![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/78063380/rectangle_large_type_2_8128ffd18145a4deb346dd5ca0d560d1.png?width=1200)
ルーティン、ある?ない?どっち?
私は起きる時間も寝る時間も決まっていない。
眠たくなったら寝るし、寝た時間からだいたい6時間~8時間で起きるようにしているが、それも決まっておらず3時間のときもあるし、10時間のときもある。そもそも、私は睡眠にそれほど執着がないので、眠れないことに悩まないし、たくさん眠ってもそれはそれで無駄とも思わない。
朝起きてから、決まった飲み物を飲むとか決まった朝食を食べる、ということもない。3度の食事の時間も決まっていない。というか、3度食べるということすら決まっていない。1度の日もあるし、2度の日もある。3度食べることのほうが少ないかもしれない。
仕事の時間も毎日違う。
ステージは毎回場所が違うし、ライブは夜がほとんどだけれど入時間はそれぞれ違う。コンサートともなれば入時間が朝なんてこともある。レッスンの仕事も複数の場所で教えているので、その都度違う場所に行くし、時間もバラバラ。共演者も会う人も日によって違う。
つまり、私には生活する上でのルーティンがないのだ。
強いて言えば、朝(昼)起きたらストレッチを20分くらいすることくらいだろうか。それも、何かあればやらない。やることにこだわらない。やらないことにもこだわらない。
これじゃなきゃイヤ!とかあれがないと困る!みたいなものが生活に増えることが好きではないのかもしれない。そういうことが身の回りに増えてくると、とたんに縛られている気持ちになって逃げ出したくなる。
これは人に対してもそうで、例えば交際している人がやたらとまめに連絡してきたりとか、普通に毎週会おうと約束を取り付けられたりすると、どうか私に構わないでくださいという気持ちになる。じゃあいつ会うんだ?という質問には答えられない。会える時に会いましょう、としか言いようがない。それを責められたりすると、逃げ出したくなる。
だいたい、馬が合う人ならば会おうとしなくとも、自然と会うように流れていくものだと思っている。
占い師の人達からは国内外を問わず「あなたはとても自由な人」と言われる。Askaの曲に『止まった時計』という曲があるが、その歌詞に「あなたはいつも自由な人だけど、無邪気が過ぎてとてもひどい人」とあって、その歌詞を耳にするたびに少しギクリとする。
自由は我儘との線引が難しいように感じるが、このふたつは似ているようで明らかに違う。自由には覚悟と責任が伴うが、我儘には覚悟も責任も関係ない。自由も我儘も時に人を振り回すのかもしれないが、自由には独立した精神があり、我儘は周囲への甘えしかない。
私は幼い頃、大人たちからよく「我儘」と言われたものだ。それは、私がちっぽけすぎて周囲に甘えるしかなかったから、私の自由は「我儘」と映ったのかもしれない。私は大人たちからスタンダードな振る舞いを教わった。それはそれで必要なことなのだと理解はしていたが、その振る舞いをいつどこでするかは私の自由だと思っていた。それで失敗したとしても、それは私のセンスの問題だ。親のせいではない。そして、親元を離れた私に対して我儘と指摘する人は誰もいなかった。
親の言うことをまったく聞かなかった私を、両親は「どうやって育てたらこういう娘に仕上るのだろう?」と首を傾げていた。両親からすれば、どうしてこんなに(彼らにとって見れば)異世界感のある人間が家族なのだ?という素直な疑問なのだろう。それでも、私はあなた方を選んで生まれてきたのだ。この仕上がりで正解なのだ。私が生まれる前に描いた人生の青写真は大方うまくいっているように思う。
私にはルーティンがない。
だからといって、得することは何もない。
薬を処方されるたびに「朝・昼・晩」「食後」に戸惑うし、決まったスーパーに行く習慣もないので、特売を逃す。友人と旅行に行けば、他人のルーティンをまざまざと見せられ戸惑うのが常だ。朝のビールはうまい。でも、大抵の人はコーヒーを飲む。
ルーティンがないことは、自由なことなのかもしれない。
でも、社会の流れに対して自由であることは、不自由を覚悟せよということなのだ。
#今更の二択刑事 #ルーティン #自由とは #多次元的なもの #過去に対しても未来に対しても自由 #囚われない #執着しない #こだわらない #自分軸