「音楽」「音楽教育」とは。音楽によって育つものとは―音楽講師として、セラピストとして、白杖使用者としても?思うこと

音楽の授業や個人音楽レッスンで、幼少期に、「音楽」がとても嫌いになってしまうという人や、結果的に先生がその子の段階に合わない教え方をしていたりその子に(その子の発達段階やその時の心身状態では)受け止めきれないような言動行動をしてトラウマを埋め込まれてしまい、おとなになってからなぜか人前で声を出したり演奏したり発表するということがうまくいかなくなる、などという人が大変多い。

後者の「トラウマ」のほうは、今回は置いておこうと思う。
とある発信で、音楽が嫌いになった要素の大きなひとつとして、「幼少期に先生の弾いた音を当てなければならないというレッスン方法でわからなくて音楽が大嫌いになった」という発言を見かけた。
「無理やり音当てゲームをさせられてドなんだかレなんだかわからない、どれもドだろう。何が違うんだ!どうして音を聞いているだけで先生が勝手に合ってる間違っていると断じるのだ」と、音楽が怖くなったかたも、多いだろうと思う。


現代日本社会における音楽教育は、音楽(音を楽しむ…、そして実はこれこそ数学・哲学である学問)ですらそうやって、耳に聞かせ頭(概念)に答えさせようとする傾向が主流となってしまっている。

「ド」や「レ」はヒトに作られた「概念」であり、更にいえば「とある条件下にあるときのみに<名づけられている>もの」であるから、もしそれを伝えるのならば、その概念を理解させてその上でその概念(条件とその条件下での名前)がわかる年齢になってからでなければ、子どもに答えられるわけがない。
(先にひとつ言ってしまえば、身体=潜在意識全開でまだまだ生きている子供にとっては、音というのは、例え大人にとって同じドであっても、ピアノの音とフルートの音では出ている周波数は違うし、学校のピアノと家のピアノだって違う。逆に言えば、意識化言語化するより前に、身体はそれらの細かい違いまでわかっている感じているのだ。それを先生側が感じてやれずに先生自身の頭の中だけのテンプレートで正誤を押し付ければ、何が正しくて何が誤りなのかわからないまま、それらの違いや機微を感じる感覚、ひいてはドかソかを聴き分ける力すら逆に麻痺させていく。それどころか、社会や人生の哲学的倫理的道徳的部分でまで、身体そのものの感覚を麻痺させてしまうので、根源的正誤や道理がわからなくなっていく。)


そして、その「概念」を伝承するためにも、何にせよまず必要となるのが、本来こういう「音あてゲーム」や「聴音」の目的である「音を聞き、聴き分ける」という能力。

だがこれは、前述した通り、「耳」「頭(概念)」に押し付けようとしても逆に「音あてゲーム」の意味がない。
「ド」か「レ」かというより、音そのものの周波数(音程の違いは周波数である)、つまり高いか低いか感じとるのは、「耳(脳)」でなく、まず「身体」。身体感覚。

これを育てることが段階的に一番先。

お子さんに「身体」で音を感じさせるワークとレッスンをすると、いや、大人でもそうだな。身体がなぜか音を感じ取っていることでまさに先生が弾いている音の名前が口から出てくるようになる上、副次的に日常や世界に対して感じている感覚が一気に広がる。

頭と心と身体がそこから繋がっていくという大事なヒトの心身としての成長の作業もできる。

「身体で感じる」「身体(そのもの)で聴く」そういうやりかたをせねば、「音楽」「音当て」に何の意味もなくなってしまう!

その上特に、現代日本人はそもそも幼少期日常からして心と身体が繋がる作業を必要な発達段階でおこなってきていない。
だからこそなおさら音楽教育者にはこの役割の必要性が大きくなっているのだが!!


音楽とは、音を楽しむと書く。
「楽しむ」という感覚も、実は頭(脳、概念)で認識するものではなく、それ以前のたくさんの段階で全身において縦横無尽どこまでも広がって、まあとにかく「身体」の感覚である。

それを、その「楽しむ」というものからして、そもそも現代人は「脳と概念の部分だけでしか」処理しなくなっている人がほとんどになってしまっている。
だから、「楽しむ」身体本来の感覚を教えることそのものである「音楽」を教える人たちも、身体で実はその子が聞こえている音を(本人に感じていること自体に気付かせることを)完全無視し、寧ろその子自身もまだ自覚に至らないけれど実は確かに感じているから「これは何?」となっているものを、言語と概念で叩き潰し抑えつけ、寧ろ逆にどんどん感じられないよう自分で自分を麻痺させるよう教育してしまっているという現状が起こる。
そもそもそれ以前に、「音」というものの仕組みや「音程」の正体すらちゃんと知らずに先生自身が「テンプレート」として表面的に名前だけ覚えてしまっている、本質を知りもせずに教えてしまっている場合すら多いのかもしれない。

