2月が来るたびに思い出す、私たち夫婦の失敗
「助けて!すぐ来て!長女がおかしい!息をしてない!」
風呂場に向かって、私は大声で叫んだ。
これは27年前の、とっても寒い2月の夜の出来事だ。
当時、私もいわゆるワーママだった。長女を出産して1年間の育休の後、職場に復帰した。
それと同時に、1歳の誕生日を迎えたばかりの長女も、丸一日を保育園で過ごす生活が始まった。
2月生まれの長女は、一番寒い時期に保育園の子になった。
ぬくぬくの家にずっといた子が、朝7時半から夕方6時まで保育園で過ごすのは、本人にはかなりのストレスだっただろう。
初めての集団生活で、疲れも出るし、当然のように風邪もひく。
そしてやっぱり、娘は体調を崩してしまう。
保育園に通い始めて1週間経った日の夜、今でも忘れられないことが起こってしまった。
*****
娘は夫にお風呂に入れてもらっていた。私は風呂場まで迎えに行き、娘をバスタオルにくるんでリビングまで抱いて連れてきた。
着替えさせようと長座布団に寝かせたとたん、娘が真っ青になった。
口から泡を出して、意識がない。
呼吸もしていないようだった。
私は慌てて、風呂場に向かって夫に助けを求めた。
シャンプーで頭が泡だらけの夫が、腰にバスタオルを巻いて風呂場から飛び出してきた。
「なんかがのどに詰まったんかもしれやん。」
私がそう言うと、夫はすぐに娘を抱き上げ、頭を下になるように逆さまにして、娘の背中をたたき出した。
私は怖くて体が震え、横でただ、おろおろするばかり。
すぐに娘は泣き出して、顔も赤みを帯びてきた。火が付いたように泣きながら私に手を伸ばしてくる娘を、私は夫から受けとって抱きしめた。
ヒックヒック言っていたがすぐに泣き止み、そのまま娘は眠り始めた。
体がかなり熱い。測ってみると、39度を超えている。
「救急車を呼ぶか。」
そう言って夫は、119番に電話した。
間もなく、救急車が到着した。
もう夜の9時半をまわっていた。
2月初めなので外は寒い。それでも、動転していた私は上着も着ないまま、毛布に包んだ娘を抱いて、救急車に乗り込んだ。
かかりつけの小児科へ向かうことになり、少し冷静になった。
初めて乗る救急車の中で、私は後悔ばかりを繰り返す。
自分が仕事をはじめたせいでこんなことになったんだ。
急に早朝から夕方まで、娘を親から離したせいだ。
私が悪い。
眠る顔に何度も何度も謝った。
急いで着替えた夫も、濡れた髪のままで、救急車の後ろを自分の車で付いてきていた。
病院に到着し、医師に事情を話すと、
「熱性けいれんですね。小さいお子さんは、熱が出るときにけいれんを起こすことがあります。救急車で急いで来るようなことではありませんよ。」
と笑って言われた。
ほっとしながらも、自分たちの無知を恥ずかしく思った。
『熱性けいれん』という言葉は知っていたが、息が止まったような娘を見て、それとは結び付かなかった。
本当なら、けいれんがおさまるまではそっと静かに様子を見なくてはいけない。それなのに、逆さまにして背中をたたいたり、救急車を呼んだり、無茶苦茶なことをしてしまった。
帰宅して落ち着いてから、母に電話で娘の痙攣のことを話すと、私も幼い頃、熱性けいれんを起こしたことがあると言われた。
私が舌を噛まないように、父は急いで自分の親指を私の口に入れたらしい。
相当痛かったのだろう、爪が割れて、指からは血が出ていたそうだ。それが原因で、父の親指の指先には小さな傷跡が今でもある。
「親はそうやって、いろいろ失敗しながら成長していくもんだよ。」
母の言葉で、少し気持ちが楽になったことを覚えている。
*****
救急車で娘を運んだ日から約一年経った大晦日の夜、また娘が熱性けいれんを起こした。
数日前から娘は少し熱っぽくて、体調が悪かった。眠っていたのに急に震えだし、顔が真っ青になったので、今度は熱性けいれんだとわかる。
前回の失敗で、少し落ち着いて対応できたが、熱があまりにも高くて急に怖くなってきた。
熱が上がるときに痙攣すると聞いているが、すでに熱があるのに痙攣をするなんて、おかしいのではないか?
しかも、眠っていて痙攣するのは、やっぱり変だ。
今のように、スマホでググれる時代ではない。未熟な夫婦は、なにもかもが心配になり、いてもたってもいられなくなった。
「病院に電話してみるか。一応、診てもらった方がいいんじゃないか。」
そう言うと、夫はかかりつけ医に電話をかけ始めた。
もう、年を越しそうな時間。
それでも医師は、診てくださるという。娘を抱えて、車ですぐに小児科に向かった。
到着したころにはもう、新しい年になっていた。
医師も晩酌をしていたのか、顔が赤いし、ちょっとお酒の香りがする。
医師にいつもの優しい顔は無かった。
当たり前だ。
真夜中で、しかも年越しの団欒の瞬間だったのだから。
「熱性けいれんで、なにも心配ないです。」
と、医師はぶっきらぼうにそうおっしゃる。
安堵とともに、医師に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
医師が薬を用意する間、寒くて暗い待合室はその作業の音だけが響いていた。
私たちは気まずい雰囲気の中、すやすや眠るわが家の「姫」の顔をただ黙って見つめるしかなかった。
帰りの車中は、夫と反省ばかりを繰り返した。
「悪いことをしたね。」
「先生、そりゃ怒るよね。」
「除夜の鐘って、聞いた?」
「聞いてないよな。」
「明日、ばあちゃんちに行くのは、どうする?」
「正月やけど、さすがにそれは無理やろ。」
そんな話を、新年早々、凍てつくような車内で夫と交わした記憶がある。
自分たちの突発的な行動を心から悔いながらも、正月をこんな風に迎えた自分たちをちょっと滑稽にも思えた。
それにやっぱり、あのまま不安な気持ちで年末年始を過ごすよりも、医師の「心配ないです」をいただけたことは、若かった私たち夫婦にとっては、本当によかったことだった、と思っている。
*****
それから長女は、小学校入学まで毎年、熱性けいれんを起こした。
念のため脳波をとり、特に脳には異常がないとわかったが、小学校でも急に熱が出て痙攣を起こさないかとしばらく心配した。
結局それ以降、痙攣を起こしたことはない。
長女は先日、28歳になった。
彼女の誕生日が近づくたびに、熱性けいれんでの自分たちの失敗を思い出す。
四半世紀以上も前のことだが、今でもあの日の怖さを鮮明に覚えている。
いつか笑い話になると思っていたけれど、未だに私には怖い思い出のままだ。
月日がずいぶん流れても、我が子がいくつになっても、子どもへの親の想いはずっと変わらない、ということなのだと思う。
そして、今でも残る父の親指の傷痕に、感謝を思う。
長文になりました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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