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茶碗蒸しはプリンに困っています・・・!
茶碗蒸しは困ってます!
茶碗蒸しが困っている。茶碗蒸しが、困っている。
何に困っているのか。それはプリンに対してである。
一体どうしたのか。なぜ茶碗蒸しはプリンに対し困惑しているのか。
食べる向きが変です!
茶碗蒸しは上から食べる。上から食べていく。茶碗の上の方にある茶碗蒸しから、食べていく。
プリンはどうだろうか。
ブリュレとか食の多様性についてはここではひとまず措く。今コンビニやケーキ屋さんで食べられるカスタードプリンとその子孫についてここでは考えてみよう。
元来プリンは、茶碗蒸しと志を同じうしていた。すなわち、調理の方向性が同じなのだ。なんか中身(コンテンツ)を加熱する。そして固まる。そして食べる。
異なる点は、プリンは最終的にお皿に出すところにある。調理中とは逆さにして食べることになる。
さて。ところが、である。
最近プリンは、ケースに入ったその方向から食べられることが多い。要するにひっくり返さないのだ。
これはひとえに我々人類の大罪の一つ〈怠惰〉によるところが大きい。
我々はめんどくさいのだ。プリンを皿にわざわざ開けて、本来の向きで食べることが、面倒なのだ。
一手間がめんどくさいし、さらにいうと、皿が余計に一つ洗い物に増えるということもめんどくさい。
そこで我々は、いわばプリンのケツの方角から食べ始める。プッチンプリンのぷっちんを用いず、そのまま食べてしまう。モロゾフの瀟洒なビンの奥に空気の層を作って瓶を皿の上で振ってプリンを立たせず、そのまま食べてしまう。
このことに、茶碗蒸しは困っているのだ。
プリンの食べ方が人類の怠惰により逆になり、あたかも茶碗蒸しみたいな食べ方になってしまっている。全く逆なってしまっている。そのために、茶碗蒸しの領空が完全に侵犯されている。
茶碗蒸しは、このことに大層困惑している。
中身についても困ってます!
もうひとつ、茶碗蒸しがプリンに対して抱えている問題があるという。
それは、中身があるかどうかについてだ。
事態はやや錯綜する。
まず茶碗蒸し側の状況を見ると、茶碗蒸しにはほとんどのケースで具が入っている(具なし茶碗蒸しという余地もまた、茶碗蒸しは有していることを付言しておかねばなるまいが)。
一方、プリンはどうか。プリンには具はない。あえて言えばカラメルが具なのだが、カラメルは具っぽくない。カラメルはあくまでプリンの外にある。
さて茶碗蒸しのお困りごとはこの点にある。
茶碗蒸しは具でいい味が出ることが多い。いくつか入っている具を、あの構成物質(茶碗蒸しを占めているあの物質)とともに味わう。
具なしももちろん可能だが、季節や地域の素材を活かした具により多様な展開が可能になっている。構成物質(茶碗蒸しを占めているあの物質)の質の良さ、上品さもまた茶碗蒸しの重要なエッセンスだが、具もまた重役を担うのが茶碗蒸しだ。
ところが、である。
プリンは、具がない。プリンはあくまでほとんどその構成される、あれなんていうんだ? 本体みたいなところが本体なのだ。そこのうまさで決まる。そこのうまさや、硬さで決まる。
もちろんカラメルや生クリームやさくらんぼ(チェリー)やみかんがプリンに添えられることもある。
ところが、である。
それらはプリンの外側にある。あくまで外側からプリンの活躍を支える存在なのだ。
ここに、茶碗蒸しの困惑がある。
あまりにプリンは巨大な存在になりすぎた。コンビニ行ってプリン買うのと茶碗蒸し買うのとでは、その頻度はあまりにも異なる時代になってしまった。
その結果、プリンのように本体が本体の、本体の中に他の具が入っていないプレーンな状態のものをスプーンで掬って食べるのがあまりにも一般的になってしまったのだ。
茶碗蒸しはそうした世情、あるいは社会と言っていいかもしれない、そこにただ困惑しているのである。
おわりに!
茶碗蒸しの悩みは、歴史的な経緯も一因にあるのだろう。元来プディングは茶碗蒸しのようないくつかの素材を煮しめ固めるものだったという。
いつの間にか時代は流れ、カスタードプリンが日本社会を席巻している。
人間はあまりにプリンがあるのが当たり前になってしまい、ついにはプリンを逆から食べ始めた。そしてプリンの内部がプリンしかないのを当然のように思っている。
茶碗蒸しは、そこに「困惑」という感情や表情を以て、鋭い刃を(いやここは鋭いスプーンがより適切かもいしれない)突き立てているのである。