありもっと日本の空気に慣れてから参加した方が良いのではないかという医師のアドバイスにより、春の大手合への参加は見送り、秋から参加する事になった。
 大手合への参加は見送られたが、対局そのものはしばしば行われている。試験碁の三局に続いて数局打たれた後、夏ごろに木谷実四段と打った碁は、第一着天元のマネ碁として現在も語り継がれることとなる。つまり、呉清源が一手目を天元に打ち、以降は木谷の打った手の対角線に打ち続けるという、いわゆるマネ碁の布石に出たのである。
 呉清源は、来日前から木谷の碁の研究をしていて、その強さは十分認識していた。普通に打ったら勝てないと思い、前夜にマネ碁をしてみようと考えていることを兄弟子の橋本宇太郎に相談したところ、橋本も「面白いからやってみなさい」と励ましていたという。
 コミの無い当時、このまま最後までマネ碁をされては勝てないと、さすがの木谷も再三部屋を出て不満を漏らしていたが、ルール上問題ないのでどうしようもない。結局、呉清源は六十五手目でマネ碁を止めたが、その手が疑問手となり、木谷の妙手により三目負けとなった。師匠の瀬越も、このまま呉が勝っていたら問題となっていたろうから、結果的に負けてよかったと言っていた。
 なお、その日の夜、木谷と共に日本棋院に泊まった呉清源は、「碁は二度と同じ形にならないのだから、大切に打たなければならない」と諭されたといい、後に協力して新布石を生み出していく二人の親交が、ここから始まっていった。

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