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【エポケー】どうすれば「他者」とわかりあえるのか?

運命的な出会いから燃え上がるような恋に落ち、永遠の愛を誓い合ったパートナーと憎悪が込上ぐ不仲に陥る。と思えば、生まれ育った環境や得手不得手、考え方や性格などが異なる他人同士が真に親しくなることもある。

これを紐解く「カギ」は何なのでしょうか?お互いの抱く価値観の変容?共感の不足?コミュニケーションエラー?他への目移り?飽きてしまった?出会ったタイミング?今風に言えば多様性の尊重?それとも意識の問題?

個人間でもこのようなことはちっとも珍しくなく起こっていますが、ことビジネスシーンにおいても同じような例は数多くありますし、皆さんも一度ならずご経験をされているかと思います。

最初は「共通の目標」や「熱意」を共有していたビジネスパートナーと、時間が経つにつれて不仲になるというケースがあります。情熱溢れる二人が共に新しいプロジェクトを立ち上げ、最初はお互いのビジョンやアイデアを意識的に共感し合っていた。しかし、事業が進むにつれ、市場の変化、経営戦略の違い、コミュニケーションの不足などが原因で、互いへの理解が徐々に乖離していく。初期の共感は時間と共に薄れていき、お互いの経験や考えの共有が減少することで、関係悪化への道を辿ります。

反対に、異なる専門知識や文化的背景を持つチームメンバーが、一つのプロジェクトに取り組み成功する場合もあります。仮にエンジニア、マーケター、デザイナーが一緒に新しい製品開発に携わっているとして、彼らはそれぞれ異なる専門性と視点を持っていますが、プロジェクトの成功のためには、相互の理解と協力が不可欠であることを意識的に理解している。メンバー同士が互いの専門知識や考え方に共感し、異なる視点を尊重することでチームとして強い結束力が築かれ、それが成功への道を切り開きます。

20 世紀に「現象学」という新しい哲学的な学問を提唱し、当時の哲学全般・・・だけに留まらず、政治や芸術領域にまで多大な影響を与えたとされる、エドムント・フッサールという人物がいます。

フッサールは「自己と他者」「主観性と客観性」の関係に対する深い洞察を加えたことで知られていますが、そんな彼が「他者」の存在を理解するために提唱したうちの一つが、「エポケー」なる、なんだか可愛い名前でお馴染みの思想概念です。

客観的事実を一旦保留する

「VUCA」という言葉を耳にするようになって久しいですね。もともとはアメリカ陸軍が現在の世界情勢を表現するために用いた言葉です。改めて確認すれば、VUCA とは「Volatility=不安定」「Uncertainty=不確実」「Complexity=複雑」 「Ambiguity=曖昧」という、今日の世界の状況を表す四つの単語の頭文字を組み合わせたものです。

「VUCA=とにかくなんにも想定できない」ということはわかったけれど、具体的にイメージができない、どうにも気味が悪い、という方もいらっしゃることでしょう。ここで少しだけ寄り道をして、とても簡単な「VUCA の具体的イメージ」を共有したうえで、話を次に進めたいと思います。

スマートフォンと SNS によってリアルタイムでの情報共有が可能になり、地理的な制約がほとんどなくなった現代の私たちは、常に世界中の人々と繋がっていると言えます。これにより現代ビジネスにおいてスマートフォンと SNS を活用しないなどということは、ほとんど考えられなくなりました。したがって今では多くの人々が、このような VUCA の中における「SNS 社会での立ち振る舞い方」「バズるネタ」を真似し合いながら生きている、もう少し言えば「いいねに追われて生きている」と考えれば、「ああ、なるほど確かに VUCA だなあ・・・」と感じていただけるのではないでしょうか?

