「やればできる」と自己肯定感 ー自己肯定感の低い状態で握りしめていた「やればできる」からの考察
今日はお天気がくるくる変わり、
ものすごい雨風とひょうまでふったと思ったらすっかり晴れて、そしてまたどしゃぶり、、という不安定な天気。
午前中は用事があって自転車で出かけていたのだけど、雨が降り出す一歩手前の、まさに危機一髪!のタイミングで家にたどりつけて、
そういうときって、なんとなくポイントアップしたような、、謎の達成感がありますよね^^
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そんな今日の午後は家で事務的な仕事をコツコツ終えた後、
なにをきっかけにだったか
「やればできる」ということば と
「自己肯定感」
について考えていた。
「やればできる」って、
ポジティブな感じで自己肯定感とセットみたいに語られることも多いけれど、
ほんとうにそうだろうか、と思ってしまうことがある。(もちろん内容(その語られ方)によるのだけど)
というのも、
自己肯定感がスーパー低い状態で生きてきていた
(コーチングに出会う前の)わたしだって、
「やればできる」って超思ってたし、
どちらかというと、それを必死に握りしめてた感じだったから。
今思えば、自分という存在の価値をちっとも信じられずに生きていたわたしにとっては、
「やればできる」は自分を保つために必要なすべで、大げさに言うなら生きるために必要だったんですよねー、10代くらいまでとか、子どもだったころは特に。
イメージ的には、くらくてふかーいところにいるんだけれど、そこに垂らされた「やればできる」というロープにつかまっていたみたいな感じ?
(ああ、あのころの自分の暗さについてのたとえが止まらない、、、笑)
でもそんな状態のときの
「やればできる」は実際エネルギーになるんですけどね、だって必死だから。
その「やればできる」を、
実際「やって」、「できた」にしないと
わたしにはなにもない、と思ってたから、
できない = だれにも認められない、
=だれにも認められないと孤独で死ぬ からね。
そういう意味ではお守りみたいに
「やればできる」を握りしめてたのかもしれない。
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で、ですよ。
そんなころを振り返り考えながら思ってたのは、
ほんとうに自己肯定感が高い人って、
わざわざ「やればできる!」って自分に言い聞かせたりしなくない??
ということ。
自分の可能性ふくめ「自分のことを信じられている」という状態がベースにあれば、
やりたい!と思ったことは、
できるとかできないとか考えなくたって
「やりたいからやる」だろうし、
やってみて仮にうまくいかなかったとしても、そんな(できない)自分も淡々と受け入れられるし、
でもそこからの可能性も信じられるから、
もっとうまくできるようになりたければものすごく努力することもできる。
そういうのを"悲壮感なく"やれる状態なのだろうな、と思うのですよね。
どちらかというと、鼻歌うたうみたいな感じで^^軽やかに。
ということから考えても、です。
「やればできるよ」って、
自分に言ってあげるのも子どもに言ってあげるのも、それがそのままには自己肯定感を高める魔法のことばにはならなくて、
(え、だれもそんなこといってない?笑)
場合によっては呪いにもなりうる。
だって、
実はそう思えていないのに「やればできる」って思いこもうとすると、どういうことが起きやすいかというと、
やればできる自分でいなければいけない、
と思って苦しいし、
できない自分は認められないし、
やってできないことも怖いから、ブレーキにもなりうるしね。
(わたしがそうだった)
なんというか、「やればできる」といいながら
悲壮感でいっぱいで、ぜいぜいしちゃう感じ?
いやー、、、
もっとぴょんぴょん軽やかにいきたいですよね
あれこれ考えずに^^
ということで、
午後のわたしの脳内トークwは、
自分に対しても、子育てにおいても
自己肯定感を育てるのは、おいそれとはいかず
やっぱりベースから整えていく関わりが必要だよね、
といういつもどおりのところwに落ち着いた、というお話でした^^
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