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【シニフィアンとシニフィエ】静寂のリズムが描く風景

暖かな雨がしとしとと亜熱帯のオフィス街に降り注いでいます。ときおりヤエヤマヤシの葉をそよがせる風が、濡れたアスファルトから立ち上る独特の匂いと、遠くから漂う潮の香りを静かに運びながら過ぎ去ったあとには、――電線を行き交っていた小鳥たちがぱたぱたと街路樹の影へ消えたあとには、雨音とともに漂う微かな静けさが残ります。滴る雨粒が街路樹の葉を伝い、コンクリートの歩道へと落ちる音には、どこか心を落ち着ける規則的なリズムが感じられるのです。

その雨音のリズムに耳を傾けていると、ショパンの『雨だれの前奏曲』が空気の中に静かに溶け込み、どこからともなく漂ってくるようです。単調でありながらも深く心に響く左手の伴奏、その上に静かに重なる右手の美しい旋律。まるで雨が大地を叩く音が、しだいに感情の奥深くへと浸透していくように、この曲は聴く者の心に語りかけてくるのだと思います。

ショパンがこの曲に込めた思いとは何だったのでしょうか。雨音のように繰り返されるパターンの裏には、孤独や内省、あるいは希望の兆しが隠れているようにも感じられます。そう考えるとこの『雨だれ』という楽曲は、人間の内面的な旅路を象徴しているのではないでしょうか。

人生の中で繰り返される日常の営み――それは時に単調で退屈、逃げ出したくなります。

私は、ガラス越しに窓の外を眺めていました。いつまでも身動きをせずに、ただ無条件に「見る」ということにだけ専念する時間が流れていきます。目の前に広がる景色は、雑然としたオフィス街。空は鈍色に染まり、ビル群が無機質に並んでいます。風が吹けばヤシの葉が揺れるものの、それも人間が意図的に配置した装飾に過ぎない。ここに広がる「自然」は、手が加えられ、形作られたものばかりです。

しかし、じっと眺めているうちに、不意に奇妙な感覚が芽生えました。目の前の景色が、ただの「風景」から何か別のものに変わりつつあるような――そんな感覚。舗装された歩道、植えられた街路樹、電線を行き交う鳥たち。それら一つひとつが何かを語りかけようとしているかのようです。

私は何を「見ている」のだろうか。いや、本当に「見ている」とはどういうことなのか。その問いが頭をよぎると同時に、森有正の言葉がふと心に浮かびました。彼は書籍『経験の哲学』の中で、日本人が自然をどのように捉えているかについて、次のような鋭い指摘を残しています。

曰く、

「日本人は少しも自然を見ていない。ただ眺めているだけで、自然を真正面から経験しようとしていない。」

実に鋭い彗眼が映し出された洞察です。見ているつもりで何も見ていない――そんな盲点を一瞬で突き、私たちの感覚を根底から揺さぶります。

たとえば私たちが「富士山を見る」場合、それはいわゆる「富士山」を見ているに過ぎないのだと、森は言います。自然の中にある一つのただの山として見ること。それをただの象徴や記号としてではなく、自分自身との間に新しい感覚を通じさせる対象として見ることなどしていない。

こんなに自然が豊かな国である日本は、要所要所がみないわゆる「名所」となっており、名所になること自体は、歴史が自然に刻まれる一つの姿として尊くはあるけれども、見る側の私たちからしてみれば、個々人の我が直接的に自然に触れることを不可能にしているのだと、彼は言うのです。

どういうことかというと、多くの日本人にとって「富士山」という山は、日本一高い山、大きな山、休火山といった客観的な特徴として捉えられているわけではない。あくまで「あの有名な富士山」としてしか認識されていない、と森は考えているわけです。

言い換えると、彼らが「富士山」を眺めるとき、それは江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎が描いた富士山であり、奈良時代の詩人・山部赤人が詠んだ富士山を見ているに過ぎない、ということです。

さらに言うなら、今やSNSで「おすすめ」「みどころ」「一押し」などと紹介される名所――つまり、「何らかの意味を付けられた場所」として見ているだけなのです。本来の「無意味な自然そのもの」としては、見ていないのです。

森にとって自然とは、人間の価値観や解釈によって左右されるものではなく、それ自体として独立した存在であり、人間の手や目に容易に触れることのない、独自の世界を持つものです。

