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子どもたちがありのままの自分で生きられる社会の実現を。


子どもたちがありのままの自分で生きられる社会の実現を目指す僕がその思いと自分自身について書いてみました。


くー

未来をつくるクリエイター
本名:佐藤敏幸 栃木県宇都宮市生まれ
2013年より沖縄県南城市在住


今やっていること

  • ホントの自分を見つける沖縄親子リトリート

  • 子どもの潜在能力開花セッション

  • 夢と希望しかない子に育てる!子育て本執筆中

  • 学校に行ってない子どもたちと楽器で遊ぶ


略歴

20代の時に工業高校の事務を4年間経験。

1999年地方公務員を退職しフェアトレードショップをオープン。

2003年に孫正義さん、江川達也さん、藤田晋さんなどと共にニッポンの起業家100選に選ばれる。
(ニッポンの起業家図鑑〜100人の勇気と独立への第一歩:DREAM GATE PROJECT発行)

2011年東日本大震災の時に日本は教育から根本的に変わらなくてはと痛感。
当時7歳の息子と東京、兵庫、岡山、沖縄のオルタナティブスクールに行き、見学したり体験入学したりする。
その後宇都宮に学校設立を目指すも保守的な土地柄で断念。
(集まってくれた方が口々に学校のスタッフはやりたいが子どもはその学校に入れられないと言ったため)

2013年沖縄県南城市へ移住。
パーラー経営、ラジオパーソナリティー、作詞作曲、CD制作などを行う。

2018年大人のカウンセリングの仕事を始める。
その中で不登校の相談も多く、悩んでいるのは子どもではなく親、その子に問題があるというより多様な子どもに対応できない今の義務教育の側に問題があると感じる。


子どもたちへの思い。
それは障害か、個性に過ぎないものか。

沖縄へ移住してから息子の友人たちや小学校での読み聞かせのボランティアを通してたくさんの子どもたちを見てきました。
友人の子どもたちの中には学校に行ってない子も何人かいました。

ところがその子たちは大好きなものを持っていて、いつもそれに熱中し、人懐っこく穏やかでフレンドリー。
この子の人生には全く何も問題ない。
そう強く感じました。
安心感、安定感がありむしろたくましい。
コミュニケーション能力が高く生きる力を兼ね備えていると感じられたのです。

またグレーゾーンと言われている子どもたちにも会って遊んだりしましたが彼らも同じように穏やかでフレンドリー。何も問題を感じませんでした。

解剖学者の養老孟司さんがADHDの子も農業をやっていたら何も問題ない、と言っていますがまさに!と思います。

ADHD、グレーゾーンと呼ばれる子どもや大人は管理されすぎた授業や仕事に向いていないだけで病気や障害ではない。
環境が合っていないだけ。そう思うのです。

現に僕自身もじっと座っていること、興味のない話を聴くこと、誰かのペースで物事を進めることが苦手ですし、やりたくないことは特に集中することができません。あっという間に飽きるのです。
そして車や自転車で意味もなく移動し続けるのが好きです。
僕が診断を受けたらきっといろんな障害名がついてしまうんだろうなと思います。
でも自分に合った働き方、生き方をしているので何も問題ありません。

小学校の読み聞かせボランティアで感じたこと



数年前に読み聞かせをしていた頃、小学校の1年生でいつも補助の先生がピッタリと横についている子がいました。
先生不在の読み聞かせの時間でも横についているのです。

僕は絵本を読んで歌も歌っていたのでその日はひょうたんでできたウクレレを持っていきました。
するとその子はそれを見た瞬間に「ハワイと日本の合体だ!」というようなことを言いました。

実際はハワイにもひょうたんがありますが、ウクレレ=ハワイ、ひょうたん=日本と即座に察知しての発言だったと思います。

僕はとても驚き感心したのですが、読み聞かせ中も「それ〇〇!」というように声をかけてきます。
それがとても嬉しくて僕も返事を返してコミュニケーションを楽しみたかったのですが、横にいる先生がそれを止めるのです。

黙って聞きなさい、と。

どうしてそれを止める必要があるのか僕には不思議でした。
逆じゃないかと。
読み聞かせの時に会話を投げかけられてこちらもそれに応えるというのはとてもいいことだと思うのです。

他の読み聞かせボランティアの人に聞くとその子の家には百科事典がありそれが全部頭に入っているというのです。
たまたまスーパーでその子を見かけた時に彼は次々と柔軟剤を手に取り、すべての柔軟剤の後ろの説明を読み続けていました。

知識だけが素晴らしいものではないと思いますが、この子が将来どんなことをするのか僕は楽しみで仕方ありません。そして知識だけでなくコミュニケーション能力も他のクラスメートと比べてずば抜けていたのです。
この子はすごい、そう思いました。
ところが学校側からは問題がある子、サポートが必要な子と言う評価になってしまっているのです。

むしろどんどん好きなことをやらせて、もし勉強もできてしまうのであれば飛び級していったらいいんじゃないかと妄想が暴走しました。

僕が学校に行けなくなった

読み聞かせボランティアは2、3年続けましたが僕自身が学校に行けなくなりやめました。
学校の雰囲気が変わり、授業ではない読み聞かせの時間も子どもたちを厳しく管理するようになったからです。

発言してはいけない。

縦横綺麗に整列して床に座らなくてはいけない、など。

何よりピリピリした雰囲気に、もうこんな学校には1日たりとも行けない。
そう感じて子どもたちには会いたかったものの読み聞かせに行くことをやめました。

学校に行ける子はもちろんそれでいい。
でもこんな雰囲気なら行けない子がいるのも普通だ。
そう思いました。

週休3日の息子

僕の息子は小学校高学年になると週5日は無理と言って毎週のように水曜日に休むようになりましたが、僕は学校に行きなさいとは一度も言いませんでした。

なぜなら僕だったら1日も行けないと思っていたからです。

息子の担任の先生や他の先生との会話の中でも画一的な価値観や細かい決まりごとを感じ、もっと多様な子どもたちが学べる選択肢が必要だと思いました。

40分黙って座って授業を聞く。
1クラスに30人いる。
自分のペースではなくみんなと同じスピードで学んでいかなくてはならならい。
興味のない科目も学ばなくてはいけない。

