【差異的消費】消費を操るマーケティング戦略
現代のビジネスにおいて、マーケティングが欠かせない知識であることは、今や広く認識されています。顧客に対して効率的にアプローチし、激しい競争が繰り広げられる市場で優位に立つためには、経営学に裏打ちされた戦略的マーケティングが企業の成長を支える強力なツールとして機能します。
このマーケティング戦略の中心には、顧客に対してどのようにメッセージを届けるか、すなわち「広告」の役割が大きく関わってきます。しかし、断言しますが、ただマーケティングの知識を身につけるというだけでは不十分です。
なぜなら、経営学の理論に依存するだけでは、顧客に「本質的な真実」を伝える広告を作り出すことは難しく、場合によっては「欺瞞を招く」広告が生まれてしまうリスクも伴います。利益や効率性の追求ばかりが優先されると、消費者が本来求める価値を毀損させてしまう可能性が出てくるのです。
米国の経営学者でありマーケティングの父と呼ばれるフィリップ・コトラーが、主著『マーケティング・マネジメント』において「マーケティングとは、目標市場を選択し、顧客に対して価値を創造し、コミュニケーションを取り、提供するための科学と技術である」と定義付けたのは、1967年のことでした。
コトラーの定義とはすなわち「マーケティングとは顧客の欲求を満たすためのプロセス」ということを言っているわけで、極めて実務的なものです。コトラーはこの定義を理論化し、企業が市場での競争に勝ち、効率的に利益を上げるために顧客のニーズに応じた価値を創造し、そしてそれらを適切に提供する手法を体系化しているのですから、これは至って功利的なアプローチです。
企業が利益優先で動き、顧客が求める本質的な価値を見落としてしまうことにつながる危険性を孕んでいる、という点から捉えてみると、これはまさに、表面的な成功を追い求めるあまり、顧客の信頼や長期的な関係性を犠牲にするという、「リスクを伴った戦略」だと言えると思います。
しかし、それは当時の時代背景を考えると当然のことでした。1960年代は、多くの先進国で経済成長が最高潮に達し、消費者市場が急速に拡大していた時代です。第二次世界大戦後の「高度経済成長期」を迎え、アメリカやヨーロッパ、日本などの国々では、都市化やインフラ整備、技術革新が進み、「大量生産・大量消費の時代」が到来しました。
1960年代後半になるにつれて、企業は新たな市場機会に対して、これまでとは異なるマーケティング手法を必要としていくことになります。この頃、GDP成長率がピークに達した後、成長が徐々に鈍化していくというトレンドの中で、企業は「とにかく製品を作れば売れる」という状況ではなくなり、消費者のニーズをより深く理解し、その上で競争優位を確保することが求められるようになったのです。
こうして当時における従来型の「販売促進」的なアプローチから、市場の分析=セグメント化、ターゲティング、ポジショニングといった科学的な手法、いわゆる「STPモデル」が、広く知れ渡っていくこととなりました。
ではここで、改めて現在もなおコトラーの定義がそのまま主流として受け入れられているかということを考えてみると、実はそうとは言い切れない面があります。というのも、時代の推移に伴い、マーケティングの定義も変容を遂げているからです。
20世紀後半から21世紀にかけて、消費者の価値観の多様化や技術の飛躍的進歩、そして社会全体の構造変革が顕著となり、マーケティングはもはや単なる「商品販売の手段」ではなく、消費者との持続的な関係性の構築や、社会全体への責任を果たす倫理的な活動へと進化を遂げたのです。
こうした時代背景を受け、アメリカ・マーケティング協会は2017年に、マーケティングの定義を従来の枠組みから大幅に刷新しました。以前は「企業と顧客の取引」を中心にした定義でしたが、それがより広範な社会的責務や、持続可能な価値の創出に軸足を移した新しい視座にシフトした、つまり「パラダイムシフトが起きた」ということに、一応はなっているそうです。
こうして2017年、この定義が現代の状況にさらに即した形で改定され、現在では以下のように規定されるようになりました。
