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「裁かない」という選択肢。#読書メモ

井上荒野さんの小説には、特徴的な男性がよく登場する。
あやしげな仕事に就いていて、既婚者でありながら次々に新しい恋人をつくる(それも、きちんと終わらせないから常に何人かの相手と同時進行)いわゆる“ダメンズ”。

自分が彼と恋をしている女性の知人や友人だったら、心配で思わず口出ししたくなってしまう、
でも、自分自身が彼に恋をしていたら、きっとだらだら関係を続けてしまって、やっとのことで別れた後も最後まで憎めないんだろうなぁ…、そんな風に思わせるキャラクターだ。

『もう切るわ』のトシさん(占い師、妻あり)がまさにそんな人だ。

最近、荒野さんのお父さんである井上光晴さんと、愛人関係にあった瀬戸内寂聴さんをモデルに描いた『あちらにいる鬼』を読んで「あ、トシさんは荒野さんのお父さんのことだったのか」と気づく。

光晴さんをモデルに書かれた篤郎は、女ったらしで、わがままで、でもやっぱり憎めない。(主観)

荒野さんはいくつかのインタビューで、オファーがあったときは書く気はなかったが、寂聴さんに会いに行った際に、いまも深く残る光晴さんへの愛情にふれたことで書くことを決心したと語っている。
同じインタビューで荒野さんが、光晴さんのことも、寂聴さんのことも「裁かない」と語っていたことも印象的だ。
 「亡くなった母も、裁かないだろう」と。

自分からは決して関係を終わらせない篤郎を断ち切るように出家した寂聴さん(作中ではみはる)もすごいと思うが、
自分以外の想い人の存在を知りながらも、子どもたちの前ではそんなことをおくびにも出さず、篤郎のことを一度も悪く言うことなく、むしろ穏やかで夫婦円満だったという荒野さんのお母さん(作中では笙子)もなかなかすごい。

さらに、物語の中で、やがてみはると笙子は互いに友情に近い好意を抱くようになるのだ。

篤郎宅で食事をご馳走になったあくる日(このシチュエーションもすごい)、みはるは笙子と話すために電話をかける。

わたしは彼女ともっと話したかったし、彼女をとても魅力的だと思っていることを伝えたかった。白木とわたしが男女の関係であった7年間が、彼女と白木の7年間でもあったというあたりまえの事実が、何か熱い湯のような、甘い蜜のような感触でわたしを覆っていて、わたしはうわぁっと叫びだしたいような気持ちになっている
あちらにいる鬼/井上荒野

一方、笙子は篤郎、みはると共に旅をしながらこんなことを考えている。

私は彼女のことが好きなのかもしれない、とときどき思う。好きになってはいけない理由を、私は見つけられない。ーー中略ーーかつて彼女が篤郎を愛し、篤郎に愛されたという事実は、私に彼女を疎ませはしない。
あちらにいる鬼/井上荒野

敵わないなぁ、と思う。
わたしはみはるにも、笙子にも、荒野さんにもなれない。

状況はかなり違うが、わたしの母は母親であることよりも、ひとりの女性として生きることを選んだ人だった。
思春期だったわたしはそのことにひどく傷つき、疎遠になったいまも、母に対して恨みや怒りのような苦々しい思いを抱き続けているように思う。

「裁かない」あるいは「恨まない」という選択肢。
これ、自由になる秘訣だよなぁ、とふっと肩の力が抜けた。

いまのところは、こんな感じ。
わたしにとって、読み返すたびに、新しい発見がある一冊になるだろう。

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