ジェンダーとメンタルヘルスのこと【#2】
やすのさんからバトンを受け取って、引き続き、ジェンダーとメンタルヘルスについて書いていきたいと思います。
やすのさんが、『82年生まれ、キム・ジヨン』というジェンダーを扱った韓国のベストセラー小説を軸に、わたしたちに内在する社会構造の問題がいかに見えにくいのかという点をあげてくださいました。この小説は韓国のみならず、日本でもベストセラーになり話題を呼びました。ただ「キム・ジヨン」を通して描かれたことは、日本でも多くの方が共感したにも関わらず、韓国ほど日本国内においてはジェンダーに関する声はさほど大きくなりません。やすのさんのブログ(項目”日本社会はどうだろう?”)でもその指摘はされています。
そこで今回は、韓国で出版され、日本や台湾初め、計7カ国で訳され話題を呼んだ『僕の狂ったフェミ彼女』を軸に、この変化を滞らせている、声がそもそも大きくなりにくい要因を探るべく、掘り下げてゆきたいと思います。
小説『僕の狂ったフェミ彼女』を通して見える、分断と希望。
主人公・スンジョンが、好きで好きでたまらなかった元彼女との4年ぶりの再会から、すっかりフェミニストに変わった彼女との交際を通して、彼の葛藤や思い、考えていることから、韓国社会における男女の分断や社会構造が見え、それは日本社会においてもどこかで聞いたことのあるような話でもあります。あらすじはこちらから。
物語の中でスンジョンと彼女の関係を通して浮き彫りにされるものは、社会の中にあるジェンダー問題に関して、見えている人と、見えていない人の間にある、認識の大きな溝や分断、性的マイノリティーやフェミニズムに対する偏見です。では、そんな大きな溝、そこで起きる対立による分断に橋をかけることができるのでしょうか。
物語の中で描かれる家父長制に支えられた近代家族という形
まず最初に、この物語を理解するにあたり、ジェンダーについての言葉をまとめてみたいと思います。
ジェンダーとは何か?この言葉の意味は、生物学的な身体の違いではなく、家父長制(もしくは父権社会)の構造を支えるために作られた「社会的・文化的性差」です。
ここで家父長制という言葉が出てきましたが、それは、男性が「長」で女性が「従」という男性の女性に対する支配を可能にする構造です。そのような社会では、男性の方は、女性よりも特権を有する者となり、女性は男性より社会構造の中では、脆弱な立場に置かれます。例えば、女性の参政権。日本は戦前まで、女性の参政権や政治的集会への参加が認められない時代がありました。
誰しも、自分らしさはあると思いますが、そんな自分らしさの中に、男っぽい側面、女っぽい側面、男女関係なく本来はそれぞれ入り混じっているのが現実です(その混じり合いは個人によっても違う)。しかし家父長制の下では、生物学的でいう性に生まれれば、自然的に「男性らしさ」「女性らしさ」を持つものとみなされ、「性役割」がはっきりと分かれて社会構造や現代家族の形が作られてゆきました。その役割自体が、女性を「従属」する位置に置くような構造です。それに合うように作られた枠組みとも言えるでしょう。
例えば、女性の方が家事や育児は向いているという考えや、男性は世帯を持って一人前(一家の長=経済を担うもの)という思考。実際には、男性でも女性でも家事・育児に向き不向きは個人差ではあるはずですが、性によって分けられます。これがバイナリー(2極)的な思考です。
このようなバイナリー思考は、科学の世界でも今まで長年ありました。それは今もネットを検索すれば、男性脳や女性脳を分けるような記述があちこちに見受けられ、それによって女性の性に生まれれば女性の役割、男性の性に生まれれば男性の役割が固定されてゆきます。ちなみに最新の脳科学の研究では、はっきりと分けられるような差異はないことが明らかになってきています。
そのような構造で成り立つ社会で実際に生活する私たちは、男性に生まれたからといって、女性に生まれたからといって、抑圧したり、されたりしているとは日々実感しながら過ごしているわけではありません。しかし、そんな日常の中に暗黙のバイアス(もしくは無意識のバイアス)は潜んでいるのです。
物語の中で繰り広げられるスンジョンの独り言、またスンジョンの家族や父方の親戚の集まり、そして友達との会話から、社会における家父長制を支える近代家族のあるべき姿、そして男性/女性のあるべき姿と抑圧構造が、登場人物の無意識のバイアスを通して、さまざま浮かび上がってきます。(無意識バイアスほか、よく言われるのは、顕在的・意識的な、Explicit バイアスと言って”見えるもの”があります。こちらは例えば、セクハラ、賃金の格差などです)
構造から抜け出せるのか?