この新しい消費の環境下では、企業は消費者のニーズを満たすだけでは不十分であり、倫理的な振る舞いや社会的責任の遂行が求められ、そうしなければ企業は信頼を失い、深刻な経営リスクにさらされることになります。
ここで、重要になるのが「哲学」に基づく求心力です。経営学の枠組みだけでは対応しきれない倫理的な課題に直面したとき、哲学的な視点が不可欠になります。
哲学をベースにすることで、マーケティングや広告は販売促進の手段のみにとどまらず、消費者にとって真に「価値あるメッセージ」を届けるための指針となります。哲学は、人間の本質や倫理に関する深い洞察を提供し、そのメッセージがより本質的な意味を持つよう導いてくれるのです。
日常的に私たちが目にする多くの広告は、巧妙に私たちの消費行動を誘導しています。その背後には、マーケティング戦略と心理学的な手法が密接に結びつき、消費者の意思決定プロセスを詳細に分析・利用しているのです。
ですから、まずはこの広告による消費行動のメカニズムを理解することが、理想的なマーケティング戦略を考える上で欠かせない一歩となります。さっそく、その仕組みを見ていきましょう。
この世界は「広告収入」で成り立っている
私たちが日々利用している無料のWEBサイト、SNS、アプリ、動画配信サービスなどの多くは、広告収入によって運営されています。
日本の広告代理店最大手である電通の最新調査によれば、2023年の総広告費は7兆3,167億円(前年比103.0%)となり、1947年の推定開始以降、前年に続き過去最高を更新しました。
この広告収入は、多くの業界を支える経済のエコシステムとして機能しています。広告代理店だけでなく、クリエイティブデザイン企業やコンサルティング企業、データプラットフォームなど、広告に関わる多様な業界が複雑に結びつき、巨大なネットワークを形成しています。広告収入は、経済全体を循環する血液のような役割を果たし、企業活動を支えています。
私たちビジネスパーソンの多くは、自分たちのビジネスにおいて、この広告を上手く利用し、顧客に対して消費を促す側である一方、プライベートでは消費者としての立場にも回ります。その両方の視点から、私たちが注目すべき点は、消費には「真実」と「欺瞞」が共存しているということです。
まず「消費の真実」について見てみると、消費は私たちの生活を豊かにし、必要な商品やサービスを選び購入することで、生活の質を高める行為です。たとえば、健康を重視する消費者であれば、地元産の食品や栄養価の高い食材を選び、それがその人が望む健康の維持に役立つという直接的な便益を得ています。
一方の「消費の欺瞞」とは、商品やサービスそのものに価値があるわけではなく、消費者に虚栄や錯覚を与える行為を指します。流行の高級ブランド品や有名メーカーの製品は、その本質的な機能よりも、そのブランドやロゴがもたらす社会的ステータスのために消費されます。これは、消費者が物そのものの価値ではなく、社会的に求められる「見せかけの価値」に基づいて消費行動をしている典型的な例です。
そしてこの「真実」と「欺瞞」は、広告収入に依存する現代のビジネスモデルにも当てはまります。
現代のビジネスモデルを、心理学者ダニエル・カーネマンが主著『ファスト&スロー』で提唱した人間の意思決定プロセスに基づき整理をしてみると、さらに深い洞察が得られると思います。
カーネマンによれば、私たちの判断は2つのシステムによって行われます。「システム1」は素早く直感的な判断を行うもので、これが「ファスト」にあたります。一方、「システム2」は慎重かつ論理的に意思決定を行うプロセスで、これが「スロー」となります。
「ファスト」の消費行動は、SNSや動画配信サービスで見られるターゲティング広告に表れています。たとえば、Instagramのフィードに表示されるファッションアイテムの広告は、一時的な欲望を刺激し、衝動的に購入させます。消費者は、「限定割引」や「残りわずか」といったフレーズに影響され、その場で購入を決断をしますが、しかし、購入したアイテムが実際には使われず、満足感が短命に終わることも少なくありません。
