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短歌は意識すると深くならない


初心者向けの話をしてなかった


朝起きてPCを見る。うん。見事にあんまり反応がない。
ちょっぴり期間限定で告知のためのTwitterも始めてみたのだけど、フォローもリツイートもない。

ビビられてるのだろうか? それともこいつ何ものだ? って不快に思われてるのだろうか…。

壁に向けて話す覚悟はしていた。しかし、少しはなにかリアクションがくるような気がしていた。かすかに残った元の知人にも「こんなの書いたよ―」って送ってみたけど、まだ返信がない…。

困ったあ…。まだ読んでるのかなあ――。「まだ読んでる」のに、ぼくがわんこそばみたいにどんどん文章を追加していくから、「読めないよー」と思われてるのかなあ。

それともこの口語全盛の時代に重箱の隅をつつくようなところから、いきなり「文語の魅力」なんてやったのがまずかったかあ…。

ということで今日は「初心者向けの話」をがつんと入れてから、次の文章で文語の話をする。口語と文語どちらにも使えるから、参考にして欲しい。

感想をいう専門家の責任


たまに「こんな短歌の冊子出しました、買ってねー」って宣伝する人がいる。ぼくはそうやって見本をみたとき「感じのいい歌ですね」くらいで適当に逃げる。みんなそうなのかもしれない。冊子を出した人を傷つけるのが嫌だから、「挨拶程度の感想」を言う。

ダメだ。ほんとはダメなんだそれでは。

ぼくはなんと思われてるのか知らないけど、それはどうでもよい。
ぼくは短歌の専門家だから、いくら仕事だろうが趣味だろうが見せられた短歌については「適当なこと」を言ってはいけない。

短歌は社交ではない。
たいして仲良くもないのに仲良しごっこなんてしてた自分を恥じる。それでみんなが喜ぶから、ぼくはみんなに喜んでほしくて適当なことを言っていた。

それこそが最悪だ。何だ、この「仲良くしよう」みたいな同調圧力は。
それで日本語が死んでしまったのなら、気づいていたのに気づかないふりをしていたぼくは最悪だ。責任を取って上皇陛下の代で殉死をする覚悟である。

もはや歌のレプリカントしかないのに、歌人を名乗るなんて不遜だ。ほんとうの短歌がないのに、歌人だけいるなんて滑稽だ。他ジャンルの方に「すいません、ぼくたち、完全に僕たちの責任で短歌を滅ぼしました」と平謝りするしかない。まだ本当の短歌を探し続けるか、一から教えるか、それとも死ぬかをぼくは考えている。かなり真剣である。

SPBSを読む


そんな気持ちで朝、PCに座ったらふと「そうだ、沼谷さんの冊子があった」と思いだした。僕は、はじめてSPBSからでた名久井直子さんや筒井奈央さんが手掛けた歌集を買ったのだった。著者は沼谷香澄さん。「買ってください書いてください」というから、「ぼくメチャクチャ書くから宣伝になりませんよ」と言ったけど、「それがいいんですよー」と言われる。一部買った。

沼谷香澄さんのSPBSから出た歌集は、冊子みたいなかんじで40首くらいしかない。1000円。中身はいつもの沼谷さん。

うーーん。歌集を出す体験はできる。しかし、歌を練磨する作業を怠ったら、ただの57577が書かれた小冊子でしかない。

沼谷さんの歌歴はたぶん僕より長い。長く短歌をやっていて人脈もある。感想のところに「白の会」や「未来短歌会の黒瀬欄」の人たちの名前もある。でもみんな、当たり障りがない感想ばかり。相手を立てているうちに、いつのまにか建前を言ったらそれが本音になってしまったのか、そもそもそれが本音なのかはわからないけど。

まあ自分としても「ガリ版刷り」とか「コピーの歌稿」を見せられたときは、「まだまだ直せるね」と言えるけど、お金をかけて冊子になってしまったら「何も言えなくなってしまう」気持ちはわかる。

みんなが「歌集を出す体験」をするために短歌をやっているんだったら何も言わない。ただ、本質的にはぼくは「歌集」なんて残さなくてもいいと思っている。「歌が下手なのに歌集だけだす」なんて恥ずかしい結果になるだけだし、「ちやほやされたい」という個人的な欲求を満たすための歌集なら、買っているのは「ちやほやしたい」人たちだろう。話にならない。

むしろコンビニでコピーの原稿を持ってきて、「僕の歌どうですか?」と色んな人に尋ねて回るほうが潔いし、格好がいい。

正式な歌集になるまでに10年20年、歌を練磨する努力がなければ、いくら歌集の出し方なんて学んでも無駄だと僕は思う。どっかの森林が伐採される。「歌集出したい人」の欲が緑をへらして地球温暖化を進めているんだよな、くらいの気持ちになる。

沼谷さんはちょっと印象が違ってて、昔から「受けたい講座」があると単純にいろいろ出席していた印象があるから、その一環かもしれない。今回もカジュアルにぼくに冊子を見せてきた。妻のことも気にかけてくれていた。肩にちからの入っていない人だ。

