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もうやだこの国。 #PLAN75 が見せる「日本の未来」を拒否する方法【ネタバレ注意】

※追記:Amazon Prime Videoで本作の配信が開始されました。未見の方は是非どうぞ。

こんにちは、烏丸百九です。

倍賞千恵子さんが主演、早川千絵さんの初監督長編作品である話題作「PLAN 75」が、第95回アカデミー賞国際長編映画賞の日本代表作品に決定しました。

丁度地元の映画館で公開中だったので、私も見てきましたが、アカデミーノミネートも納得の秀作でした。
以下では映画本編のネタバレレビューを交えつつ、本作が示す暗~い「日本の未来」と、それに対する対抗の道を探っていきたいと思います。


1.「細かすぎる演出」が生み出すリアリティ

75歳以上の積極的安楽死が合法化されたのみならず、政府がそれを推奨する近未来の日本」という、欧米諸国と違って安楽死の法制化がそれほど議論になっていない本邦ではやや突拍子なくも見える設定を、細部に行き届いたリアリティ描写で「それらしく」見せていく演出が、映画としての本作の見所でしょう。

例えば倍賞千恵子さん演じる主人公が清掃会社を首になる一連のシーン。親友的存在だった人物が職場で倒れてしまうホラー映画ばりの恐怖演出もさることながら、それを理由に(おそらく全員が75歳以上とみられる)主人公含む高齢スタッフをまとめて解雇してしまう企業の非情さ、それでも最後には職場のロッカーを丁寧に拭き「今までありがとうございました」と手を合わせる主人公の姿には、静かに胸を打つ迫力があります。パンフレットによると、なんとこの「手合わせ」は倍賞さんのアドリブとのこと。

また、仮面ライダーネクロムこと磯村勇斗さん演じる政府役人が、「PLAN75」を希望者(主人公ではないところがポイント)に説明するシーン。「個別だとお金が掛かるが、共同墓地に埋葬となる場合費用が無料になる」というイヤに生々しい設定(後により衝撃の事実が明らかとなる)をさらさらと述べつつ、唐突にピピッとアラームが鳴り「丁度30分ですね」とクロージングする。「説明の時間が決められている」「原則30分」という実際の行政手続きや法テラスを思わせる現実的な描写と、フルタイムで契約を成立に導く役人の有能さを説明的にならず短い時間で効果的に描写しています。ネクロムってそういう意味かよ!

パンフレットでも監督本人が述べていますが、本作は邦画にありがちな「説明的な描写」「キャラによる口頭の解説」が一切ありません。観客の解釈の余地を多分に残し、全てを演技力と演出で押し切るスタイルはアメリカ映画よりもどちらかといえばヨーロッパの芸術映画を思わせるもので、本作が長編監督一作目というのは色々な意味で俄には信じれられません。早川監督の次回作も楽しみです。

「細やかさ」といえば、(邦画らしからぬ)人種多様性シスターフッドへの配慮も見逃せないところ。外国から出稼ぎに来ている労働者のマリア(サムネ画像の人物・役者もフィリピン人モデルのステファニー・アリアンさん)は介護施設に従事していましたが、安すぎる給与と娘の病気に悩み、キリスト教系と思われるグループの仲間から「PLAN75」関係の仕事を紹介されます。高給なものの、内容は「PLAN75で死んだ老人の遺体と遺品の整理」で、先輩に勧められ遺品の時計を横領してしまったりも。こういう一番汚い仕事を外国人労働者にやらせる描写は(日本に限った話ではないとはいえ)大変にリアリティがあります。

また、主人公から「PLAN75」実施に向けた電話相談を受けるコールセンター職員の瑶子は、自分を信頼した主人公へと情が移ってしまい、規約を破って二人で遊びに出かけたりしつつ、結局最後まで「PLAN75実施への心理的誘導と管理」という真の業務に離反することなく出番を終えてしまいます。世代を超えて社会に翻弄される女性の友情と悲しみは、監督自身と倍賞さんが共有しているビジョンの表現なのかも知れません。

2.「PLAN75」は虐殺である

さて、映画としての面白さについては一通り説明したので、ここから本題に入るのですが、結論から言えば本作で描かれる75歳以上の「安楽死」を目的とした「PLAN75」は政府による虐殺であって、キャッチコピー「果たして、是か、非か」は論じるまでもありません。虐殺を肯定出来る論理などないからです。

何故そう断言出来るかというと、スイスなどでは実際に法制化されている「積極的安楽死」の制度と「PLAN75」は、実際には似て非なるものだからです。

パンフレットで立命館大学の大谷いづみ教授が解説するように、「積極的安楽死」(支持者からは「尊厳死」とも言われます)はあくまでも患者の自由意志に基づいて行われるものであり、マンガ「ブラックジャック」に登場する安楽死支持者・ドクターキリコの論理も同様です。要するに「病気や老衰を苦に自殺したいというなら(医師のサポートで)そうさせてやるべき」というものであり、それを許容するか否かは自殺の是非と同様、確かに「議論」のあるところで、究極的には生命倫理や宗教観の問題と言えるでしょう。

