短編小説【ウラとオモテシリーズ】「夢の続きは…・オモテ編」
「610号室は…この廊下か」
病院は走ってだめと頭で分かっていても、どうも身体は言うことを聞いてくれない。
君のもとに、すぐ駆けつけたい想いは目的の病室に近づく毎に昂ぶってくる。だが、今は感情を抑えるんだ。
頭がもやもやしている中、早足で歩いていると、”610号室”と書かれた壁に突き出たプレートが見えた。
「ここか…」
病室前の扉の横には”織部冬子”と表札が掲げてあるのを確認する。
僕は、息を整えるが、やっぱり不安で一杯なため溜息を付く。
そして何かを決心した面持ちで扉を開ける。
扉を開けると、冬子がベッドの上で文庫本を読んでいる。紙のブックカバーを巻いていて、表紙は確認できなかったが、ブックカバーを見る限り、何回も読んでいるのかボロボロのようだ。
冬子、驚いた表情で、
「え?え?来てくれたの?雪大」
ベッドに近づきながら歩く日下部。
「そりゃ、入院したと聞いたしね。具合は大丈夫なの?」
「ははは。検査入院みたいなものだから、大丈夫。少し数値が高くなって、親が勝手に入院させただけだけ。当の本人は、病院食を何杯でもおかわりできるぐらい元気元気」
冬子は笑顔で取り繕っているが、肌がカサついており、無理しているなと見て取れた。ダボついた病院服で隠れているが、身体も細くなっているだろう。
「うわぁ、このままでは検査項目が増えそうだね」
「冗談よ、冗談」
僕はずっと冬子を見下げていることに気づき、パイプ椅子にそっと腰掛ける。
「あっそういえば、なんでノックしないかな、女の子の部屋だよ?」
「いや、今まで女性の部屋に入る機会がなかったし、それに君との関係なら、なんか、どうでもいいかなって思ったね」
「あーバカにしているでしょう。ごっごだといえノックしないのはダメだよ。恋人同士でも礼儀正しく、それが普通だよ。それが守れないなら小説のネタ作りの手伝いしてあげないよ」
「ごめんごめん」
「もう、真剣に謝っていない」
「申し訳ございません、今後も手伝ってください」
「よろしい」
僕は頭を上げ、
「お願いした後に言うのもあれだけど、入院しているなら手伝えないと思うが?」
と疑問をぶつけたが、冬子は人差し指を横に揺らし、チッチッチッと言い、
「入院中でも恋人らしいことはできるよ、例えば…」
「例えば?」
「それは自分で考えるの」
僕は腕を組んで頭から湯気が出るのではないかと思うほど、悩む。
考えていると、ふと思い出したようにリュックからゼリーを取り出す。
「そういえばお土産でゼリー持ってきたんだ。これをね…食べさせてあげる」
「それはグッドアイディア、恋人っぽい。あれでも、この状況だと介護っぽいかな?まぁいいか」
冬子は不意に笑い、その表情を見て、胸がキュッと締め付けられた。
「やっぱり、さっきの提案なしではだめかな?」
「はいはい逃げない逃げない。まぁ試して見ようよ、体験体験」
僕は諦め、取り出したゼリーのビニールの蓋を指で開ける。
「そうだね、やってみるか。スプーンは?」
「スプーンはここ」
冬子からスプーンを受け取る。
スプーンでゼリーを掬い、冬子の口元にゆっくり持っていく。
「おっ、なんか恥ずかしくなってきたな」
そう言って冬子は多少赤面していたが、目を閉じ大きく口を開け、ゼリーをパクンと食べる。
「うーん、今まで食べた中で一番おいしい」
「大げさだよ」
僕と冬子は少しの間笑い合っていた。
ふと窓の外を見ると、空が橙色に焼けていた。僕は椅子から立ち上がる。
「長居し過ぎた。じゃ…また来るね」
「おう、またね」
冬子は笑顔で手を振ってくる。
僕はそれに返すように手を振り、扉の方へ足を運ぶ。
扉の取っ手を掴むと、背後から冬子の声が耳に響いた。
「あっ…ちょっと待って」
僕は突然声をかけられて、驚き、顔で振り向く。
「どうしたの?」
「んとね…ちょっと…ね」
冬子は言葉に詰まっている。
「んーど忘れが酷くなってきたな…ごめんごめん、引き止めて。また思い出すよ」
冬子はど忘れって言ったが、恐らく違うと思う。だが、それ以上追求する勇気は僕にはなかった。
「そう…じゃ、お大事に」
「うん、ありがとう。またね」
改めて手を振り、部屋を出ていく。