さて、ここから微笑ましい音にも聞こえる「エポケー」に触れていくと、これは古代ギリシア語で「停止、中止、中断」を意味する言葉です。フッサールはこの「エポケー」を「判断停止」と説明をしているのですが、皆さんの中には「え?判断を止めるの?」と思われる方もいらっしゃるでしょう。

「判断停止」といえば、情報が不足しているかどうかに関わらず、ある問題に対して「判断を下すことを完全に停止すること」を指すわけで、これは問題から意図的に距離を置くか、それ以上考えることを放棄することを意味します。これでどうやって「他者」のことを理解できるのか意味不明です。

それであるなら「判断留保」と表現すれば良いと思うわけですね。「判断を留保する」のであれば、これは情報が不十分、またはより多くの情報が得られるのを待っているために、意思決定を「一時的に保留にする」ことを意味します。判断を下すことを遅らせるが、情報を収集し続けている状態ですので、「他者」を理解するための誠実な態度のようにさえ思えます。

とういわけで「判断留保」と言えばいいのにもかかわらず、なぜ「エポケー」などというなんともケッタイな用語を用いているのでしょうか?それはもちろん、単なる「判断留保」と「エポケー」には違いがあるからです。この違いを理解するために、エポケーを具体的に喩えてみます。

例えば、目の前にリンゴがあるという時、私たちはリンゴの存在は「客観的事実」だと考えますね。目の前にあるリンゴの存在を「主観的な感想」だと考える人はあまりいないでしょう。

しかし、本当にそのリンゴは「客観的事実」として正しいのでしょうか?

「正しいよ!」
「目の前にあるんでしょ?」
「何を余計に意味不明なことを言っているんだ!」

などと仰りたいお気持ちは理解のうえで、しかしながら、もしかすると幻覚を見ているだけかもしれないし、あるいは精巧に作られたホログラム映像を見ているだけなのかも知れません。Apple の『Vision Pro』が発売された現在、「やっほー!りんごだ美味しそう!いっただっきまーす!」と食い意地を張ってばかりでは、もしかすると恥をかいてしまうかもしれませんね。

「Apple Vision Pro体験者が7つの疑問に答える(後編)。いったい何に使うの? 狭い日本の部屋ではどうなる?」TECHNOEDGEより


私たちが一般的に「客観的だ」と考える認識は、実は自分の意識の中でそのように考えること、つまり「主観的な私の意識の中で、客観的だと思える」ことに過ぎない、ということになります。

この時のプロセスを文章化すれば、目の前に存在しているリンゴについて

A:リンゴが存在している

という客観的実在を原因として

B:私がそのリンゴを見ている

という主観的認識を結果とする考え方を止めて

C:リンゴを認識している自分がいる

という主観的認識を原因として

D:リンゴがそこに実在していると考える

という主観的認識を結果とする

というのが、フッサールが唱えた「還元」という思考プロセスです。客観的実在を、主観的認識に「還元」する、ということです。この時「エポケー」は、先述した「Aを原因として、Bという結果がある」という考え方の時点で「一旦、止める」という点に該当します。

これを簡単に言えば、エポケーとは「客観的実在をもとに、主観的認識が生まれる」という客体→主体の論理構造に「本当にそれで正しいのか?」という疑いを差し向けるということです。確かにそのように思えるのだけれども、敢えて一旦それは「カッコに入れておこう」ということです。これで、単なる「判断留保」と「エポケー」との違いをご理解いただけたでしょう。

しかし、これはなかなか難しいことです。目の前にリンゴがあるという時、そのリンゴの存在はあまりにも自明なものに思える、つまり客観的な事実に思えるわけで、それを主観的認識に過ぎないと考えることはバカバカしいように思えるはずです。

ですが想像してみてください。私たちは日々、さまざまな経験をしますが、これらの経験は、過去から積み重ね学んできた知識や、社会的な常識に基づいて解釈されます。つまり、私たちは何かを「見る」とき、それを純粋に「見る」のではなく、ある種の「フィルター」を通して見ているのです。この「フィルター」とは、私たちの先入観や偏見、あるいは期待などです。

どういうことか?