一方で、「スロー」による消費行動は、長期的な価値や満足感を重視します。アウトドア用品の大手メーカー、パタゴニアの製品はその品質と耐久性が評価されており、一度購入すれば長期間使用できることが知られています。パタゴニアの製品は、短期的な衝動ではなく、環境への配慮や長期的な使用を考慮した消費行動の好例です。こうした選択は、消費者にとって経済的な利点があるだけでなく、持続可能な消費としても評価されます。
広告の「真実」の一面は、消費者に価値ある情報を効率的に届ける点にあります。たとえば、新しい製品やサービスを探している消費者が、広告を通じて必要な情報を得ることは、選択肢が広がり、生活の質が向上するので、企業と消費者双方に利益をもたらします。
一方の「欺瞞」多くの広告は、消費者に幻想を抱かせ、必ずしも必要ではない商品を欲しがらせます。特に「ファスト」の広告は、一時的な欲求や虚栄心を刺激し、衝動的な購入を促します。その結果、高級ブランドやインフルエンサーの影響で、不必要な商品を購入するケースも少なくありません。
結局のところ、広告収入に依存するビジネスモデルは、消費者の行動を詳細に分析し、真実と欺瞞が交錯する消費行動を巧みに導くシステムです。7兆3,167億円もの広告費が生む影響を考えれば、私たちは消費を促すだけでなく、消費者として自らの意思決定にも意識を持つべきだと思います。
「真実」と「欺瞞」を見抜く力
広告収入に基づいたビジネスモデルの真実と欺瞞を見極めるためにも、やはりマーケティングの視点が不可欠です。マーケティングとは、商品やサービスを売る技術というだけではなく、消費者のニーズを理解し、適切な価値を提供するための科学と言えます。
では改めて、マーケティングを学ぶことのメリットとは何でしょうか。ここでは、二つのメリットを挙げてみたいと思います。
まず一つ目に、マーケティングは「需要を生み出す力」を持っています。どれほど優れた商品やサービスでも、その価値を消費者に伝え、選ばれなければビジネスは成り立ちません。
マーケティングについて学ぶことで、自社の製品やサービスの本質的な価値を効果的に伝え、顧客に本当に必要な情報を提供できるようになります。無理な売り込みではなく、顧客が求める「真実の消費」を促進することが可能になるのです。
二つ目に、マーケティングを学ぶことは、私たち自身の「消費の賢さ」を高めることにもつながります。マーケティング手法を知ることで、広告の真実と欺瞞を見抜き、自分に本当に必要なものを見極める力を養うことができます。賢い消費選択ができれば、より豊かな生活を送ることができるでしょう。
マーケティングとは経営学の一部であり、広告もまた経営学の理論に基づいて成り立っています。企業が持続的に成長し、顧客に対して効果的にアプローチするためには、経営学を活用した戦略的なマーケティングが必要ということなのです。
しかし、経営学だけでは広告が「真実」を伝えるものとなる保証はありません。むしろ、経営学のみに依存すると、利益追求や効率性が優先され、消費者を欺く「欺瞞」の広告が生まれやすくなるリスクがあります。
そういわけで、ここで求められるのが、本記事の冒頭部分で述べた「哲学」による求心力ということになります。経営学を単なる収益向上の手段として使うだけではなく、広告が本質的に価値あるメッセージを伝え、消費者に真の利益をもたらすためには、哲学的な視点が欠かせません。
哲学は、倫理や人間の本質について深く考えることで、広告が「売るためだけの手段」ではなく、消費者と企業が共に価値を創造するための橋渡しとなることを促してくれるからです。
つまり、経営学と哲学を結びつけることで、広告は「真実」の広告となり、消費者に信頼されるものとなります。経営学による合理的な戦略と、哲学による倫理的な洞察が組み合わさることで、企業と消費者の関係が健全に発展し、持続可能なビジネスモデルが実現するのです。
差異的消費
ジャン・ボードリヤールは、その主著『消費社会の神話と構造』において、消費という言葉を再定義しています。