しかし、(どうも大谷教授は意図してかしないでか混同して論じてしまっているのですが)たとえ法制化によって「安楽死(≒自殺)しても良いよ」と国が言ったとしても、それを行うか否かはあくまでも個人の判断であり、国が決めることではありません。また、そもそも老いや病で死を望んでいない人間を死に追いやることは、当然ながら倫理的にも宗教的にも許されないでしょう。ドクターキリコですら、助かる見込みのある患者は医者として普通に救命しています。

しかし「PLAN75」の世界では、「国家が」「積極的に」「(75歳以上という)特定の属性の人々に対して」「”安楽死”を幇助し」「金まで渡している」ので、これはどう考えても「積極的安楽死の制度化」と呼べるような代物ではありませんし、当人の「自己決定権」をどこまで認めるべきかの議論にもなりません。これは政府による計画的な集団虐殺であり、ナチの障碍者虐殺と(論理的にも倫理的にも)全く同じものです。

その証拠として、短いシークエンスですが、磯村さんが火葬場の都合を連絡する「最後の業者」の描写があります。何の業者かわからず、相談したら上司に連絡を代行されてしまった磯村さんは気になり、業務内容を調べたところ、「動物の死体処理」を専門に請け負う会社であったことが判明。自分が推奨してきた「共同墓地への埋葬」が、本当は何を意味するか気付く作中屈指の恐怖シーンですが、本当に恐ろしいのは、死体の処理方法それ自体よりも、政府が「国家事業」としてPLAN75を実施している事実でしょう。そこにあるのは純粋な経済合理性のみであり、「積極的安楽死」で通常問題になる医療福祉の議論とは、本質的に無関係なのです。
参考に書きますと、キリコはとある人物から安楽死を依頼された際、手数料として百万円を請求しています。「医療サービス」を提供するわけですから、通常「積極的安楽死」とは本人が大金を払ってやってもらうものなのです。

ミスリーディングなキャッチコピーのためか、監督が出演したNHKの番組でも「PLAN75=積極的安楽死の法制化」と誤解した視聴者から大量の賛同コメントが寄せられたそうなのですが、積極的安楽死したがる国民ばかりの国はそれはそれで非常に問題あるよねというのはさておき、「老いてこれ以上生き続けても意味がないから死にたい」と考える人はそれなりにいても、「国の経済を回すために自殺したい」と考える人は流石に少数派なのではないでしょうか。
しかしこの「混同」こそが、まさに劇中で政府が「PLAN75」に用いているペテンであり、今我々が別の言葉―例えば「国の借金があるから福祉を削ろう」「老人ばかり優遇して不平等だから年金を減らそう」といった、一見尤もらしい理屈で正当化されるのを聞いている、人間の生命や尊厳よりも経済合理性を上位に置く「虐殺の論理」なのです。

3.それでも「暗い未来」は拒否すべき

「とは言っても日本は景気悪化と少子高齢化で没落するばかりだし、「PLAN75」の未来も近いのでは?」という声もあるかも知れません。確かに、ここまで露骨でなくとも「特定の人々の虐殺」をさりげなく行う法整備をこの国ならやりかねないのは事実ですが、そうした暗い未来を拒否するシンプルな方法がたった一つだけあります。「そんなのイヤだ」と拒否することです。

「子どもか!」と言われそうですが、人権に基づいて個人の権利を主張することは幼稚でも何でもなく、むしろ成熟した市民の論理です。我々には憲法で保障された人権があり、生存権があります。国から「死ね」と言われて死んでやる義理も義務も責任もありません。そんなことを言う政治家こそが死ぬべきです。実際の法原則に照らしても、近代法の根源である抵抗権に基づくなら、国家が悪政や不当な虐殺を働く場合は、国民はそれに従わない権利があるのです。

日本国憲法第25条
第1項

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
第2項
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

Wikipedia - 生存権」より
1951年頃の森戸辰男。(Wikipediaより

右翼からは「アメリカの押しつけ憲法」と揶揄される現在の日本国憲法ですが、実は25条の「生存権」の規定はGHQの草案にはありませんでした。別途憲法草案を考えたグループである「憲法研究会」に所属していた社会科学者・森戸辰男の発案であったと言われています。

森戸は戦前にアナキストであるクロポトキンを研究したことで社会的制裁を受けましたが、戦後に有識者として「憲法研究会」に招かれ、その後は衆院議員などを歴任しました。森戸は敗戦下で困窮した人々を見るに見かね、基本的人権の規定とは別に生存権規定が日本には必要だと考えたそうです。倫理も道徳も捨て去り、金のためにはカルト宗教とも手を組むような人々が支配する現代日本ですが、かつての政府には森戸のような思想の人物も確かに存在したのです。

どんなに貧困が広がろうと、経済が駄目になろうと、コミュニティには「譲ってはいけない一線」というものがあると思います。私は「PLAN75」のような未来も、国家による如何なる虐殺も許容しません。こちらの命を不当に奪おうとする相手とは、「議論」する必要も感じません。そんなものが未来であってたまるか、おとといきやがれ、と言ってやりたいところです。

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