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アウトバーンは自由の象徴
今回は、前回投稿した「アウトバーンまとめ」の続きで、社会的な視点からの話。
まず、ざっと前回のおさらいをすると・・・、アウトバーンとは、ドイツ版の高速道路。
元々は今から100年近く前の時代に、ドイツ全土に張り巡らされた。目的は「休日に国民みんなが家族で車に乗ってピクニックに出かけられる暮らしを実現する」というコンセプトを実現するため。通行料は無料。6割くらいの区間は速度制限が無いと言われていて、時速100km以下で走る巨大なトラックから、時速280kmで走るポルシェまでが共存している。
そんな多様な生態のアウトバーン。
速度無制限の是非
正直なところ僕としては、速度制限がなくていくらでも速く走れることについては、ちょっとどうかと思っているところもある。
その理由の一つ目は、速度を上げれば上げるほど、どんどん燃費が悪くなっていくこと。
あともう一つは、それほどの速い速度で走っている時にひとたび事故が起これば、当然タダじゃ済まない。
知り合いが目撃した事故は、3車線の真ん中車線を走っていた車が、追い越し車線の方にスーッと何気なく車線変更したところ、その車へ後ろから時速200kmオーバーで爆走してきた車が突っ込んでいった。するとその衝突によって、突っ込んでいった車が空中をきりもみしながらクルクル飛んでいった、という事故を目撃したらしい。そりゃあ、あれだけ速度差があったら空中へ飛んでいくよなあと思って、その光景がいかにも想像できるから恐ろしい。
政治的には虎の尾の議題
だから、制限速度を設ける議論が昔からあることはある。が、実現しない。
実際、僕がドイツに住んでいた当時も、一部の政治家が速度制限を設定する法案を提起したが、結局見送られることになった。
これまでそういった法案が通ったことがなく、未だに速度が無制限のままになっているのには、やはり理由がある。
まず、ドイツは大手の車メーカーが多く、彼らのロビー活動(速度制限を設けないための働きかけ)が影響していると言われている。というのも、速度制限が設けられれば、ポルシェとかBMW・メルセデス・AUDIの高級車など、高性能で高価な車が売れなくなるから。
加えて、ドライバーたちも速度制限を設けようという動きに対して、拒否反応が強いとされている。
ドイツでは、この「速度制限の設定」と「ビールの税率アップ」の2つの議題は、特別な地位にあるらしい。
政治家がこれらいずれかの議題を取り上げると、彼/彼女の政治家生命が終わると言われている。つまり、踏んではいけない虎の尾のような存在らしい。
とはいいつつ、改めて今年もドイツで速度制限の導入について政治的な議論が高まっている、という記事をネットのニュースで読んだ。
その契機は、ロシアによるウクライナ侵攻によって起こったエネルギー危機。それに加えて、環境保護意識の高まりもこの議論を後押ししている。スピードが上がるにつれて燃費も悪化していくから、制限速度を設けることで、ディーゼルやガソリンの消費を抑えようという考えが高まっている。
近年はこういった環境意識の高まりもあるので、逆に速度制限の設定に抵抗する政治家の方がダメージを受ける時代に変わりつつあるのかもしれない。
という社会の変化の中で、一体いつまでこの速度無制限という特殊な状況を続けることができるのだろうか、と思う。
速度無制限の特別な意味
先ほどのとおり、ドライバーたちも速度制限に拒否反応を示す人が多い。その理由は、この「速度制限を設けない」ことが、ドイツ人にとって「精神的に意味のあるもの」だと言われているから。つまりドイツ人は速度が制限されない状態に対して「自由の象徴」という感覚があって、失いたくないものらしい。
もう少し具体的に表現すれば、「自分たちは子どもじゃないんだから、いちいち制限を設けなくても、自分たちできっちり管理してしっかりやるよ」という「大人の証」みたいな感覚。
実際、ドイツで働いていた時の同僚が言っていた。
ドイツ人同僚
「ドイツの高速道路での死亡事故の発生率を、アメリカと比較すると、ドイツはわずか1/3しかないんだ。つまり、ドイツ人は速度をいちいち管理されなくても、うまくやっていってるよ」
と、誇らしげだった。
この感覚は理解できるところもある。
豊かな社会を自分たちで運営している感覚
というのも、改めてアウトバーンについて俯瞰して見てみると、アウトバーンとは車が速く快適に安全に移動できる社会インフラ。それによって、遠くに住む家族へ気軽に会いに行ったり、車で自由に旅行しながら豊かな体験をすることを可能にしている。もちろん当初のコンセプトどおり、休日に家族みんなでピクニックに出かけて素晴らしい時間を過ごすこともできる。
アウトバーンは、そうやって物理的な距離という障害を下げて、豊かな社会を実現することに役立っている。
そういう社会インフラが、いちいち走るときに通行料を支払う必要もなく、誰でもいつでも自由に利用できる。
そして、一律のルールとして速度制限を導入しなくても、状況に応じて人間が的確に判断しながら運転することで、より効率的な使い方ができる。それでも大きな社会問題にはならない程度には秩序が維持されていて、多様な車が共存できている。
そうやって、いちいち誰かからルールを設けられなくても、市民ひとりひとりの節度や能力でアウトバーンという社会インフラを最大限に活かすことができていると人々が感じているから・・・、そういう状況に対してドイツ人たちが誇りを持つ気持ちも、分からなくはない。
自由へのこだわり
という話を、以前僕がドイツに住んでいたときに、家族と話していた。
僕
「・・・ということで、ドイツ人にとっては速度無制限というのは自由の象徴という特別な意味合いがあるから、制限速度を設けることに強い抵抗を感じるみたい。自由へのこだわりがあるらしいんだ」
そしたら、当時小学生だった息子が、
息子
「ドイツ人たちが『自由を失いたくないという考えに縛られている』こと自体が、『精神の自由を失っている』ように感じるよ」
という哲学的な論争を吹っ掛けてきた。
確かに言われてみれば「自由へのこだわり」っていう言葉は、自己矛盾を起こしているような気がする。
その当時は、なんとも自分の中で消化できない指摘だったけれども・・・
でもいま改めて考えてみると、自分なりの仮説は思いついた。
アジアの人たちは基本的に「自由」とか「幸福」とかの概念について考えると、自己の精神的な内面に入っていく傾向があると感じる。
自分は精神的に自由か?
自分の心は幸福か?
でもヨーロッパの人たちは、そういった概念は社会へ向かっていく傾向が強いように感じる。
自分たちの住む社会に自由はあるか?
自分たちの住む社会は多くの人々を幸福にできるのか?
という文脈で考えれば、ドイツ人たちの考えるところの「自由」というのは、「社会の中での自由」を得ようとすることに対するこだわりであって、自分の中の精神的なものではない。と考えてみると、「自由へのこだわり」という言葉も、まあ矛盾ではないと言えなくもないか。
逆に言えば、うちの息子は「自由」という概念を精神状態にあると考えたわけだから、やはりアジア人らしい思考回路だと言えるのかも。
まあとにかく、そんなこんなで、ドイツには未だに世界でも稀有な「速度無制限の高速道路」が未だに残っている。
↓ この写真は、今から20年くらい前にペルーを旅行した時に撮った独フォルクスワーゲン社の初代ビートル。今の若い人たちはビートルとか知っているのかな・・・。
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by 世界の人に聞いてみた