今日はSPBSから刊行された沼谷香澄著『宝石をかなとこにのせハンマーで砕く事象のなかの月光』をもとに、「(初心者むけに)短歌とは何か」の話をしたい。めっちゃ具体的な話だ。

沼谷さんは「意識」で作っている


簡単にいうと沼谷さんは「意識」で歌を作っている。「えっ、それ、何が悪いの?」という反論を聞くことになるかもしれないけど、「あ、ここでこのアイテムを使ったらちょっと感じがいいかも」みたいな感じで、自分でかんがえて「道具」を置いているような作り方をしている気がする。

「いつもの沼谷さん」とか、「沼谷さんは進歩しないなあ」という印象があるとすると、読んだ歌からぼくが逆算した沼谷さんの「歌の作り方」があんまり進歩してない気がするからだ。

たとえばこんな歌。

たましいは蹄の形状りうりうと雲の牧場をゆくポワントで

結構「道具立て」はおしゃれだから、短歌というジャンルを知らない人は「あっ、素敵」って感じになるだろう。そもそも日本における創作は、いつのまにか「意識して道具を出す」ことに慣れすぎてしまった。

小説やゲームで登場人物を考えるとき、「どんな人物にしようかな」とか、
「ラストシーンではどんな舞台を設定しようかな」みたいな、そういうふうな「考え」で「世界を設計」するだろう。

みんなそれに慣れちゃってるから、初心者は短歌を作るとき、同じようになんとなく「これかな?」みたいに、歌に出すアイテムを「意識して選んで」しまう。

それだと作りやすいけど、小説の作り方というか、ファンタジーの「設定」みたいになってしまうので、どこかで「意識しない」とか「意味は違うけど、いまの自分がなんとなく感じている感情や強く思っている想い」を素材に入れ込むほうが短歌らしい。

沼谷さんは長くやっているのに、おそらく結社にいてもそういう「癖」を直されてこなかった。結社の教育システムも万能ではないし、沼谷さん自身の取捨選択もあるだろう。しかし、残念ながら沼谷さんが作っているのは「短歌」ではない。日本語ベースの思考が西欧化したり、意識化されすぎていてしまったから、短歌のレプリカしか作れない歌人が増えてしまったのだ。

再掲する。

たましいは蹄の形状りうりうと雲の牧場をゆくポワントで


この歌など、見立ての時点で「あ、置いたな」というのが見切れる歌だ。ポワントはつま先立ちのことだから、バレエのあのポーズだというのはわかる。たましいが「蹄の形状」をしているというのも、特に理由はなく、そう考えたらおもしろいから、だろうし、りうりうと「蹄の形状」のたましいが「ポワントで雲の牧場をゆく」のも、そう見立てたほうが「作者が面白い」と思ったからだろう。素敵なのは作者のアイデアだけで、歌そのものには全然面白みが無い。アイデアのみがそこにあって、それを下支えする感情がないから、歌としてあんまりよくわからない。おそらく沼谷さんは、基本的な短歌の作り方がわからないのだ。だから沼谷さんはいつまでも短歌がうまくなったように見えない。

では基本的に「短歌」と一体なにが違うのか。もともとの短歌とはたとえばこういう感じである。

さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり 

馬場あき子

誰でもいいのだけど、馬場あき子さんの代表歌を出す。なんで「身に水流の音ひびく」のか、じつは多くの読者は意味がよくわからない。でも上の句では、桜の花に対して「お前何年かけて年をとっていくんだ」と呼びかける作者の声があり、そのとき「からだに水流の音が響いた」と言っている。この意識しない「感じ」を言葉で言うのが、多くの人のこころに残る名歌になるのであって、意識、意識、意識、では歌にはならない。かならず「無意識の感情」が歌には必要なのだ。

沼谷さんがもし、ほんとうの歌集を作る場合、全面的に改作をする必要があるだろう。

ぼくが「型」を身につけるまで


短歌を始めて間もない人に教えられることはあんまり多くないと思ったけど、急にぼくが「うまくなった」と感じたのは短歌の型を下手でも自分の体に入れた瞬間だ、と思いだした。そのときのことを話せば、なにか始めたばかりの人の役にたつかもしれない。

最初投稿に出したとき、ぼくはかなり自信満々に提出して10首か20首作った。ところが、枡野さんのところでは、まったく箸にも棒にもかからなかったし、笹さんのところでもまったく引っかからず、笹井宏之さんが天性の才能で「絶妙」と言われている中、ぼくは「なんで自分の歌が落ちたのか」全然わからなかった。

ある日、とうとう思い詰めた僕は仕事を休み、新宿でやっていた笹さんの講座に出て、はじめて「短歌には型がある」という襲撃的な事実を知る。

講座に出て次のお題が「酒」で、その型を理解したぼくはおそろしいほどの「採用」率を叩き出した。

比較のために、恥を晒すようだけど、2006年にぼくがcocoaというハンドルネームみたいなペンネームではじめて投稿した歌を紹介しよう。

雨の日は外に出れない ぼんやりとwindowsを開いたままで 

cocoa(西巻真:2006年)

