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囲碁史記 第128回 昭和初期の若手棋士 1


若手棋士の台頭

 大正十三年七月に日本棋院創立され、その後間もなく離脱したメンバーにより棋正社が設立されると、読売新聞の呼びかけで院社対抗戦が開催される。
 結果は日本棋院の勝利に終わり、棋院は隆盛期を迎えていくが、対抗戦勝利の裏には、木谷実がジゴを挟み八連勝するなど、若手棋士の台頭があった。
 棋正社の高部道平は、後に「秀哉、中川、岩佐らが出てきたら、こちらも黒を持てるし、勝つ自信があるが、敵はズルいから木谷や橋本らばかり出してくる。こちらは白でこなさなければならないし、時には二子置いて打たなければならない。ハメ手にひっかかったようなものだ。」と愚痴っていたという。いずれにしても、この時期には囲碁界が大きく変わっていく中で、若手の棋士が台頭し、囲碁界を大いに盛り立てていったことが分かる。
 今回は、それらの棋士について何人か紹介していく。

久保松勝喜代

久保松勝喜代

 まず最初に若手ではないが、昭和初期に活躍した若手棋士に大きな影響を与えた久保松勝喜代について紹介しよう。関西で活躍した久保松は、多くの若手棋士を育て、東京へ送り出した人物である。
 久保松は二十五貫余(九十キロ代)の巨漢で豪放磊落な人物だったと伝えられている。
 久保松家は代々兵庫県尼崎藩の重臣で、勝海舟や山岡鉄舟とも親交のあった父親は明治政府の要職に就くことも可能であったが、藩主から嫡子の教育を頼まれ藩校師範に専念、後に尼崎町長などを務めている。
 六歳で父を亡し伯父の後見で育ち、囲碁は五歳の頃に父より手ほどきを受けたといわれる。七歳の時に隣家の医者に井目(九子) で教わり、半年後には逆に七子を置かせたといわれ、孫のような子に打ちこまれた医者は自信喪失して、以後碁石を握らなくなったと伝えられている。
 九歳の時には泉秀節と九子で対局して勝ち、養子に望まれたが伯父が許さなかったという。
 明治四十二年には大阪朝日新聞社主催の少年囲碁競技会で優勝している。当時共に競いあった仲間には、後に秀哉門下として活躍する小岸壮二らがいた。
 大阪府立北野中学校を卒業後、関西大学専門部に入学。
 大正三年には来阪した方円社社長の中川亀三郎(石井千治)に二子で打ってもらい、飛び付き三段を許されたものの、囲碁で身を立てることについて伯父ら家族の猛反対を受けている。家族が反対したのは、もともと尼崎藩には囲碁禁制の戒めがあったためと言われている。
 悩んだ久保松は、大学を中退し、大正六年からは神戸の神港倶楽部で囲碁教授を始めた。
 なお、久保松は遊びである五目並べをルールを整え競技化した「連珠」も得意とし、二抜き連珠の家元としても活躍していた。
 久保松の道場では、村島誼紀、橋本宇太郎、木谷実らが学び、三人は関西で開催される囲碁大会で活躍し、その名を知られていった。
 久保松は、「偉大なる素人」と称されていた。師匠につかず、ほぼ独学で碁を覚えたためで、ある棋士が、「その碁は素人の喧嘩碁のようなもので、プロが恥ずかしくて打てないような手でも平気で打つし、プロの常識では考えられない奇抜な発想がある」と言ったのが由来らしい。
 弟子の橋本宇太郎は、大阪時事新報の新聞碁で五子とはいうものの八目という大勝して大得意であったが、久保松から手紙が来て、「君は守りぬいて勝っており、五目も置けば勝負にこだわらず切って切って戦わないと本物にならぬ」と逆に叱られたと語っている。
 ただ、弟子の指導は囲碁界の旧来の風習にとらわれず、時には指導の合間に弟子と麻雀や碁並べを楽しむこともあったという。
 そんな久保松は、見込みのある弟子を、さらに伸ばすため、どんどん東京に送り出している。村島誼紀や前田陳爾は本因坊秀哉へ、橋本宇太郎は瀬越憲作へ、木谷実は鈴木為次郎にと、それぞれの性格にあった預け先を吟味し、下宿先を手配したうえで送り出していた。
 この他、関山利一、福原義虎など、西日本出身の棋士の中には久保松に世話になった人物が多く、そのため関西囲碁界の父とも称されていた。
 晩年は糖尿病に苦しみ、日本が真珠湾攻撃を行い日米が開戦した一週間後の昭和十六年十二月十五日に四十七歳で亡くなる。
 前月には第二期本因坊戦の予選で弟子の橋本宇太郎と対局している。体調を崩した久保松のために病院での対局となったそうだが、この一局で橋本を下し、大変喜んでいたという。久保松の死により橋本は欠員補充で復活し、その後勝ち進み、第二期本因坊となっている。

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