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【エッセイ】『ASD引きニートnoter』のモーニングルーティン~早すぎる朝と障害と私という人間~

AM3:00。
ASD引きニートnoterの私が起床する時間だ。

いや、早いにも程があるやんけ。

まだ夜の域だ。

なぜかnoteを始めてから睡眠サイクルがぶっ壊れた。
寝つきの悪さと中途、早期覚醒が目立つ。

noteは楽しい。
誰も気にも留めなかった引きこもりの戯言が、指先一つで世界に発信される。
そして、多くの人と簡単に繋がれる。

投稿すればすぐにコメントがつく。

「無理しないでね。」
「応援しています。」
「癒されました。」

でも、自分を信じてやれない私はその優しさに縋ってしまう。
自分の価値を他人に委ね、必要以上に求めてしまう。

温かく聡明な人が多いnoteというこの街は一瞬で私の心を掴んだ。
ずぶずぶと底なし沼に落ちていく感覚は、もはや依存と言っていいのだろう。

だから私は辞められなくなってしまった。
今だ、発信する恐怖を克服できずにいても。

恐怖なのか楽しさなのか緊張なのかよく分からない感情は、必要以上に私を興奮させ安眠から引きはがす。

そんな中、朝起きて一番にすること。
それは「相棒」を傍に引き寄せることだ。

密に毛が生えたこいつは一切、動かないし声も発しない。
でも、それでも。
私の心の支えになってきたのだ。

私の精神安定を担ってくれる大事な存在に「おはよう。」を言う。
その毛並みを撫でてやる。

相棒を頭に乗せたりして、朝起きた瞬間から押し寄せる不安を和らげた後、私はベッドから抜け出す。

父が買ってくれた中古のノートパソコンを立ち上げ、noteにログインする。
想いの丈を文章にぶつけ始まると、あっという間に時間が過ぎる。

2、3時間なんかすぐに経ち、日が昇った直後、私はクワガタ採集に繰り出す。

夏の朝の清々しい空気は、いつだってあの夏の日の思い出を連れてきてくれる。これだから夏がスキなんだ。

中学の時、祖母に買ってもらったきこきこと悲鳴を上げる自転車を漕いで、目的地の公園まで行く。

クワガタ採集には午後8時から午後10時、あるいはまだ暗い明け方が向いていて、場所も私が向かっている木が数本しか生えていない公園などではなく、クヌギやコナラ、ヤナギなどがたくさん生えている山や森などの方が適しているのだが、1人で暗い時間、うろつく勇気が無いのでこうして日が昇った直後の明け方に行くことが多かった。

いつか信頼できるクワガタ仲間を見つけて、夜の山に繰り出したいものだ。

目的地の公園に着いて自転車から降りようとした時、どんくさい私はペダルに足を引っかけて盛大に転んだ。
静かな公園に自転車が倒れる音が寒々しく響く。
昔、同じようにこさえた傷は10年以上たった今でも足に残っている。

私がよく周囲の人から危なっかしい、放っておけないと言われるのはこういうところなのだろうか?

私は恥ずかしさに耐えつつ周囲をさっと見まわし、誰にも見られていなかったことを確認した後、しれっと何事もなかったかのように自転車を起こした。

極度の方向音痴、絶望的な運動神経、危機管理能力の低さがそう言わせるのかもしれない。

膝から滲む血をぼんやりと眺めながらそんなことを思った。

この日はカブトムシとノコギリクワガタ合わせて数匹が捕れた。
この時間、この公園ではこの成果が限度だ。
記念の写真撮影とサイズ測定をしてリリースしてやる。

気に入る個体と出会えたら持ち帰って飼育してもいいのだけれど、家族があまりよく思わないものだから(多分、匂いとか虫が湧くことのせい)基本的にはリリースしている。

でも今年は自室に空になった水槽があるから、「クワガタテラリウム」なんてのを作ってみてもいいかなとか思いながら帰途につく。

食事の前にまずは歯を磨く。(手はもちろん洗った。)
何事もやりすぎてしまう白黒思考の私は「ほどほど」が難しくて意図せず身体を傷つけてしまうことが多くある。

歯医者では磨きすぎで歯と歯茎が傷ついていると言われたし、手は洗いすぎで皮が剥けているし、ちょっとお恥ずかしい話し耳掃除をしていたときに綿棒がひたひたになるほど出血したこともあった。(血が垂れてこないように耳を塞いで無かったことにした。)

