囲碁史記 第133回 昭和十年代の若手棋士
新布石の登場により囲碁の戦い方は一変するが、時流に乗り新しい棋士たちが頭角を現していく。今回はそうした人物を紹介していく。
田中不二男
後に二十二世本因坊秀格を名乗る高川格と、「天才田中、秀才高川」と並び称される田中不二男は、大正五年に神戸で生まれる。囲碁棋士の田中智恵子、田中秀春は、姪、甥にあたる。
久保松勝喜代の神戸土曜会に入り、昭和五年に入段。日本棋院関西別院に所属し、東京の大手合では、昭和六年大手合秋期乙組、翌年の秋期乙組で優勝し、二段へ昇段する。
昭和九年春期乙組でも優勝し、甲乙両組優勝者決戦で関山利一四段に勝利するが、この春期大手合の第一局では久保松門下の五人が初手天元に打って注目されている。この時、勝利したのは田中のみであり、他の者は天元を地域拡張に利用しようとしていたのに対し、田中は攻撃的に利用したと評されている。
昭和十年に三段、翌年には四段へ昇段。この頃、木谷実や呉清源が創始し流行していた新布石は、若手棋士により、より攻撃的で過激になっていき、ウルトラ新布石と称されていたが、その中心に田中はいた。
昭和十四年には第一期本因坊戦甲組四段戦へ出場。大手合秋期優勝者戦では呉清源に先番九目勝を収める。
田中は肺結核により、昭和十五年一月二十日に夭折。五段を追贈される。
当時、関西の若手棋士は、京都の吉田操子の吉田塾に通い、早碁を打ったり、この頃大流行した麻雀に興じていたと言われるが、田中は入りびたりで、麻雀により体を壊し命を縮めたという人もいたという。
親友でライバルであった高川格は、雑誌「棋道」に追悼文を書いている。
「田中よ、よく私を負かしてくれた」と綴り、病床で本因坊秀栄全集を読みふけっていたことが紹介され、関係者の胸を打った。
田中は高川より格上で、高川自身もそれを認めていたといわれ、もし生きていれば戦後の囲碁界は大きく変わっていただろうと言われている。
高川格
本因坊戦九連覇を達成し、高川秀格と号し、二十二世本因坊を贈られた高川格も、新布石が流行した昭和十年代前半に頭角を現した棋士である。戦後の活躍については改めて紹介するが、まずは頭角を現していくまでの人生について紹介していく。
大正四年九月二十一日、和歌山県田辺町(現田辺市)に生まれる。
六歳頃に父の影響で碁を覚え、大正十四年に東京へ出て日本棋院に通うが、諸事情によりすぐに帰郷し、大阪の光原伊太郎に入門する。
高津中学(現大阪府立高津高等学校)入学後、昭和三年に入段、関西囲碁研究会に参加し、昭和六年には二段を許され、神戸の久保松勝喜代、京都の吉田操子の研究会にも参加していく。
大阪商科大学予科の受験失敗を機に囲碁の道に進むことを決め、中学卒業後の昭和八年から東京の大手合に参加。関西では、一歳下の田中不二男と「天才田中、秀才高川」と並び称される。
この時期には新布石の影響で大手合でも初手天元などを打っている。後にも星打ちを多用し、黒番では第一着はほとんどが星であった。
昭和十四年の大手合で五段昇段すると拠点を東京に移し、翌年には正式に関西別院から日本棋院所属へ移籍。藤沢庫之助、坂田栄男とともに日本棋院若手三羽烏と呼ばれ注目されていく。
昭和十七年に洋画家・園部邦香の娘と結婚する。
昭和十九年には、前期の大手合で呉清源に初勝利し、昇段点獲得により七段への昇段が確実となるが、兵役の召集により次の最終局が不戦敗となったため、規定局数不足により昇段が無効となる。しかし、後日公務による不戦敗であることを訴え、ルール変更により昇段が認められた。徴兵検査は現役には不適だが国民兵役には適する丙種合格となり、次いで十二月、翌年六月にも召集を受け、駐屯地の宮崎で終戦を迎えている。
高川格は「流水不争先」を信条とし、平明流とも言われる合理的で大局観に明るい棋風であった。低段時代は本因坊秀栄の影響を受け、「秀栄名人の碁は石運びに無理がなく、いざとなれば相手をねじ伏せる力を内に秘めながら、明るい大局観でサラサラと勝ってしまう。それはまるで水が高きから低きに流れ落ちる自然さに満ちている。」と述べていた。秀格の号も、秀栄を意識したものである。
趣味は社交ダンスとゴルフで、ゴルフは棋士の草分け的存在と言われている。また、パチンコも好きで、対局で興奮した気持ちをパチンコで静めていたといわれる。
一方で体質的に酒が全く飲めなかったそうで、初めて本因坊を獲得した際に、祝勝会で主催者が乾杯の音頭を取った際に無理やり酒を飲ませたところ、一杯しか飲んでいないのに急性アルコール中毒で病院に運ばれてしまったというエピソードが残されている。
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