囲碁史記 第137回 第一期本因坊戦
第一期本因坊戦の経過
予選トーナメント
昭和十四年六月、日本で最も古い囲碁タイトル戦「本因坊戦」がスタートする。
前回も述べたが、参加者全員が互先の選手権で、予選は最初に甲組四段六名でトーナメント戦が実施され、向井四段が勝ち上がる。次に向井四段を含めた五段級のトーナメント戦が行われ、村島誼紀、篠原正美の二名が六段級トーナメントへ進出。最終的に呉清源、久保松勝喜代、前田陳爾、関山利一が本戦へ進出した。
本戦トーナメント
本戦では鈴木為次郎、瀬越憲作、加藤信、木谷実の七段の棋士と、予選を勝ち抜いた四名の計八人で四回のトーナメント戦が行われ、さらに、総得点で上位二名が六番勝負を行い勝者を決定することとなった。
このように四度トーナメントを行い、さらにその上位二名で決定戦を行うという複雑な方法がとられたのは、勝者が本因坊の名跡を継承することになるので、一発勝負の運だけで優勝するのではなく、真に実力ある者を選ぼうと工夫した結果である。
本戦トーナメントは下記の表のとおりである。
トーナメントは一位、二位だけでなく、三位決定戦も行い、それぞれ、一位六点、二位五点、三位四点、四位三点、第一回戦敗退は一点の得点が付与された。
本戦が始まる前は、木谷実か呉清源がトップになるだろうというのが大方の予想であった。
しかし、一回戦敗退者には厳しい得点配分により、一位関山七段、二位加藤七段という結果となった。呉清源も四回戦のうち、二度優勝しながら、残りの二戦が一回戦敗退であったため三位に留まり、一度も優勝していない加藤が二位に入るという結果となった。
そのため、中国人である呉清源が順調に勝ち進んだため、本因坊となる事を阻止するため、このような規定となったという噂も流れたが、大会前から規定は定められているので事実とは言い難い。
また、本因坊門下で唯一本戦に出場していた前田六段も四位に終わっている。
決勝の六番勝負
関山・加藤の六番勝負は、昭和十六年二月から七月にかけて行われた。二期以降の本因坊戦では、この戦いは現本因坊への挑戦権をかけたものとなるが、当たり前だが、第一期ではこの勝者が本因坊の名跡を継承することとなる。持ち時間は各十三時間、三日で打ち切りと決まった。
結果は次のとおりである。
決勝の六番勝負はコミなしのせいもあり、先番有利で三勝三敗という結果に終わる。そして、同率となった場合、本戦トーナメント一位の方を優勝とするという大会規定により、関山利一が実力制の第一期本因坊と決まった。
なお、大会を振り返ってみると、本戦トーナメントの第四次戦において両者は三位決定戦を行っていて、ここでの三位と四位の一点差が総合順位を決定付けている。正にこの順位決定戦が勝敗の分かれ目となったのだ。
本因坊利仙誕生
第一期本因坊戦で優勝した関山利一は、本因坊の名跡を継承したという意味で、本因坊利仙と号している。当時、号はタイトル防衛期間中に名乗ることが認められていた。なお、号は一期、二期までは日本棋院より贈られている。
第一期本因坊名称継承式は、昭和十六年九月十日に日本棋院大広間で行われている。坐隠談叢によると、式典は神道形式で行われている。早朝、階上の神棚に祀ってあった歴代本因坊や棋道功労者の霊を正面壇上に遷し、九時頃に関係者が集合。十時より式典が行われた。
式典終了後は萩原佐知子初段と大代津奈子初段の早碁が島村利博五段の大盤解説で行われたほか、所属棋士全員が出席して、一般参加者への教授が行われている。参加者は約三百名であったという。
関山の序列は七段よりも上位に位置付けられ、昭和十七年には七段へ昇段している。
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