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女のように走る男

女のように走る男を見た。

いや、正確にいうのならば「見た目はおじさんと呼ばれる風貌だが、(軽くこぶしを握った状態でわきを締めつつも、ひじから先を左右に振りながら走る)いわゆる女の子走りをしている人」を見た。

なぜその人だけを覚えているのだろうか、と僕は考える。小学校の近くで交通整理をしていた人、駅前であいさつ運動をしている人、電車で隣に座った人のことも覚えているけれど、印象には残っていない。何が特別だったのだろうか。

違和感と言ってしまえばそれまでだ。
性別が男性・女性の2つに区切られらることの多いこの社会に生きてきた僕には、見た目と動作の性別のねじれがあるとどうしても気になって目が行ってしまう。自分の今までの常識から外れるものを見ると興味を持つからだ。「男性の見た目で女性的なしぐさ」や、「女性の見た目で男性的なしぐさ」というのが、今まで生きてきた世界をもとにした価値観を通すと特異なものとしてうつる。

現実に起きたことは、通りすがりの人の走り方をぱっと見た、というだけのことだ。じろじろ見たわけでもないし、走っていたので相手も気が付いていないだろう。いいとか悪いとか、気持ち悪いとかは特に思わなかった。

だが、人を見ることは時に非難される。
日本人は周りが気になるから人のことをジロジロ見るとが、それは失礼なことでするべきでないと言われる。たしかに他人からジロジロ見られるとなんだか怖いし落ち着かないから、これはもっともだと思う。そうやって見た後に態度を大きく変える人を見ると、人を外見だけでしか評価できない貧しい心の持ち主だと思う。

ただ、気になってしまうこと自体は怒られることではないと思う。
格好は自分で選べる時代になっているし、性別を男女にだけ分けるのはナンセンスだと思う。だから、男に見える人が女走りをしていても全く問題ないと思う。ただ、めずらしいから興味を持ってしまう、ということなのだ。自然にその走り方になったのか、誰かの真似をしてそうなったのか。学校で走り方を指摘されることはなかったのか。年齢を重ねる間にその走り方に対して自意識を働かせる機会はなかったのか。それともそれを分かったうえであえてやっているのか。それとも、おじさんと呼ばれる外見をしているおばさんなのか。だとしたら、周りの人から見た目の性別をどのくらい誤解されてきたのか。おじさんと呼ばれる外見をした男性がただ単に女の子走りをしているのではないか。はたまた、おじさんと呼ばれる外見をしているが心の性別は男性ではなく、その心の性に沿った走り方をしているのか。
そういうことが気になってしまうのだ。

個人的には、目に入ったものが気になってしまうことは仕方ないけれど、相手に不快な思いをさせないようにすればいいと思う。気になったからといってじろじろ見たり、そのことで相手をからかうことは避けた方がお互い気持ちよく過ごせるだろう。誰が何を感じようと自由だし、他人に無関心になることの方が社会にとってはるかに危険だ。

この文章の初めに「女のように走る男」と僕は書いた。正確に表現することを意識するなら、「主に女性がする仕草をしている男性に見える人」と書くべきだっただろう。女の子走りを女性だけがする必然性はない。誰かが女性がそのように走る姿を見てそう名付けたことで、その走り方と女性性が結びついて、その動きを見るとで無意識に女性性を受け取ってしまう。そんなことに気付いたからあえて「女のように走る男」と書いたのだ。

泣かないこと、強いことが「男らしい」、気配りができる、おしとやかであることが「女らしい」と言われることがあるが、これはしばし現実とマッチしない。それは、ある動作に性別をリンクさせた言葉を当てはめると、繰り返すうちにその動作と性別のイメージがつながってしまうからだと思う。

動作と性別をリンクさせても今までさして問題になってこなかったのは、性別を男女で大別してきたからだ。その規範がいま変化している。変化していることで、これからどんどん動作は性別と繋がっていないことが明らかになると思う。

僕がたまたま見たあの走り方にも性別の関係ない名前が付けば、女性性から解放されるのかもしれない。言葉は何かを伝えるためにあるものなので、ひとつひとつが対象にあった形でないと、余計な誤解がたくさん生まれてしまう。世の中で誤解から生まれる問題の多さを考えると、言葉が現実に即していないのは良いこととは言えない。

見た目と性別を結びつける言葉を無理して使うのをやめる必要はない。けれども、現実を言葉で歪めないためにそろそろ新しい名前を付け直してもいい頃だと感じるのだ。


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