では、その自然がどのようにして私たちの目の前から隠されてしまうのでしょうか。その一因となっているのが、私たち自身が自然に与える「名前」や「意味」、つまり「記号」です。

たとえば、名所という「記号」が自然に貼り付けられることで、私たちは自然をありのままに認識することが難しくなります。これについて森は、自然を純粋に「見る」ことを私たちが阻害している原因だと指摘しています。

ここで柳田邦男の言葉、「わけるはわかる」を思い出してみます。柳田は、物事を「分ける」ことで、それを「わかる」ようになると述べました。この言葉は、科学や教育の文脈で語られたものですが、私たちが物事を理解する基本的な仕組みを示しているとも言えます。自然の中の一つの山を「富士山」と名付け、その意味を付与することで、私たちはそれを認識しやすくしているのです。

しかし、この「分ける」行為は、同時に私たちの認識を固定化し、自然そのものを覆い隠してしまう危険性も孕んでいます。たとえば、富士山を「日本一高い山」「名所」「象徴」として認識することで、ただの一つの山としての姿が見えなくなってしまう。この現象こそが、記号化の問題そのものなんですね。

記号化の本質をさらに掘り下げると、ここでソシュールの「シニフィアン(記号表現)」と「シニフィエ(記号内容)」の概念が浮かび上がります。私たちが自然に名前を付けるという行為は、シニフィアンを与えることで認識を可能にする一方、その名前が持つシニフィエ――つまり意味――によって自然をある種の枠組みに閉じ込めてしまうのです。


言語学の父、フェルディナン・ド・ソシュール――その「すごさ」とは?

「近代言語学の父」と呼ばれるスイスのフェルディナン・ド・ソシュール――「近代言語学の基盤を築いた」とはどういうことなのでしょうか?

ソシュールの名が広く知られる理由は、哲学や文学理論、さらには社会科学まで、幅広い学問に影響を与えた革命的な着眼点にあります。

彼の革新性を端的に表現するならば、「言語は記号の体系である」という新しい視点を示したことに他なりません。彼の理論は、現代の多くの学問の基盤となりました。

彼はこの考え方によって、言語そのものだけでなく、私たちが世界をどのように理解し、どのようにコミュニケーションするかという基盤そのものを再構築してしまいました。

ではその言語の「記号」とは何か?

ソシュールが提示した「記号」という概念は、言語を単語や文法の集まりとしてではなく、社会的・文化的な文脈で成り立つ体系として捉えるものでした。その「記号」は、以下の二つの要素から構成されます。

1.シニフィアン(記号表現)
言葉の「音」や「文字」のような形

2.シニフィエ(記号内容)
その形が指し示す概念

たとえば、私たちが「山」という言葉を聞いたとき、それが「高い地形」であるとわかるのはなぜでしょうか?ソシュール以前の言語学では、「山」という言葉そのものに意味があると考えられていました。しかし、ソシュールはそれを否定し、「山」と名付けられたのは偶然であり、言葉と意味の結びつきは文化や言語の体系に依存していると明らかにしました。

この視点は、言語を歴史的・比較的に研究するだけだった19世紀の学問に比べ、まさに「地殻変動」と言えるほどの革命でした。その理由を三つ挙げてみましょう。

一つ目に、ソシュールは言語を「動的な体系」として捉えました。それまでの言語学は、サンスクリット語やヨーロッパ諸言語の比較研究を主流とし、言語を不変のもの、あるいは単に記録される現象と見なしていました。

しかし、ソシュールは「言語は体系である」と主張し、個々の単語や文法ではなく、全体のネットワークの中で成り立つものだと示したのです。

たとえば、「山」という言葉は「谷」や「丘」といった他の言葉との対比の中で初めて意味を得ます。この視点の転換によって、言語が「他の要素との関係性」で成り立つ動的な構造であることが明らかになりました。

二つ目に、ソシュールは言葉=シニフィアンと、その意味=シニフィエの結びつきが必然的ではなく、「恣意的」であることを明らかにしました。

たとえば、フランス語では「蛾(moth)」も「蝶(butterfly)」も区別されずに「papillon(パピヨン)」と呼ばれます。一方、日本語や英語では「蛾」と「蝶」が明確に区別されています。この違いは何を意味するのでしょうか?