やすのさんのブログでもありますが、世の中では、このような構造を変えてゆくために、ジェンダーフリーという考え方が生まれ、現在はバイナリー(2極)思考ではなく、ノンバイナリーの見方が広がってきています。
このジェンダーフリーは「男らしさ」「女らしさ」を否定するものではありません。誰の中にも男性的・女性的なものは存在します。それ自体は悪くないのです。しかし、バイナリー的な思考で男女が分けられ、かつ誰かが、なんらかの制限、抑圧、差別を受けてしまう、そのような構造が問題なのです。
スンジョンと彼女の間には、認識や理解を共有できない大きな溝が存在します。社会の中で脆弱な立場にいる彼女の経験している(してきた)ことへのスンジョンの反応や言葉、眼差し、また男友達との会話と、フェミニストへのレッテルや偏見的な見方を見ると、いかにこの構造が人々の心に深く浸透しているのかがよく見えます。
社会の問題なのか個人の問題なのか?
「フェミニズム」や「ジェンダー」というと、女性問題だと思う人は多くいるかもしれません。しかしこれは本当に女性だけの問題なのでしょうか?物語の中から、それは決して彼女の、また女性だけの問題ではないことが見えてきます。
物語の中でスンジョンは、時々、ふと様々な疑問が浮かびます。またスンジュン自身も、彼女の女の生きづらさを聞けば、男だって生きづらいんだ、と思うのです。実際、そのような男性の生きづらさは、物語のあちこちで垣間見ることができます。
スンジョンはフェミニストたちのいうことに、『韓国に生まれた男というだけでこんなに罵られるとは』と、怒りが自分個人に向けられているような気がして、イライラする様子があります。スンジョンは性暴力だってしたことはないし、女の子に手をあげることもしていません。その上、デート代もはらい、女の子を家にもちゃんと送ってあげたいと思う優しさもあります。そこで垣間見えるのは、スンジョン自身が男性の「役割」を、当然の事として、全うしようとする姿です。自分が心から本当にしたいと思ってしているのか?それともどこかで男性だからそうするべきだと思っているのか?後者であれば、そこから生まれるイラつき、何が不満なんだよ!という男性の叫びも理解できます。そんなスンジョンに彼女は「頼んでないよ」とバッサリ。
彼女は4年前とは変わってしまいました。以前は「女の子らしく、気遣いができて優しく包んでくれた」彼女。今では言葉遣いも悪く、デモ集会に出て怒っているし、セックスだって男性を時にはリードし、タバコを吸うような、フェミニストになってしまいました。ではそんな彼女に問題があるのでしょうか?なぜ彼女は変わったのだろうか?
社会構造というのは、今私たちが一人一人が支えているから存続しているシステムです。そのような視点からいくと、誰かの問題ではなくて、実は誰もが当事者ではないでしょうか。彼女も生きづらい。スンジョンも生きづらい。みんながどこかで生きづらい。
個人が感じている生きづらさは、その個人特有の問題ではなく、社会そのものの不具合から個人に影響していることがあります。しかし、その社会の課題を、個人の問題とする傾向にあり、そして実際に、全体の不具合は、社会の中でより脆弱な個人に「生きづらさ」の問題となって現れることがよくあります。それが個人のメンタルヘルスに深く関わってくるのです。
ちなみに日本の小説「定年オヤジ改造計画」(垣谷美雨著)は、日本の定年を迎えた夫婦間の溝を、メンタルヘルスや夫婦間問題と絡めて、とても上手く表現している小説となっています。
思考停止状態
スンジョンは、彼女がなぜ4年前とは変わってしまって、なぜこんなに怒っているのかをさほど考えていません。また結婚に対するプレッシャーはじめ、スンジョン自身、社会で男であることでの生きづらさ感じているにも関わらず、世の中とはそんなものだろうと、それ以上、考えようともしません。
またこのレールから外れることできるのかどうか、そもそも外れたいと思っているのか、ふと考えるのですが、やっぱりそれ以上考えないようにするスンジョン。男友達の結婚した理由でさえも、思考停止状態に陥っているかのような言葉なのです。この思考停止が物語のあちこちに見られ、ここにスンジョンや他男性の心の中に、家父長制からなる社会構造が深く入り込み、問題の本質には目を向けさせないという心の動きが見てとれます。
みなさんは「フェミニズム」という言葉を目にした時、どのような感覚が生まれるでしょうか?どんな感覚が来たとしても、まずは一歩進んで、「フェミニズム」がどういうものなのかを知ることをお勧めします。そして暴力とは何か?暴力の影響も知る事は必要でしょう。
物語の終わりに垣間見える希望
スンジュンも彼女も、(特に彼女の方は)二人は合わないとわかりつつも、そこに存在する結びつきから、4年ぶりに再会したときに、再度付き合うことになります。そして彼女との時間を通してスンジョンが体験したことは、ちゃんと彼の心の中に種となって残っています。そんな希望を微かに匂わせつつ・・・この物語は終わります。
心では結びつきも感じているスンジョンと彼女ですが、社会の見え方が全く違い、それによって価値観や生き方さえも全く合いません。心のどこかでは、もしかして相手はわかってくれるかも、理解してくれるのではないか?そんな想いも感じられます。ただ方向性が全く違うのです。そんな二人は、それでもいつか溝や違いを超えたところで繋がることができるのでしょうか?