守っているつもりで傷つけている。
大切にしているつもりで粗末にしている。

心に関しても同じことが言える私。

身体に悪いところなんてひとつもないのに、
「大丈夫? 今、体調大丈夫? 」
と自分自身に何度も確認してしまう。

「守らなきゃ、この危険な世界から自分を保護しなきゃ」って半ば強迫観念に近い思考から自分を過保護にしすぎる。

こういったことから体調を崩してしまう。
自分の心を苦しめてしまう。

そんな過度な慎重さを持ち合わせつつも、危険を顧みず縦横無尽に行動する大胆さもある私はなんだかよく分からない人間だ。

余計なことを考えすぎて、脳がバグってしまったのだろうか。

周りからも「慎重で怖がりで心配性の癖に、なんで用もなく深夜に人通りのない道をふらふら歩いていたり、知らない人について行ったりするの? 」

と危機管理能力の低さと統制のとれていない行動を指摘されることがよくある。

おっと。こんな話しをしていたらまた歯を磨きすぎてしまった。

口をすすいで朝食にする。

私の朝食は巨大なおにぎりか、やたらとご飯の多いお茶漬けかの2択だ。
ASD特性のひとつである感覚鈍麻がある私はイマイチ空腹感を認識しづらく、食べ始めてからお腹が空いていたことに気が付くことが多い。

そして一気に多量の食事を摂り胃腸を悪くするまでがテンプレだ。

朝食後は洗濯やら掃除やら家事を済ませた後、またnoteを訪れる。
noteではずっと自分の「スキ」を大事にしてきたのだけれど、そのおかげかいつのまにか私生活でも自分のスキという想いや感情を大事にできるようになっていた。

その結果、noteでたくさんの温かい人たちに出会えたのはもちろんのこと、以下のようにnote外での生活までもが熱を帯び始めた。

温かい人たちと繋がれた。
私を受け入れてくれる居場所が見つかった。

今日なんてほら、「今までとてつもない努力をされてこられたのですね。」とリアルで初めて私の努力を認めてもらえた。

「よづきさんがお越し下さるのをお待ちしています。」と居場所を提供してくれて且つ私のペースを尊重してくれる人とも出会えた。

「周りの優しさに甘えていいんですよ。」
私と同じ境遇に苦しんできたにも関わらず、そんな風に言って微笑んでくれた人もいた。

これまではずっとずっと、誤解ばっかの人生に苦しんできた。

「ふざけている。」
「甘えている。」
「やる気がない。」

そんな一言で私の努力はないがしろにされてきた。
この障害は、この私は、すぐに誤解を招いてしまう。

「ダメで元々。分かり合えないのなら仕方がない。」

そう割り切ってきたのだけれど、やっぱり認めてもらえない、理解してもらえないことは苦しかった。

障害と共に生きてきた人生と自分自身を否定されているようで、生きていることに疑問を抱く瞬間もあった。

でも20年以上生きてきた今、やっと理解を得られるようになりつつあり、無理解の孤独から解放されたんだ。

それもこれもnoteが自分のスキを大事にすることを教えてくれたからだ。

自分が心地いい環境を求め続けてきた結果がこの温かい世界だった。

精神疾患や発達障害、孤独のせいで心ひとつが晴れなくて、苦しんでいたあの頃の私に言いたい。

大丈夫。歩みはゆっくりで遠回りだけれど、未来の私は幸せに生きているよって。

この恐怖も障害も私の1部だ。
もう今更、否定も拒絶も無視もしない。

外が、人間が、自分自身が怖いけれど。
だけど、それでも。

「行ってきます。」

私は重たい荷物を抱え、力いっぱい玄関ドアを押し開ける。
温かい人と居場所を求め、社会に飛び出していくその背を押すかのように夏風が私を追いかけた。


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最後までお読みいただきありがとうございました。
よづきでした。

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よづき|ASD不安障害の物書き
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