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今川焼き・おやき・回転焼き・大判焼き・御座候などが、地域ごとに違う名前になっているというおんなじ話題で何回も盛り上がることについて

わかったわかった、違いが有るのはもうわかった。それはもういいのだ。


はじめに 問題の所在

今川焼き・おやき・回転焼き・大判焼き・御座候などと呼ばれる食べ物については、諸賢が充分にご存知の通りその名前が地域によって様々になっていることが頻繁に話題になる。

個人的にはもういい加減その話はいいだろ、という気持ちだ。

例えば中学生とか高校生の時にこのことに初めて触れたのであれば、とても新鮮な気持ちになる。それは否定はできないし、するべきではない。

また私自身がそうだったのだが、たくさんの地域から集まってくる大学一年生の時などは、基礎クラスでの初期の話題にこの食べものの呼び名は格好の素材になった。これでみんなの出身地域を知りつつ、これをきっかけに談話して次第に親しくなっていける。

これらの、今川焼き・おやき・回転焼き・大判焼き・御座候などと呼ばれる食べ物の持つ名前の多様性の魅力は否定はしない。

ところがなぁ。

大人になっても何回もインターネットとかテレビとかでおんなじ話を繰り返すんじゃあないという話だ。なんでおんなじ話毎回するのか。そして毎回こんなに違いがありまぁす!! こんな呼び名がありまぁああっす!! この地域はこうですぅぅう!! みたいなアホみたいに同じ結論というか同じ到着点に至って、何かを成し遂げた気になって終わる。

人生それでいいのか? という疑問が湧いてくる。

なんつーか、塩を舐める。初めて舐めた時これしょっぱいなぁ!! と思うわけだ。大人になってからまた塩を舐める。ウォオン! しょっぱいなあ!! と思う。また次の年に塩を舐める。おおおおお! しょっぱいなぁと思う。来年もなめてしょっぱいと思う。

これは若干間抜けだ。

私たちは実は今川焼き・おやき・回転焼き・大判焼き・御座候などと呼ばれる食べ物の呼び方について、この塩を舐めてしょっぱいと毎回確認するかのような間抜けな反応をしてやいないだろうか?

それでは、私たちは今川焼き・おやき・回転焼き・大判焼き・御座候などと呼ばれる食べ物について、どのようにすれば如上の軛木から逃れられるのだろうか。今日はみんなとそのことについて考えてみたい。

「なぜ?」を問う

簡単な、すぐにできる方法がある。なぜ呼び方が違うのか。これを考えることだ。呼び名が違うということは十分に分かった。それはもういい。

じゃあ、なぜ呼び名が違うのか。これを考えてみると少しは人生楽しめるのではないかという話になるわけだ。

個人的には、「非流通性」と「同質性」との二つの軸でこの現象が起こっているように思う。以下詳論しよう。

「今川焼き・おやき・回転焼き・大判焼き・御座候」などをめぐる非流通性

なぜ今川焼き・おやき・回転焼き・大判焼き・御座候などと呼ばれる食物が言語的統一を果たせないザコ信長みたいな状態になっているのか。

一つの理由として、おやき(北海道出身なので以降の行論はおやきでいくぞ)が他地域に流通しないという性質が影響しているのではないか。

例えば、米や金や銀は他地域に持っていく。蚕種や生糸でもいい。昆布とか塩でもタバコでもよい。酒でもいいかな。あるいは株式などの金融商品で想像しても良いだろう。つまり、他の地域に商品として流通しうるモノがある。これらは言語的に統一されやすい。なぜなら地域ごとに呼び名が違っていてしまっては交易に不便だからだ。

おやきにはその性質はあるだろうか。ない。全然ない。

おやきは地産地消キャラだ。地域のおやき屋の婆さんが焼いたモノが、ほとんど確実に地域で消費される。他地域に流通・融通される契機を生まない。そのため地域内での呼び名が生き残りやすいのではないか。

「今川焼き・おやき・回転焼き・大判焼き・御座候」などの同質性

おやきを焼く型は決まった形があり、あれさえ持っていればどの地域でもお店を開き焼くことができる。そのため資本力が僅少な人々でもその地域で始められたのだそうだ。

ということで、出来上がるモノはほとんど変わらない。あとはそれぞれのお店で何を入れたりとか外側のところの味を変えたりとかの工夫次第になる。

ところで、北海道の有名お土産に「白い恋人」がある。お菓子としてはラングドシャというジャンルになるのだろうか。ラングドシャにホワイトチョコを挟んだアレだ。

ご存じの方も多いと思うが、「白い恋人」にはめちゃくちゃライバルが多い。というか、私が北海道民だから「白い恋人」を第一にあげたのだけれども、もしかしたら皆さんのお住まいの地域には「白い恋人」じゃない「白い恋人」があり、そちらの方が知名度を有していいる可能性があるかもしれない。

似たようなモノがありながらも「白い恋人」が「白い恋人」たり得ているのは、味はもちろん、北海道土産という圧倒的なイメージ形成・ブランディングの力に他ならない。アレをみただけで、北海道に行ってきたのだとわかるくらいにお菓子のイメージを固めている。多少似た商品があろうと独自性は全く毀損されない。

おやき(たち)はどうだろうか? そんな強固さは、ない。全然ない。

例えば、北海道でおやきと呼ばれるものを関西に持っていくとする。すると回転焼きとか大判焼きとかみんな呼ぶだろう。「白い恋人」を関西に持っていってもおそらく「白い恋人」は「白い恋人」のままで、他のライバルの呼び名になったりはしない。

ここに、おやき(たち)の均質性をみることができる。

おやきは焼き機がみんなおんなじな上、非お土産的で庶民性・日常性が高く、個別のブランディングが行われにくい食べ物なのだ。そのため、例えば御座候が御座候として越境することは考えにくいし、おやきがおやきとして他所に進出することも考えにくい。

実はおやきたちは名前が違うだけで差別化は図られていないのだ。

おわりに ベイクドモチョチョの発展性のなさ

数年前、SNSなどを中心におやきなどの表記揺れが話題になり、「ベイクドモチョチョ」なる呼び名が生まれて、これを統一用語とするべきというジョークが一世を風靡した。

現在「ベイクドモチョチョ」と統一的に呼ばれていないことから明らかな通り、この試みはたとえジョークであっても失敗に終わっている。

その理由は、本稿で述べてきたこの食べ物の「非流通性」と「均質性」とが影響していることは今更贅言するまでもないだろう。「ベイクドモチョチョ」はインターネットで焼いているという場所が変わっただけのもので、他の呼び名で呼ばれるものと差異はなく均質な商品に過ぎなかったのだ。

この食べ物は、統一的な呼称を構造的に拒んでいる。



蛇足めくが、こうした小さな手工業的商品は、今後グローバル化の中でますます少なくなってくるだろう。

私たちの子供たちの世代がこの食べ物の呼び名でワイワイ楽しめる未来を実現するためには、グローバル化にそぐわないこの商品を、名前の差異だけを楽しむのではなく、その理由・構造自体を楽しみ、そしてなにより地元のばーさんの作るこれを楽しく味わうことが必要なのではないか。

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