ここで、この違いを超えるためにできること、3つの大事な点を上げてみたいと思います。
1) 「私」は「あなた」はどう感じているのか? 〜感じること〜
ここで皆さんに問いかけたいことがあります。
この物語に出てくるスンジョンや彼女をあなたはどう感じたでしょうか?
またスンジョンを取り巻く周囲については何を思いましたか?
スンジョンと彼女の二人の会話から沸き起こるもの、感じたことはありますか?
この本を読んで感じたその感覚こそが、私たちの中にある、この分断や溝に対する反応で、体験です。
2)自分が望む人生とは何か? 〜考えること〜
違いを乗り越えてゆくために大事なのは、女性・男性である前に、自分とは何者か?何を望んでいるのかを知ることではないでしょうか。
本当に自分がやりたいことは何か?
それは、男/女としてやるべきだと考えての行動なのか?
今の自分の真の欲求や気持ちを知ること。自分のYesと同時にNoも大切にする事。暴力にはNoです。そしてもう一度、自分の道を意識的に選択するということは大切だと思います。それはスンジョンの彼女がかつてしたように。
3)社会構造・バイアス・特権とは何か 〜知ること〜
誰しもが、心地悪いものを避けたい気持ちは持っているものです。そしてこの社会構造の中で生きてきた私たちの中には、暗黙のバイアスもあるのが普通です。それだけ根深い問題だということです。ですので、現状を理解するために、思考停止に陥る自分に気づき、不快感に気づいたら、今までいたコンフォートゾーンから一歩出てみましょう。そしてまずは知ること、知識を得ることです。
そしてSNS上ではなく、人の噂でもなく、ニュースでもなく、リアルな個人を知ることも、とても大事だと思います。自分自身に問いたように、相手のことも、彼/彼女は誰なのか?どんなことを感じて、何を想い、何を望んでいるのか?というように、リアルにいる目の前の相手の訴えに耳を傾けることはとても大切です。それが不可能な場合は、ドキュメンタリー映画やフィクションの書籍(ルポなど)をお勧めします。
相手や自分の中に、生きづらさを見たのであれば、その個人、家族や社会を取り巻く全体や、その構造についてもっと知ることはとても大事です。個と全体の繋がりを見渡せる目線を養いましょう。
以上、なぜ私たちはこのような気持ちになるのかを感じてみる。そこから本当は自分はどうどうしたいのか?を探求すること(自分を知る)。知らないことや疑問があれば、思考停止に落ちいらず、最初の1に戻り、感じて、自分を明らかにし、知るという探求を続けること。
最後に、そんなそれぞれの気づきや感じていること、そして学びを、誰かと共有し、対話し続けることができた時、あなたも私も一緒に、さまざまな人が住みやすい社会を、また新しい文化を作って行けるのです。
バトンタッチ
今回は前回に引き続き、韓国の小説を軸に、何が私たちを分断しているのか、またその分断を超えて繋がるにはどうしたら良いのかを考えてみました。あらためて、社会構造を理解する上で、フェミニズムは本当にさまざまな視点をくれます。すなわち無視できない学問です。ここを理解すると、ジェンダー以外の、多様性に関わること、差別問題、ありとあらゆる社会問題が、より可視化することができ、理解が深まります。
分断を超えて繋がる過程には、やはり社会的に不利益を受けている側からの「声」があると思います。そして、その声が何度も上がっているにもかかわらず、理解されない、真剣に取り合ってもらえない、黙らされたりすれば、人間なので、怒りは当然出てきます。また怒りの下にはさまざまな感情が積み重なっています(無力感、恥、悲しみetc..)。それでも聞いてもらえなければ、無力感になり、言わない方がいいね・・・・いや言えるような雰囲気ではない・・と感じてしまうのは普通です。それは、例えば赤ちゃんが、泣いて泣いて泣き続けても、誰にもその気持ちを受け止めてもらわなければ、いつしか泣かなくなる、そのような心理状況と同じです。このような抑圧はさまざまな形で個人のメンタルヘルスに影響を与えます。
日本の、また世界のジェンダー問題、本当に数々あるのですが、具体的にどんな問題があり、また今までどんな取り組みがあったのか。そんなことも含めて、世界の・日本のジェンダー問題について、あらためて、やすのさんのさんの気になっていることも聞いてみたいと思います!
筆者:加藤夕貴
参照:
ミン・ジヒョン (2022) 僕の狂ったフェミ彼女 イーストプレス
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ (2017) 男も女もみんなフェミニストでなきゃ 河出書房新社
ダフナ・ジョエル & ルバ・ヴィハンスキ (2021) ジェンダーと脳 -性別を超える脳の多様性- 紀伊國屋書店