慣れきった世界から飛び出したいとき、信じられるものは
たまたま偶然、思わずつい、そんな反射的な反応を信用しています。
例えばnoteで自分の意識とは外れたところで、スキやフォローをうっかり押してしまうことがあります。
大抵の場合、それは誤作動として、そのクリックをキャンセルすることになる場合が多いのだと思いますが、わたしは状況によっては、敢えて訂正しないことにしています。
わたしが今繋がっているフォロワーさんの中に、記事を読んだわけでもなく、アイコン以外の情報は知らずに、どなたかのフォローかフォロワーさんの欄を何気なく見ていた時に、たまたま事故的に指が当たってフォローしてしまった方がいらっしゃいます。
間違えた!と気付くまもなく、その方はすぐさまフォローを返してくださり、その反応の速さと勢いに何かしらのタイミングが合ったのかもしれないと感じて、そのままありがたくご縁をいただくことにしました。
時々こういうことがあって、わたしはそういう時、自分の手の動きを尊重するようにしています。自分の意識できる範囲ではなくて、無意識の領域で反応した可能性があって、その中に人間という生き物が持つ、目に見えない完璧な感覚情報システムが作動した気がするからです。
その後、その選択に対して改めてどう感じるかはわからないけれど、これから上がってくるその方の記事を読むことで、いろいろ見えてくるものがあるだろうと、頭の片隅で楽しみにしていました。
月日が経ち、今思うのは、やっぱりご縁をいただいてよかったなってことです。
記事から漂う空気感が、とてもフラットで心地いいんですね。
不思議だけど、こういうことって日常でよくあることだと思います。
誰かとLINEのやりとりをしていて、思わず押してしまったスタンプとか(笑)そういう時、送ろうと思ったスタンプじゃないやつ送ってしまった!と慌ててしまうのですが、間違えて送ったメッセージこそ意外と本音だったりするんです。
あとはスーパーやコンビニで、何かに手を伸ばしてカゴに入れようとするとき、間違って掴んでしまった商品こそ、自分の身体に必要なものだったってこともあったりします。
そういうときは、頭の声(思い込み)を一旦横に置いて、自分自身の無意識の身体の動きを信じてみると、後から何か気付いたりすることがあるかもしれません。
人間って、自覚しているより本当に精密に出来ていて、たまたま偶然的に思える動きが、どんな目に見える信憑性のありそうな情報より正確だったりすることがあります。
年齢を重ねると、思い込みってどんどん強固になってしまったりして、その枠から外れて俯瞰でものを見ることは難しくなってきます。
そういう慣れきった世界から飛び出してみたいなと思うとき、偶然たまたまつい反射的に起こる身体の反応に判断を委ねてみると、面白いことが起こるんじゃないかなと、わたしはいつも思っています。
面白そうだと思ったら、ぜひ間違ってカゴに入れてしまったもの、買ってみてください ❤︎
なぜだかだんだん、ウキウキワクワクしてくるかもしれません。