それは、フランス語の言語体系において「蛾」と「蝶」の違いが特に重要ではないということを示しています。言語体系はその文化や社会的背景によって形成されるため、ある言語で重要とされる区別が、別の言語では不要とされることがあるのです。

つい先日、私はこの話を知人に説明しました。「フランス語には蛾と蝶の区別がなく、どちらもパピヨンと呼ばれるんだよ」と話すと、「じゃあ蛾のことは何て言うの?」と問い返されて、まったく話がかみ合いませんでした。

この反応から見えてくるのは、私たちが言語を通じて物事をどう認識しているか、その「枠組み」が文化や言語に依存しているという事実です。この「枠組み」は、私たちが気づかないうちに私たちの認識や理解の仕方を大きく左右しています。

この現象をソシュールの理論で説明するなら、「言葉のシニフィアン(表現)」と「シニフィエ(概念)」の結びつきが、私たちの日常的な「認識のクセ」を形作っていると言えるでしょう。

さらに、同じような例は「雪」にも見られます。イヌイット語では雪を指す言葉が20以上存在すると言われています(新雪、粉雪、凍った雪など)。一方で、英語では「snow」という単語一つで表現されます。この違いは、言語体系がその文化や環境の中で何を重視するかによって異なることを示しています。

「富士山」の例に戻ると、私たちは富士山を単なる山としてではなく、「日本一高い山」「象徴」として捉えています。この捉え方は、日本という文化の中で富士山が持つ意味や役割に基づいています。しかし、この認識の枠組みは、私たちが富士山を純粋な「自然の一部」として見ることを難しくしています。

つまり、ソシュールの「恣意性」の概念が示すのは、言語が現実をそのまま反映しているのではなく、文化や社会によって作り上げられた記号体系であるということです。この「恣意性」の視点は、言語学だけでなく、社会科学や文化研究にも広範な影響を与え、私たちの認識や理解の基盤を深く問い直しました。

そして三つ目に、この「シニフィアンとシニフィエ」の発見が言語学にとどまらず、哲学や文化研究、心理学など多くの学問分野に影響を与えた点です。ソシュールの後の世代にあたるクロード・レヴィ=ストロースの「構造主義」は、ソシュールの考え方を文化や神話の研究に応用したものです。

さらに、この「構造」の視点はマーケティングやブランド戦略にも活用されています。たとえば、Appleのロゴは単なる「かじられたリンゴ」ではなく、「革新性」や「洗練」といったシニフィエを伝える記号です。このようにソシュールの理論は、私たちの日常や社会の認識を再定義しました。


ビジネスパーソンの呪いを解く
――単調から希望の旋律へ

雨音が織りなすリズムのように、ビジネスパーソンの日常も一見すると単調で、時に退屈に思えるかもしれません。毎日のクソ仕事に埋もれ、自分が何をしているのか、何のために働いているのかすら見失いがちです。

この「呪い」の正体は何でしょうか?

それは、固定観念や記号化された価値観に囚われていること――「効率的であるべき」「成果を示さなければならない」という外部から与えられたシニフィエに支配されることではないでしょうか。

ソシュールが示した「記号の恣意性」は、この呪いを解く鍵を握っています。言葉と意味の結びつきが恣意的であるならば、私たちの働き方やその意味もまた、再解釈が可能なのです。

森有正が言うように、ただ「眺める」のではなく、目の前の仕事や景色を真正面から見直すこと――それが新しい視点を得る第一歩です。

たクソ仕事と思えた業務も、視点を変えればチームの成功を支える重要なピースかもしれません。あるいは、効率に追われる日々の中に、意図的に「無駄」を取り入れることで、クリエイティビティが生まれるかもしれません。

ショパンの『雨だれの前奏曲』がそうであるように、繰り返されるパターンの中にも感情を揺さぶるメロディが隠されています。退屈な短調の日々を超え、自らの働き方や価値観を再構築することで、ビジネスパーソンは「希望の旋律」を見出せるのです。

「呪い」は解ける。

それには、新たなシニフィエ――「自由」「自己表現」「意味ある挑戦」――を自分自身で見つけ、選び取ることが必要です。日々の中に潜むリズムを感じ取り、それを新しい音楽に編み直してみませんか?

雨はいつか止みます。

そしてその後に広がるのは、さっきまでよりほんの少しだけ明るい光に満ちた、新たな景色だと思います。




僕の武器になった哲学/コミュリーマン

ステップ3.真因分析:そもそも、この問題はなぜ起こっているのか、問題の奥に潜む真因を突き止める

キーコンセプト41「シニフィアンとシニフィエ」


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