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人はなぜ”脱日常”を求めるのか


なぜ多くの人が”脱日常”を求めるのか。たまり場を考える上で、ふとそんな疑問を持つに至りました。今日はそれについて考えたことを備忘録程度に書いてみたいと思います。


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何かの本で読んだが、人間が1日で処理できるデータ量は決まっているらしい。

パソコンやタブレットであれば、本体の容量を超えてデータを処理・保存しなければならない時、本体自身の容量を拡張したり、外付けハードディスクを取り付ける。しかし人間は、容量を拡張することは出来ないし、外付けハードディスクも存在しない。ではどうしているのか?



私達は、無意識的に脳内で処理・保存すべきデータ量そのものを減らしている


例えば、朝、何も考えなくても洗面台へ行き、顔を洗い、歯を磨いている。考えごとをしながら運転していてもいつの間にか目的地に着いている。スポーツなどでよく言う「体が覚えている」という感覚と似ているが、私達は無意識に行動を自動化して「考える(処理するデータ)」量を減らしているのだ。


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こうして考えてみると、私達が無意識的に脱日常を求めているのも、脳内における処理データ量を減らしたいという欲求の一種、と捉えることが出来る。それがある人にとっては、居酒屋に行くことであるし、サウナの場合もある。映画鑑賞の場合もあるし、ゴルフの場合もある。とにかく、色々「考えたくない」からこそ、私達は無意識的に日常空間から逃れようとしているのである。それを私たちは「気分転換」と呼んでいる。


私は、1人で居酒屋やBarに行くことが好きだ。友人からは「一人で行って何しているの?」と不思議がられるが、これまでのお話を踏まえると答えは明瞭。


行っても、何もしないのである。
いや、何もしないから行くのである。


厳密に言えば、自分の思いを巡らせることもあるし、仕事で他人と交わした会話を反芻することもある。しかし、それらは”考える”という作業ではなく、脳内のデータをファイル別に整理する作業、またはzipファイルに変換する作業なのだ。


別に居酒屋やBarに行くことを強要している訳ではなく、上述したように、サウナでもゴルフでも映画鑑賞でもよい。とにかく”何も考えない”という時間が必要なのだ。


この時間(作業)が定期的に存在しなければ、パソコンやタブレットもどんどん動きが遅くなる。これは人間も例外ではない。ただ人間は賢いから、壊れる直前まで体や心を騙して動きが重くないフリをする。だからこそ、家庭や職場などの社会関係から離れて”何も考えない時間”というものを定期的に取ってあげる必要があるし、身近な人にも取らせてあげる必要がある。



ということで、飲みに行ってきます。

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スズタユウキ
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