これらが無理という子どもも一定数いるはずです。

子どもに問題があるのか
学校に問題があるのか

「不登校」という言葉からはネガティブな印象を受けます。Twitterを見ていても「学校に行くのが当たり前で、行けてない我が子に悩む」という親のツイートや「復学させます」というようなアカウントも目に留まります。

不登校が好ましくないもの、という前提な訳ですが僕は逆に感じているのです。

子どもたちに問題があるのではなく、多様な子どもたちに応えてあげられない今の教育、学校、社会が未熟で問題なのだと。

学校へ行けない子どもたちが増えて子どもたち自身に問題が生じているのではなく子どもたちは進化して自分に必要なもの、必要ないものがはっきりわかるようになってきているということ。

世界の頭脳100人に選ばれた台湾のIT担当大臣オードリー・タン氏は「10年遅れている」と気づいて中学校をやめたそうです。

10年ならまだいいほうでは、という気もします。
すべての子どもたちに同じ教育を受けさせる今の義務教育は古く、無理が多いのでたくさんの選択肢を用意する必要があると思います。

大人になれば生き方は千差万別ですが、子どもにはひとつの教育しかない。
これはおかしな話です。
昭和の時代にはこのシステムはまだ機能していたと思いますが今の子どもたちにはフィットしなくなってきています。

学校なんてクソだ!と言い切る小学1年生

学校なんてクソだ!

そんなことを言う小学校1年生や2年生の子がいます。
言葉自体は綺麗な言葉ではありませんが、その感覚は素晴らしいと思います。
僕がその年齢の頃には学校は好きではなかったものの、そこまでの感覚は持ち合わせていませんでした。
行くしかないものと捉えていたのです。

目覚めていなかったと言えるでしょう。


新しい学校作りを目指す子どもたちと遊ぶ

くじらぐもの子どもたちと一緒に


現在僕は「くじらぐも」という沖縄で新しい学校やフリースペースを作ろうとしている子どもたちと関わっていて月に何度か楽器で遊んでいます。
(今後はオンラインでも無料で開催予定)

それは音楽のレッスンではなく、簡単なことを教えることもあるものの、自分で身につけていくことをサポートしたり、単に一緒に音を出して遊んだりという感じです。

なぜこういうことをしているかというと遊びこそクリエイティブであるし、楽しいことが正解だと思っているからです。
そしてこれまでの教育には遊ぶ=創造するという部分が足りなかったと思います。

すぐに作曲を始めた小学2年生の女の子

また彼らに作曲の仕方を教えたところ小2の女の子が作詞作曲を始めていますが、理論を教えたわけではありません。

作曲は鼻歌でいいんだよ、それをスマホで録音すればいいよ。
伴奏を考えるのは編曲だよ。
編曲は僕とか他の人がやってもいいんだよ、と教えただけです。

いきなり音楽的に高度なもの完成度の高いものはできないかもしれません。
でもクリエイトするという喜びは感じられるはずです。
現にプロの歌手でも楽器が弾けず理論もなく鼻歌で作曲してヒットを飛ばしている人もいるのです。

楽しく学ぶ。楽しく習得する。
これはとても大切なことだと思います。
「勉強」という言葉にはそれ自体にネガティブな印象が強いです。

究極の教育

究極的にはひとりひとりの子どもが自分のやりたいことをとことん追求できる教育や環境が最高なものだと思います。

読み書き、簡単な計算など誰でも学んだほうがいいものもあると思いますが(どんどん字を書かなくなっている今、それも本当に必要なのか、タイピングして文字の選択が間違っていなければそれでいいのではという気もしますが)これまでのようにすべての科目を全部習得することを目標にする教育は無駄が多く、子どもたちにとって精神的な負担も大きく、逆にもっと学びたい場合でも学校では決められたカリキュラムの外側や先へは進めないという弊害もあると思います。

一足飛びにすべての子どもが自分のやりたいことをとことん追求できる学校ができないとしても少しづつでもそこに近づいていきたいという思いがあります。



僕の目指しているもの

最後に僕の目指しているものはこういうことです。

子どもであれ、大人であれ、本来自分のやりたいことがあるはずですが(受け身で生きてきた中でそれを見つけられてない大人も多いですが)これまではそれを追求するのを良しとする社会や教育ではなく、いい大学、いい会社または公務員などを目指す教育だったと思います。

その教育と管理されすぎた学校の現場が一部の子どもたちを苦しめています。
特に理由はわからないけど学校に行きたくないという子が増えていますが、それはまさにこういうことだと思うのです。

そこから子どもたちを解放してあげたい。
それが僕の目指していることです。



すべての子どもたちがということではありませんが、既存の教育、学校が合わない子どもたちもいます。

子どもたちに対してあなたたちが悪いとか、いけないということではないよと伝えてあげたいですし、今の学校の代わりになる教育の機会や居場所もみんなで考えて作っていかなくてはと思っています。

学校や今の教育に対してネガティブな表現が多くなってしまったかもしれませんが、それについて批判したいという訳ではなく民間や個人、有志で新しい場所や教育を作っていくべきだと考えています。

2022年11月9日 


子どもたちとレコーディングしたオリジナル曲
読み聞かせの時に歌って大人気となった。



くーリンク
https://linktr.ee/coomusic

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