私は、「音楽」というものは、すべての学問があわさったもの(同様に他の学問もそうなのだが)であるから音楽自体のみならず他の学問を理解しやすくなるものでもあるし、それによってすべてが繋がるからすべての「本質」を伝えることのできるものでもあるし、「音楽」を教えることによって、人生自体が豊かになる、つまり音楽のレッスンを通して人生の可能性や視野を広げ、自分の心身の感覚を自分自身でしっかりと受け取り捉えることができるようになり、あらゆる角度から自分自身の人生を育てていくことができるようになる種を豊かに撒くものであると思っている。いや、こういう言語化の仕方をすれば、他の学問も同じなのだが。
(それにあるひとつの学問は、他のあらゆる学問の本質理解や体得を実は根底的部分で大きく助けるものとなる。)
ただし、現代のビジネス社会(資本社会)の観点から言えば、それをすると、はっきり言ってその子の人生での興味分野はどんどん広がりどんどん心身を自分で健康に整えることができるようになり、しかも音楽レッスンとは一見まったく違うところでその子の心身の発達が増し豊かに可能性や視野や柔軟性が広がっていくものであるから、誰も「音楽の効力がそこに多大に働いている」とは気付かず、音楽レッスンからさっさと卒業していくということが起こる、という面もある。
ただ、音楽とは、本来そうあるべきものだと私は感じている。
音楽はそもそもヒトというものそのものの根源に豊かにあるものであるし、それを有効に使えるようにならねば、どうせ職業にもできない。職業にする方向になっていくひとは、それこそ必要な段階で自分でその場で一番自分に適切な場所や研究法をきっと見つけるし、わざわざ幼少期に習った私のもとに戻ってくる必要は必ずしもない。
寧ろそこまで人間的に育てば、私のほうからきっともっとあらゆる世界を紹介するだろう。本人が、選ぶことができるように。
「音楽レッスンや表面的に音楽の世界」に繋ぎとめることが、音楽講師の役割ではない。と、私は思っている。
(ついでに、表面的に自分の音楽レッスンの小さな世界だけに長くとどめたとしても、その子がその時間を含めていろんな広い世界を自分で知っていこうとする力を伸ばさずに「音楽の世界を音楽の世界としてだけ」教えこんだり、ましてや時に人間的に音楽的部分にトラウマを与えて結果的に音楽から離れていく人たちを増やしてしまうよりも、潜在的に「人生のあらゆるところに当たり前のように潜んでいる音や音楽にオープンになり、その子が音楽も含めて様々な世界に能力を開花させてくれたほうが、何らかの形で音楽の世界と繋がったり表面的な音楽の世界にも戻って来たり、音楽という世界自体が豊かになる可能性が高いとも私は感じる。)


ところで、難聴や聴こえないという聴覚障害のかたほど、実は本当に世界に溢れている「音」を聴いている。
先天のかたではその自覚がある人すらいる。
身体まで震えるほどの大爆音という意味でなく、実は現代人の「耳」が関知していない小さな音、電磁波の音や地震らしき音なども感じていたり教えてくれることもある。

「見る」も同じだがね。
「眼球」で見ているものだけで「見ている」と処理しようとする。
それは自分が作りだした「概念」だけを見て概念の中だけで生きているだけで実は何一つ「見えて」いない。
本当に額か後頭部の数メートル後ろにあるいわば魂の眼に自分自身(顕在意識)そのものを置き、(目などあけていようがいまいが)身体全身で「視て」いるものを感じなければ、実は「目で見ている(はずの)もの」すらも、見えない。見えていなくなっている。
そして見えていなくなっていることすらも自覚できなくなってしまっている。(社会的に「見えている」状態であると決めつけられ、それが「見えている」ということなのだと設定され思い込まされているために。)
古来からある日本語には、実は目で見えるものではないことに対して「見る」という言葉が溢れている。そして少し今回も書いてしまったが、「本当の目(視点)は後頭部よりも後ろにある」という感覚も、江戸時代まで実際そうであったようだ(ちなみに私は白杖歩行するとき、ちゃんとここに自分自身を置いておかねば、身体のバランスすら崩れてうまく歩けない事態にすら陥る)。その辺りの記事も、今までにもちらちら書いているような気もするが、近日中に載せるだろうと思う。

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