その定義とはすなわち、消費とは記号の交換である、というものです。 どのような記号なのかというと、私はあなたたちとは違う、という差異を表す記号です。
古典的なマーケティング理論では、消費の目的を次の三つに分類します。
①機能的便益の獲得(商品の性能や利便性)
②情緒的便益の獲得(デザインや使い心地に対する感情的満足)
③自己実現的便益の獲得(その商品を通じて自分の理想像を実現する)
マーケティング理論では、市場は黎明期から成熟期へと進むにつれ、消費の目的も変化します。①機能的便益から、②次第に情緒的便益、さらには③自己実現的便益へと移行していくことになるのです。
これは例えば、ノートブックパソコンや携帯電話のことを思い出してもらえればわかりやすい。 20年前は、スペックやら重量などが主な選択要因だったのが、 やがてデザインや素材感といった情緒的因子がより重要視されるようになり、 ついにはそのブランドや商材が持っているパーソナリティやストーリーが重要になっています。
しかしここで重要なのは、この消費の移行が市場の進化だけでなく、先進7ヵ国の経済成長がほぼ終焉を迎えたことと深く結びついているという点です。これはつまり何を言っているかと言うと、機能的便益で満足されてしまっては、市場はそこで頭打ちになってしまうということなのです。
機能的便益がほぼ充足された段階で、企業はもはや単純な性能向上や効率化だけでは消費者の関心を引き続けることが難しくなりました。そこで、「LTV(顧客生涯価値)」や「QOL(生活の質)」といった、②や③に訴えるような小賢しい・・・失礼、狡猾な用語を次々と生み出し、この経済圏の延命措置に奔走しているのではないでしょうか。
要するに、機能的な満足が飽和に達しているにもかかわらず、消費の加速を維持するために、企業は消費者の情緒や自己実現への欲求を刺激し続けなければならないということです。
これこそが、現代の広告における「真実」と「欺瞞」の背後にあるメカニズム=正体です。広告は本来、商品を売るためだけの情報伝達手段にとどまらず、消費者にその商品を選ばせることで得られる社会的な意味や価値を提示する装置として機能しています。
しかし、今日ではその役割がある意味「悪用」されてしまい、経済圏の延命措置として働いています。つまり、飽和状態にある市場での消費を促進し続けるために、広告は消費者の情緒や自己実現欲求を巧みに刺激し、さらなる消費へと誘導する操作装置と化しているのです。
ボードリヤールは、機能的に十分な商品が飽和状態にあるにもかかわらず、消費がますます加速する現象について、次のように述べています。
ここでボードリヤールは、私たちの「欲求」が単なる個人的、内発的なものではなく、実は他者との関係性、つまり「社会的」なものであると指摘しています。
この一文を読んだときの、視界に広がって邪魔をしていた霧が一気に晴れるような感覚をはっきりと覚えています。それまで感じていた漠然とした違和感——「自分の選択は本当に自分の意思で行われたものなのか?」という疑念——が、実は社会によって作り出された「差異」を選ばされていただけだという、目に見えない「欺瞞」だったのだと気づいた瞬間でした。
意識的に行っていると思っていた自分自身の消費行動そのものが、実は無意識のうちに他者との比較や競争によって操られていたことに気づかされたのです。まるで見えない糸で引かれていた自分を発見するような、ずいぶんと新鮮で衝撃的な体験でした。
さて、この「欲求」が人間の行動を駆動する基本的な要素であることは、マーケティングの多くの専門家が認めている定説です。例えば、前出のフィリップ・コトラーやセオドア・レビットといったマーケティングの大家たちは、人間の欲求を消費行動の中核として捉え、欲求が単に生存のためだけでなく、社会的、心理的な満足のために働くと説明しています。
ではボードリヤールの言う通り、欲求が社会的なものなどだとすれば、マーケティングにおける市場創造、市場拡大において最も重要なのは、「差異の総計の最大化」ということになります。これは当然のことながら、非常に大きなルサンチマンを社会に生み出すことになります。
これは非常に衝撃的なことではないでしょうか?