自分で書いていて恥ずかしくなったのだけど、これはひどいと言うか、ただの思いつき短歌である。

笹師範はおそらく「windows=窓」だという当たりさわりない、おもしろみのない発想に何も惹かれなかったから「その他注目作品」になった。選外だ。ぼくは単に「意識して」というか「考えて」「ウィンドウズだから窓」みたいな発想で投稿したから、なんの感情もない歌ができたのだった。

そこからぼくはじーっと笹短歌ドットコム(その前のJWAVEのブログも含む)にでてくる歌をみていたけど、笹師範の「型」に自分の短歌を合わせた結果、講座後の「酒」の題で劇的な飛躍を遂げる。

たしかこれだけ出して、結果はほぼ全部載ったはずだ。

頭骨でビールの瓶は砕けるとはじめて知つた団欒である
白鶴はほろ苦きかな 特攻機落ちゆく映画見つつ含めば
シャンメリーの売れ残りだらう 自らをオフィスの花と言ひし女は
封印を解かれて泡はあふれだす このまま海へ出ようと言った
上目遣いでこぼれる泡を舐めている きみはとかげのようにさみしい
はじけとぶコーラの泡のはかなさはCuba libre(キューバ・リバー)をうらやむように
ブラッディーマリー飲みつつ「ニッポンはやっぱ革命必要だよね」
ステアせずシェイクでウォッカマティーニを ロシアにいつかおしやれな赤を

西巻真(笹短歌ドットコム)

笹さんは『才能は努力に比例する』と褒めてくださったけど、ぼくは笹さんの講座にでて、短歌って「型」があるんだ、と気づいてはじめて、急激に歌がうまくなった。発想は以前の窓=ウィンドウズみたいなのとあんまり変わってないんだけど、そういうふうに「窓=ウィンドウズ」という発想に、「自分の感情をいれる作業」をするよう心がけたら、短歌の型になる。

たとえば上の句と下の句の間に「自分の独自な感情」を入れる。

上目遣いでこぼれる泡を舐めている きみはとかげのようにさみしい 
白鶴はほろ苦きかな 特攻機落ちゆく映画見つつ含めば
シャンメリーの売れ残りだらう 自らをオフィスの花と言ひし女は
ブラッディーマリー飲みつつ「ニッポンはやっぱ革命必要だよね」

笹公人『念力短歌トレーニング』より「酒」

4首はいま、本に載っている。なぜ「とかげ」なのかというと、さみしさと変温動物が結びつくからであり、上目遣いととかげの目がにているからだ。

白鶴と特攻隊の歌はいい出来ではないけど、これは感情の苦しみが入っているから、ギリギリセーフ。

シャンメリーには「売れ残り」と「女」がかかっているんだど、そこには怒りが含まれ、さらにシャンメリー(クリスマス)と花が対応している。

4種目は多分、このセリフの軽薄な口調とブラッディーマリーのバブリーな感じがついていて、そこに革命がくっついている。あんまりいい歌ではないけど、気持ちを感じるからセーフなのである。

こういうふうに、感情を見立てにいれることで、ぼくは「短歌に型」があることがわかった。

初心者でも使える「型」の身につけ方


ぼくがもし短歌の型を身につけるのに一番いい方法はなにかとアドバイスするとすれば、「情景という言葉をわすれないで」という一言に尽きる。

昔、上の句で感情を言って、下の句で風景を書くみたいな「問と答えのあわせ鏡」みたいなのを結社「塔」の前主宰、永田和宏さんが言って有名になった。『表現の吃水』という歌論書がいまも書店にあるかはわからない。

それを踏まえて初心者向けにいうと

上の句(気持ちを述べるパート) + 下の句(情景を詳しく描写するパート)

という型をまず身につけようということだと思う。「作例」として上の句だけ作ってみる。

うつくしくぼくは生きたい/


これが上の句(気持ちを述べるパート)である。

では下の句をどう作るか? というのが問題だ。

スクロールしたらぼくの答案が出てくるので、考えて作ってから見てほしい。












この問題は、別にどんな情景を入れてもいいのだけど、

この「うつくしくぼくは生きたい」という感情がしっかり下の句に引き継がれて、しかも何か意外性がある下の句が良い。

ぼくはこんなふうに下の句をつけた。

うつくしくぼくは生きたいキラキラの小銭ばかりの財布を捨てる

下の句は「キラキラ」と「うつくしく」、「生きたい」と「捨てる」が対応して、心情を読み取れるように作った。

こういう「感情の響き合い」がないと短歌にならない。
それが僕が発見した、上の句と下の句の間に響く「型」だった。

短歌はこういう型の変奏(バリエーション)ばかりをまず型として覚えたほうがいい。読者に感情を読み取らせるようにぜひ作ってほしい。

一度短歌の型(これは技法だ)を身につけると、あとで急激に短歌がうまくなる。ぼくは技法を身につけるのは「一瞬」だと思っている。

ぜひ「短歌」を作ってみてほしい。

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