「呼び捨て」カルチャーで手にした、自然体のコミュニケーション エッセイ#67
アメリカで生活しはじめてから、当たり前なんだけど、
誰かを「さん付け」で呼ぶことがなくなった。
基本的に、こちらで出会う人たちはみんな、下の名前で呼び捨てなのだ。
(プライベートで出会う人たちの場合)
年上でも年下でも。
そして、敬語もないから、相手によって話し方が変わらない。
友達同士でしかしない話し方、上司やお客さんに対する話し方、丁寧な話し方は、
もちろん英語にも存在するけれど、
日本のガチガチの敬語に比べると、はるかにフランクだと感じる。
(私の英語力の問題もあるかもしれないけれど。笑)
日常生活で出会う人たちは、どんなに偉い人でも、どんなに年上でも、基本的に、下の名前で呼び捨てで、
(失礼のない)タメ語で話しているような感覚なのだ。
それがはじめは、違和感すぎて、
どうか「さん」をつけて呼ばせてくださいぃ!と、心が叫んでいました。笑
だって、知り合いのIT系会社を複数経営する女性社長(ちょー歳上)にも、
挨拶は、「ハーイ、エリザベス」だし、
私たち夫婦とよくディナーを共にするご近所の優秀なお医者様(ちょー歳上)に対しても、
会った時もメッセージを送る時も、
「ハーイ、スティーブ(呼び捨て)」。
一緒にご飯を食べている時も、主人と話す時とさほど変わらない話し方をするわけです。
そんなフラットでフランクなコミュニケーションの中で生活していたら、
私のコミュニケーション観が大きく変わっていった。
だんだん上下の感覚が薄れていって、相手がどんな人であっても、どんな立場でも、何歳でも、
一人の「人」
というフラットな目線で見るようになっていった。
相手を上にして、自分を下にさげるような、感覚がなくなった。
相手が上でも下でもないし、自分も上でも下でもない。
相手がものすごい優秀なCEOであろうが、
寄付を求めてくる移民の子どもであろうが、
私にとっては、全く変わらない一人の「人」であり、
相手が誰であっても、自分より上でも下でもない。
そんなフラットなコミュニケーション観が育っていった。
上下や優劣ではなく、全部が横並びになっていって。みんな色が違うだけ。
そんなカラフルな世界観に変わっていって、
自分を含む全ての人にリスペクトを持てるようになった。
すると、どんな時も、自分が自分のままでいられるようになって、
生きやすくなったし、
そんなフラットな感覚が、すごく心地よくて、私はとっても気に入っている。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました😊
Have a good one!