そもそも私たちの欲求が、他者との関係性、つまり「社会的」なものであるにも関わらず、それを求めるが余りに社会に大量のルサンチマンを量産してしまう。自己実現のために差異を追求するが、その差異こそが他者との比較を生み、結果として満たされない感情を抱かせる。まるで無限に自らを飲み込むヘビ、ウロボロスのような終わりのないサイクルです。
この構図は心底「阿呆のよう」に見えるわけですが、しかし私は単純にこの状況を「アホ呼ばわり」したいとは考えておりません。「阿呆」という言葉の語源に注目すると、「阿」は素朴さを表し、「呆」は驚きや呆然とした状態を示します。もともとは、茫然としたりする人を表現する言葉であり、まさに「皆さん、何をしていらっしゃるのでしょうか?」という、私の状態を表しているに過ぎないのです。
加えてボードリヤールはまた、次のように指摘します。
確かに、消費者は自分の選択が自由であると感じるかもしれません。しかし、既に私の実体験でお示しした通り、ボードリヤールは私たちの消費行動の背後にある無意識の力について、見事に指摘しています。
改めての説明をすれば、個人の個性的な選択ですら、他者との差異を意識した行動であり、実際には社会的な秩序の一部として機能している、個人の選択が完全に独立しているわけではなく、常に社会的な文脈に影響を受けているという点に、ボードリヤールの理論の核心があります。
さて、ここまで私は差異的消費の行動原理を解説して参りましたが、ここで一つ注意してほしいのが、例えばお金持ちがブランドものや高級車などを購入する、見せびらかしのための衒示的消費「だけ」が差異的消費なのではないということです。
お金持ちが、頼んでもいないのにわざわざ自分たちが「お金持ちである」ことを分かりやすく他者に伝えるために、フェラーリやポルシェなどの「わかりやすい高級車」を買ったり、シンガポールのオーチャードロードやマレーシアのモントキアラなどの「わかりやすいエリア」に住居を構えたりするのは、もちろん差異的消費の一形態ではありますが、それが全てではありません。
ボードリヤールが言っているのはそういうことではなく、例えば自転車に乗るとか、郊外の田舎に暮らすというのもまた、それを選択した主体がそのような選択をしなかった他者と自分は異なるのだということを示すための差異的消費だということです。
私たちがどのような選択を、どれだけ無意識的に無目的に行ったとしても、そこには自ずと「それを選んだ」ということと、「他を選ばなかった」ということで「記号」が生まれてしまうということです。この窮屈さから逃れられる人はいない、私たちはそのような「記号の地獄」に生きている、というのがボードリヤールの指摘です。
きっとそれは確かなのでしょう。しかし、本当にそれだけなのでしょうか?
ルサンチマンの概念を生んだニーチェがその主著『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で示した「超人」の概念を思い出せば、私たちは社会的な規範や価値観に縛られることなく、自らの意志と価値観に基づいて生きる存在と成れるということを述べています。
この文脈で考えると、ボードリヤールの云う「記号の地獄」に生きる私たちもまた、他者との比較や差異によって操られるだけではなく、「自己実現」を目指す差異的な消費に基づいて行動することができるはずです。超人のように、他者の目や社会の期待に囚われず、自らの価値を定義し、行動できるのです。
では、この「記号の地獄」の中で、どうすれば私たちは「真の自由さ」と、「真の豊か」さを得られるのでしょうか?
それは、欺瞞的な広告に騙されず、そして自らもまたそのような広告を作らないということです。消費社会において、多くの広告は私たちの欲望を操り、差異を強調することでさらなる消費を促進します。
そうではなく私たちはこの流れに抗い、真実の広告を作ることができるはずです。自らの価値観に基づいて商品やサービスを提供し、それを誠実に伝えることで、他者との比較に囚われない消費のあり方を提案することができます。
そして、そんな真実の広告を作る仲間を増やすことが、超人の生き方を実現する鍵となります。ニーチェの云う超人が自らの道を切り開くように、私たちもまた、真実を語る広告を通じて、新しい価値観を築き上げることができるのです。
そうすることによって、たとえボードリヤールの云う通り、この社会が「記号の地獄」であったとしても、自らが率先して「誠実さと信頼の輪」を創り出すことで、真に自由で豊かに過ごしていけるのではないでしょうか。
僕の武器になった哲学/コミュリーマン
ステップ3.真因分析:そもそも、この問題はなぜ起こっているのか、問題の奥に潜む真因を突き止める
キーコンセプト35「差異的消費」