原稿用紙を丸めて、壁に投げつける。僕の部屋の床に足の踏み場もなく丸められた原稿用紙がぎっしり転がっている。
机には白紙の原稿用紙があり、それをボーっと見つめている。
冬子のお見舞いに行って、一週間経つな。あの日から冬この言葉を聞くの怖くて会いに行けていない。
僕は机に突っ伏して、目を閉じる。
すると、机の上の隅に置かれたスマホが震えだす。
スマホを手に取り、スマホ画面には”090-…”と表示されるのを見て、首を傾げる。
「知らない番号だ」
恐る恐るスマホを耳に当てる。
「もしもし」
「初めまして、冬子の母です…」
涙ぐんだ女性の声がスマホから耳に響いた。
院内は走ってはいけないのはわかっているが、今回ばかりは無理な話。息を切らし、病室まで全速力で走る。
肩で息をし、病室の前に着くと、刹那に病室に入るのに躊躇ったが決心し、扉を開ける。
病室に入ると心電計の音と僕の荒い息遣いが静かな部屋に響き渡る。
冬子は酸素マスク付けてベッドに横たわっている。その傍らで手を握って静かに寄り添っている女性がいる。
女性が僕に気付き、ゆっくり顔を向ける。今でも崩れ落ちそうな表情だ。
「あなたが日下部さんですか?」
「あっ、はい、日下部です」
「初めまして、冬子の母です」
「ど、どうも、初めまして」
冬子のお母さんがゆっくりと近づいてき、僕の手をそっと握り、涙ぐんだ顔で頭を何度も下げながら、僕に語りかけてくる。
「冬子のためにありがとうございます」
「いえいえ、お礼を言われるようなことは…」
「そんなことはありません…先程お伝えしましたが、容態が悪化して、もう長くありません」
「…お察しします」
「こんな状況で申し訳ございません。あの子の最後の願いを聞いていただけないでしょうか?」
「…なんでしょうか?」
「あの子の側に最後まで寄り添っていてくれませんか?」
「…僕で良ければ…」
「ありがとうございます。ありがとうございます。」
冬子のお母さんは涙を拭い、深くお辞儀をし、病室を出て行く。
僕は冬子のお母さんが座っていたパイプ椅子に静かに腰を下ろす。
僕に気づいたのか、冬子は重い瞼を開け、目を覚ます。
「やぁ、マイダーリン」
か細く、酸素マスク越しの籠もった声が僕の耳に響く。
「冗談を言える余裕はあるみたいだね」
「少しは付き合ってくれてもいいんじゃない」
「そうだね…ねぇ、どうして僕なんだい?お母さんに最後まで寄り添って貰えばいいと思うが」
「どうしても、あなたの顔が浮かんだんだ。短かったけどあなたと過ごした風景が…あなたと過ごした毎日は私には残らないけど、寂しくはない、私は満足です。でも…心残りは完成した小説が見えないことかな」
「まだ小説は書き終わっていないが、前と違って筆が走るんだ。冬子との色んな体験のお陰かな」
「よかった…なら完成はもうすぐかな?」
冬子の手を布団から探し出し、両手でギュッと握る。
「じ、実は嘘なんだ。全然、筆が走らない…寧ろ止まっている」
「どうして?」
「冬子のことばかりのことを考えて手に付かない。冬子とはごっこと貫いていたのに、どうしても…やっぱり、自分の気持ちには嘘は付けない…どう考えてもごっごで済ましたくない、冬子が好きだ」
すると、冬子は酸素マスクを取り、無理に体を起こそうとする。
「そ、それは駄目だ…」
起きようとする冬子を止めようとする。
「ちょ、ちょっと、身体に障るよ」
「言ったでしょ、これはごっこだって。私のことを好きになったら、辛いだけだよ…あなたにはあなたの世界で生きて…これまでもこれからも私は夢の中の存在で十分なんだから…」
僕は涙を流し、力強く冬子を抱きしめる。
冬子は弱々しく、僕の背中に手を回し、抱きしめる。
「夢の続きは…」
目を開けると、視野一杯に原稿用紙が映り込んでくる。
僕は机で寝ていたようだ。
白紙だったはずの原稿用紙には僕の字ではない綺麗な字で書き埋め尽くされている。
それを見ると、僕の目から何かが頬を伝っていくことに気づく。
手で拭うと、涙だと理解した。
※「夢の続きは…・ウラ編」は上記のページに飛んでいただければと存じます。
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