例えば、ビジネスシーンにおける、この「フィルター」を通じた認識というものについて考えてみます。仮に同じ「事業計画書」を、異なる部署のメンバーが見た場合を想像します。

まず、財務部の担当者は事業計画書を見る際、主に財務の視点からアプローチします。彼らは収益性、費用対効果、リスク管理などに焦点を当て、計画の経済的実行可能性を評価しようとします。その「フィルター」は財務の専門知識と企業の財務健全性に対する責任感がもたらすものであるはずです。

一方、マーケティング部門のメンバーは、同じ計画書を見ても、市場の需要、ブランドへの影響、競合他社との比較、顧客の反応など、マーケティングの視点で分析します。彼らの「フィルター」は市場のトレンド、顧客の好み、ブランドのポジショニングなどに基づいています。

そして、人事部の担当者・・・私もそうなので反省の日々ですが、この計画書を見た場合、彼らは特に人材の観点から計画を評価します。計画の成功に必要なスキルセットを持った従業員がいるか、追加の採用が必要か、研修や教育の投資が必要かなど、人的資源の視点で考察します。人事部の「フィルター」は従業員の能力、モチベーション、チームダイナミクスなどです。

このように、ビジネスシーンにおいても、異なる専門分野や職務、個人の経験や知識に基づく「フィルター」を通じて、たとえ同じ情報からであっても異なる視点や価値が引き出され、それぞれのポジションごとの主張をし合っているはずです。

であるからこそ、私たちはこのプロセスを理解し、「私たちの部門・チームはこのように考えるのが正解だと思うが、それはいったんカッコに入れる」。同様に「彼らの部門・チームの主張はわかったが、すぐに是非を問うのではなくいったんカッコに入れる」という具合に「エポケー」を活用することは、組織の意思決定や戦略立案において実は重要な役割を果たします。

ではそうすることで、私たちにとって何か良いことがあるのでしょうか?

一つ間違いなく言えるのは、そうすることで「対話できる余地が広がる」、ということです。

他者との間に相互理解が成立しないという時、自分に見えている世界像と相手に見えている世界像には大きな齟齬がある可能性があります。その時、両者が共に自分の世界像に強い確信を持っていれば、その齟齬が解消される可能性はありません。

現在の世界では対話の可能性を放棄し、対話の機会や場そのものを暴力によって破壊しようとする人々が後を立ちません。彼らは、つまり「対話に絶望している」わけです。

なぜ対話に絶望するのか、その理由はいろいろに考えられますが、一つの理由として考えられるのが、私たちが、個人個人の世界像をあまりにも強固に持ちすぎるようになっているからです。

ましてや、今日の社会では様々なものがつながりあい、ダイナミックに変化していきます。そのような社会において、自分の見ている世界像が客観的事実であり、疑いようのないものだと考えることは危険であり、 また倫理的にも問題があるでしょう。

自分自身の意見、感情、評価を一時的に保留にし、相手の言葉や行動をそのままの形で受け入れる。

相手の視点に立ち、その人がどのような経験をしているか、単に相手の言葉を聞くだけでなく、その人が置かれている状況、感じている感情、持っている意図など、全体的な文脈を意識的に理解しようとする。

私たちが持っている「客観的な世界像」は、そもそも主観的なものでしかあり得ない、その世界像を確信するのでもなく、捨て去るのでもなく、いわば中途半端な経過措置として、一旦「カッコに入れる」という「過剰でも不足でもない、あるべき状態」を考える姿勢= エポケーの考え方は、このような時代だからこそ求められる知的態度なのではないかと思います。



僕の武器になった哲学/コミュリーマン

ステップ1.現状認識:この世界を「なにかおかしい」「なにか理不尽だ」と感じ、それを変えたいと思っている人へ

キーコンセプト13「エポケー」



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コミュリーマン
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